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名無しのラブコール

作者: フウセン

 今頃、彼女はどうしているだろう……。

 いや彼女が今、何をしているか見当は付く。

 ただ、所在地が把握できていないだけ。

 はあ、俺がこんなことを考えても仕方がないよな……ホント、俺はあの子の父親かって。


 夕暮れ時。

 橙色に包まれる私立高校に、人気のない無人の教室。

 俺は窓端の一番後ろの席で一冊の本を手に机にもたれ掛かっていた。

 帰る準備はとうにできている。


 今なら少し、ほんの少しだけ彼女の言動が理解できる気がする。

 会う度々にドキッと胸を弾かれるような、一目惚れした時と変わらず揺れる白銀の長髪。

 思い出すだけで身体がかっと熱くなる。


 彼女と過ごしたこの一ヶ月、俺は思う存分楽しめた。

 彼女と二人で街に出た時の彼女の反応なんて傑作だった。

 世間知らずにも程がある! と頭の中で何度突っ込んだことか。


 一ヶ月間という期間は恐ろしい程に瞬く間に過ぎ去り、俺は独りになった。

 彼女との一ヶ月間に終わりを迎えたのは昨日のことだ。

 そのはずなのに随分昔のことに思える。

 それ程、彼女と俺の間は壁一つない、手を伸ばさずとも触れ合える距離だった。

 少なくとも俺はそう思ってる。

 だってそうだろ?

 何年も親しくなれずにいた女の子と仲良くなったんだぜ。


 だけど、心なしか胸は痛まない。

 いや痛んでいるかもしれないが、気に掛けることでもない……ないんだ。


 たった一日会えなかっただけで、彼女の青く澄んだ瞳が懐かしく感じる。

 赤く染まった頬も、引っ付かれた時の彼女の甘い匂いも、彼女の制服姿だって懐かしく愛おしく感じる。

 彼女は小さな手で、いつも俺の手を握ってきた。

 彼女と始めて会って一週間後には腕に引っ付いてきたっけ。

 えへ……、えへへ……。

 おっと、いけね。

 よだれが垂れるところだった。


 その当初は、きっと甘えたい盛りなんだろうと思っていた。

 周囲からすればただの迷惑カップルだっただろう。

 よく注意されずに済んだもんだ。


 彼女の方が一つ年上で、学年が違っていた。

 彼女が三年で俺が二年。

 それでも休み時間になると、毎度俺のクラスに来ては俺の膝の上で落ち着いていた。

 その時の彼女の匂いは蜂蜜のように甘く、ぎゅっと抱きしめたかったが、さすがに学生の面前でやろうとは思えず思い止まった。


 それにしても彼女の美貌さには目を引きつける魅力がある。

 童顔のように思えて、大人びた表情を時折見せる彼女に俺は夢中だった。


 彼女との日々は夢のような一時で、現実感のない充実感が毎日あった。


 だからこそ、昨夕の彼女の発言には疑問符の何物でもなかった。


 ――あたし、やるよ! 君に言われたこと、成し遂げるから!


 普段はお淑やかな彼女が興奮するのは珍しい。

 だから俺は質問した。


 ――何の話だっけ?


 すると彼女は自信に満ち溢れた表情で言ってしまう。


 ――大丈夫、あたしの問題だから。あたしはこの問題を今まで抱え込んでいた。でもでも! 君は言ってくれた、我が儘は言わないと損、やらないと損だって。


 ――ああ、まあな。一週間くらい前のことだろ? それがどうかしたのか?


