3.嫉妬の重力
いよいよ自分がBEASTだと気付き始める龍。現実と絶望に打ちのめされる中、訓練は進んで行く。
昼礼開始一分前になるとほとんどの隊員が小隊ごとに並び不動の姿勢で開始を待っていた。すると全く運動などしていませんと口にしなくてもわかるような体型をした先任曹長が朝礼台に上った。
「連絡事項の前に、以前行われた射撃検定で優秀な成績を納めた隊員に表彰式を行います。名前を呼ばれた隊員は前へ」
先任曹長が手元に持っていた書類を捲り始めた。リストを探しているのだろう。隣に並んでいた高月が小声で話しかけてきた。
(龍は何点だったよ? 五十点中で)
(三十四点、ちなみに点検射は四十。お前は?)
(四十二点、点検射四十一点)
(……)
『負けているぞ?』
(黙れ)
嫌な気分な時に決まってこいつは話しかけてくる。先任曹長の手が止まった。
「三小隊の多々良三曹、阿良木士長。一小隊の清滝二曹、高月三曹、赤川一士前へ」
名前を呼ばれた隊員は素早く朝礼台の前に並び、整頓を終えると敬礼した。一小隊で俺だけが隙間のできた列にぽつんと立っているのを見た青龍はゲラゲラと汚く笑った。
『おいおい、お前以外の班員みんな行ってしまったぞ?』
しかも前に出た五人の内二人は新米だ。自分より歳も階級も下だ。五人の、結衣の背中があまりにも眩しすぎて俯いてしまった。
結衣はいつも俺の数歩先を歩き進んでいく。手が届きそうと思えば既に違う所に行ってしまう。
『ホント、現実はうまくいかねえものだな。あれだけ練習したのに帰って来たのは妬み、恨み、そして己の無力さ。いいぜ愉快だ』
またあの憎たらしい笑い声が俺の拳を固くさせた。
『だが安心しろ、そんな思いをする事はもうすぐなくなる』
(いつ?)
『この調子なら案外近いかもな。だがそれも、お前の心の陰がどれだけ膨らむかによる』
相変わらず青龍の言っている意味はよくわからなかった。
『まあ、早い話「新たな自分を受け入れる」か「今までの自分を捨てる」時にはきっと世界が変わる。そのためにも、もっと感情を膨らませてくれ』
首を傾げると表彰状を受け取った隊員たちが小走りで戻って来た。
「では各小隊、事後の行動に掛かれ」
各小隊が敬礼を済ますと解散してそれぞれの目的地に向かった。一小隊はこの後格闘訓練がある。ポケットに皮手袋が入っていることを確認すると高月と一緒に訓練が行われる広場へ向かった。生活隊舎から北へ進むと開けた広場がある。そこでよく格闘や射撃の訓練が行われる。
軽く準備運動を済ますと二人一組を作った。今日は約束稽古で、決まった内容をお互いに繰り返すと言うものだ。今回は最も苦手な手の関節技だ。足は手に比べ細かな運動が出来ないため技を決めやすいが、手や腕となるとそうもいかない。それに関節技は力を必要としない分、力の向きや、掴む位置がシビアに求められる。ほんのわずかにずれるだけで全く相手に通じなくなるからだ。高月に胸倉を掴んでもらい俺が手首返しで高月をダウンさせ無力化するつもりだったが、まごつくだけで技が掛からなかった。
「親指をこの位置に、残りの四本で母指球を掴んで…」
「こうか?」
高月の言うとおりにするがあまり変化は感じられなかった。そこに見るだけで嫌気がさすイケメンの水瀬二尉がやって来た。
「高月君、少し掴んでもらってもいいかな」
高月が水瀬の胸倉を軽くつかんだ。
「いいかい吉隠君、今の君は力でねじ伏せようとしている。でも関節技はそうすればそうするほどかからないんだ。肩の力を抜いて抑えるべきポイントだけを見る。手首返しは相手の手を掴む位置、手を返す向き。後は流れで」
水瀬が高月の手首をつかむと流れ落ちる流水のようにスムーズな体捌きで高月を地面に倒した。地面に倒された高月も感嘆の声が漏れた。
「関節技の利点は力が必要ない、あと体格に差があっても通用する事。体得できればいい武器になるよ」
「はい……ありがとうございます」
技の解説は非常にありがたいものだったが、それ以上にこれほどの差を見せつけられ重苦しい気分になった。それと同時にその捻くれた自分の性格にも嫌気がさしていた。
「よし時間だ。皆手を止めて!! 次は組手をやるよ、皆それぞれしっかりと目的をもって挑むように。五分後再度集合、以上。解散」
それぞれのペアは休憩に取り掛かったりそのまま続けて練成したりしていた。
「龍、俺便所いってくるわ」
「おお、遅れんなよ」
用を済ませに行った高月の背を見送ると、後ろからよく聞く二人の声が聞こえた。反射的に振り返ると結衣が水瀬に話しかけていた。視線が釘づけになるが二人とも俺の視線に気づいていない。見た感じ、技の指導を頼んでいる様だった。結衣の質問に対し手取り足取り教えている。どこか和やかな雰囲気を見て、自分の胸にポッカリと穴が開いたような気分だった。相手にあって自分にないものが多すぎる。