 ――あたし、決めたの。自分の我が儘を貫くって。


 顧みれば、彼女はいつも独りだった。

 俺の知る限り、誰からも声を掛けられていなかった。

 彼女の容姿と学業は周囲の人と違い過ぎて、周りから理解されていないのかもしれない。

 彼女を周りに理解させようとしたら、この世界が変わってしまうだろう。


 彼女は普段、どう過ごしているのか興味を持った俺は以前に三年生の階に上ってみたことがある。

 なるべく身を隠して、彼女のいる二組を覗いた。

 三年二組の窓端の一番後ろの席。

 そこには、退屈そうに机へもたれ掛かっている彼女がいた。

 その日は、明日から中間考査が始まるということで、学校全体が勉強モードだった。

 それは三年生も同様で、三年二組の生徒も自分の机に必死で向かっていた。

 俺は彼女から勉強を教わったことがある。

 丁寧で詳細で、理解しやすい彼女の教えが好きだった。

 溶けるように浸透する彼女の声に、目の前で揺れる彼女の髪は忘れることないだろう。

 加えて、彼女には雑学の知識も備わっていた。

 それは高校生の範疇を超越したようなもの。

 それもこれも学業優秀で勉強熱心な人にしか得ることのないものだ。

 だから、考査前だというのに参考書を机の上に出すことさえしない彼女が不思議だった。

 




 あたしは彼と過ごしたこの一ヶ月間、思う存分はしゃいだ。


 夕闇の覆われる私立図書館。

 館内の入り口から対角線上にある窓端の席。

 あたしはお気に入りのノートを開いて、右手には黒ボールペンを持っている。


 彼はあたしの甘えを受け止めてくれる。

 そのせいか、あたしは彼を見ると無性に甘えたくなる。


 優しく、芯の太い彼のおかげで、あたしの退屈だった学生生活に色が出た。


 ああ、彼の頭ナデナデは最高だった……。

 どんなに辛いことがあっても、彼の頭ナデナデであたしの心は癒された。

 そっと擦る手法もよかったけど、大胆にくしゃっとされるのも大好きだった。

 頭をナデナデされた日には悪い夢を見ない。

 寧ろお菓子の家が出てくるくらい、楽しい夢になった。


 優等生だったからか、大人に見られるあたしは本来の姿を胸深くに押し込めていた。

 それは、一目惚れした彼と出会った時に弾けてしまった。


 あたしにはない、彼の堂々としたところが好きだった。

 どんな人とも気兼ねなく話して、周囲の人を温めるような彼の雰囲気。

 誰かをすごいと思ったことは一度もなかったあたしが、彼に会って初めて人に感動した。


 彼と話し合うまでは、眠れぬ夜が続いた。

 想像豊かなあたしの頭は、退屈な時間に彼の妄想をさせた。

 それも楽しく、思わずにやけてしまう程だった。

 だから彼と話し合った時は、これ以上ない幸せだと思えた。

 出会いは最悪だったけど……。


 彼と出会って二週間目に、二人で街に出た。

 インドア派だったあたしは外に出た回数が少なく、街で見た店に幾度となく目を輝かせた。

 昼食後に食べたチョコバナナクレープの美味しさは今でも覚えている。


 ――現実感のない充実感だよぉ。


 あたしが甘えて言うと、彼は微笑みながら頭を撫でてくれた。


 今でも彼は、あたしとの約束を不満見せずに守ってくれていた。

 一風変わった約束だけど、彼に虚言を言う気になれなかったあたしはお願いをした。

 すると彼は、理由も聞かずに受け入れてくれた。

 一層彼のことが好きになった。


 彼と一緒に海へ行ったこともある。

 あたしが、どこか綺麗な景色を見れる場所はないかと思って雑誌で見つけた場所。

 近場だったから、放課後に十数分彼と電車に揺られているだけで着いた。

 海に到着したものの、曇り空に生憎の雨。

 風も強く、景色を楽しめるものではなかった。

 飛ばされないように、彼はあたしの身体を左手で支えてくれた。

 前まで傍からでしか見れなかった彼の温かさを更に知った。

 あたしの心は柔らかな風が吹く晴れ模様になっていた。


 その日の帰り、彼とあたしは停留所で休んだ。

 身体を支えられた時の熱がまだ残っていたせいか、あたしは彼につまらないことを言ってしまった。


 ――あたしのこと、どんな風に思ってる?