だがそれでも諦められない物があった。もう味がしなくなったサプリメント飲料で水分補給を済ますと水瀬の所へずかずかと歩み寄った。
『お、やるのか』
(ああ、でもお前は手を出すな)
水瀬と結衣がこちらに気付いた。
「ん? どうしたの龍?」
「水瀬二尉、次の組手で俺の相手になっていただけませんか……本気で」
結衣が仰天した表情を見せた。それも無理もない、なにせ水瀬は極真空手の全日本大会で成績を残した強者だ。
(正気? あの人が本気出したら大変な目に合うわよ)
結衣が小声で引き止めようとしてきた。だがそれは俺の闘争心をより掻き立てるだけだった。
(承知の上で頼んでいるんだ)
(挑戦と無茶は違うって)
「いいよ、でも言ったからには容赦しないよ。それでもいいのかい?」
あの余裕のある笑みが俺のうなじをざわめかせた。
―――憎い…どれだけ俺を惨めにしたら気が済むんだ
「水瀬二尉もたまには激しく動きたい時があるでしょう?」
水瀬が軽く笑った。
「そうだね……よし、全員プロテクターを着けて集合!! 組手を始めるよ、なるべく先輩と後輩でペアを作ってくれ。じゃあまた後でね清滝さん」
そういうと水瀬は自分の鞄の元へ駆け寄った。結衣は呆れ顔になっていた。
「やめときなって龍、そうやって無理して強い相手に立ち向かっては、ボロボロになって泣いて帰って来るじゃないの。もう慰めないわよ」
「昔の話はやめろ」
その場の全員が持ってきた鞄の中からプロテクターを取り出して着用し、ペアを作り出した。約束通り水瀬は俺とペアを作ってくれた。
先に他のペアから稽古が始まった。教官は全員同時に行うのではなく、見るのも勉強と言う事で皆の前で順番に組手を始めさせる。だが俺はどうやって水瀬と戦うかをずっと想像していた。今までの経験をフル活用してあらゆる戦法を試した。
『勝算はあるのか?』
(ない。でもただでは終わらせない)
『オレが力を貸せばあんな人間イチコロだぜ?』
(黙って見ておけ)
『そうかい……まあ、せいぜい頑張んな』
小さな応援を最後に青龍の気配は消えた。
「水瀬二尉、吉隠三曹前へ」
鋭い返事の後、素早く前へ出た。その後を追うように水瀬も出てきた。
「お互いに、礼!!」
教官の号令で俺と水瀬は決まった角度まで頭を下げ、それぞれいつもの構えを取った。
「始め!!」
一気に距離を詰めて突きを連続で放った。水瀬は上体を軽く逸らして避けるか、手でいなした。
(水瀬はカウンターが得意。少しでも間を空けたら全部動きを読まれる)
得意の回し蹴りで太もも、横腹、首を襲いにかかるが、ガードされるか受け流される。水瀬も守るだけでなく反撃してくる。ここから突きで鳩尾やレバーを狙ってくるのはある程度分かっていた。ほとんどの突きは受け流し、いくつか当たったがそのほとんどは骨や筋肉に当たりダメージの内には入らなかった。
下突きで腹を狙ったがそれと同時に、水瀬の鋭い突きを喉に入れられた。カウンターだ。怯んだところを力任せの前蹴りで突き飛ばされた。
(最悪だ、距離を置かれた!!)
その前蹴りは間合いを大きく開けるためのものだ。お互いリーチが届かない中途半端な距離間、これが俺にとって最悪で、水瀬にとっては最高の領域だった。手足の長い水瀬は少し距離を詰めれば攻めに廻れるが、身長と手足共に短い俺はもっと間を詰めなければならない。そしてこの距離間は水瀬の得意技、カウンターの領域だ。リズム感が良い水瀬にこの間合いから技を仕掛ければまず読まれる。
(どうする、様子を見るか? いやだめだ。多少貰ってでも懐に入り込まないと―――)
一瞬視界が暗くなると鼻に途轍もない衝撃と痛みが走り、鼻血が流れ出た。水瀬の前蹴りが槍のような勢いで俺の鼻に突き刺さった。そこから鳩尾、横腹、顎の順に突きの連打を喰らった。あちこちから鳴り響く痛みの警報が完全に俺のペースを掻き乱した。更にそこへちょっとしたフェイントを入れられる事で完全にパニックに陥った。防御と言える防御も出来ず、ただ体が縮こまっていく。
(ちくしょう!!)
感情に任せて大ぶりのフックをした時「ああ、やってしまった」と後悔した。身を捻じってフックを避けると同時にレバーに重い突きがねじ込まれた。内臓を潰されたような激痛が俺の体を硬直させた。止めと言わんばかりに体の捻転を最大限に生かした後ろ回し蹴りがこめかみに向かって風のように流れた。脳が大きく揺れ意識が朦朧としていくなか、水瀬の余裕の笑みが視界に入った。
(ちくしょう…ちくしょう……あの顔…)
その後視界が闇に包まれた。
補足
階級は低い順から
士 曹 尉 佐となって、数字は小さいほど高い位置に属します。