 聞いて直後に後悔したが、彼は答えてくれた。


 ――そうだな……。他人には本音を隠すお嬢様ってところかな。


 どきりとした。

 間違いなく、あたしは見抜けれていたんだ、そう感じた。

 事実、あたしは他人と話す時に自分の意見は言わない。

 他人の意見を褒め、煽て、受け流す。

 あたしは自然に振る舞っていたはずなのに、彼には見抜かれてしまった。

 だから心に迷いが出て、気付いた時には聞いていた。


 ――あたしって、このままでもいいのかな?


 ――それは君が決めることだと思うぜ。でも、俺個人の意見としては、君はもう少し我が儘を言った方がいい。損もしないし。


 ――我が儘? 例えば?


 ――例えば……悪い、即興には思いつかないや。俺はただ、少しは素直になってもいいんじゃないか、そう思っただけだ。気に掛けることでもないから、無視してくれ。


 そっか……。あたしは素直になっても、我が儘を言ってもいいんだ。

 あたしは我慢し続けてきた。

 人間関係に飽き飽きしていた。

 だって価値観が違い過ぎて、器の大きさが全然違っていたから。

 子供の頃からそうだった。

 親の言うことを鵜呑みにして、人前では礼儀正しく、飾り気なく、清楚に振る舞った。

 けど、それもこれからは演じなくて済む。

 彼は言ってくれたから、我が儘になれ、素直になれ、と。

 だからあたしは――。




 俺は人生で初めて、誰かと約束というものをした。

 それに、その約束が変則過ぎて、一生忘れることはないだろう。

 それは彼女とした約束。


 ――ねえ、一つだけ約束をしてくれない?


 ――約束? 別にいいけど、内容は?


 ――あたしを、名前で呼ばないでほしい。……駄目、かな?


 俺は何かの冗談だと思ってそのまま聞き入れた。


 ――じゃあ、何て言えばいいんだ?


 ――君……とかでいいよ。あたしもそうするから。


 あの約束以来、俺は彼女のことを、君と呼んでいる。

 彼女もおれのことをそう呼ぶ。

 故に、俺は彼女の名前を知らなかった。


 どれだけ距離感が短くとも、どんなに触れ合ったとしても、本当の意味では彼女に近付けない。


 今日一日で、そういう結論が出た。

 ホント、つまらない解釈だ。


 俺は左手に持っている文庫本サイズの本の表紙を見る。

 イラストもなければタイトルもない、真っ白な本。

 昨夕の別れ際に受け取ったものだ。

 読んでないから、内容はまだ知らない。

 これを読んだとして、何かが変わる訳でもない。

 そんなことより、彼女との思い出に耽る方がずっと楽しいし、安らぐ。


 俺は彼女のことをどう思っていたのだろう。

 前に一度、彼女に聞かれたことがある。

 自分のことをどう思っているか、そんな質問に俺は彼女の現状で答えた。

 でもそれは彼女の姿であって、俺がどう思っているかとは別物だ。

 なら、本当のところ、俺は彼女にどういう思いを寄せているだろうか。

 少なくとも、彼女といて嫌になったことは一度たりともない。

 寧ろ俺は彼女に感謝しているのだ。

 あんな風に気を許して話せる相手は彼女が初だったから。

 いや、二人目か……。


 幼い頃から父に厳しく躾けられた俺の拠り所と言えば、今は亡き妹だった。

 妹といれば父は怒らないし、機嫌も損ねない。

 それに何と言っても、妹との団欒時間は楽しいものだった。

 手芸に興味があった妹にその手の本を渡すと、妹は跳んで喜ぶ。

 そんな妹の様子に何度も助けられた。

 いつの間にか、妹と日の半分を過ごすようになっていた。

 俺は妹に甘え、妹はそれを受け止めてくれた。


 妹か……。

 そう言えば、彼女は妹に似ている。

 一言で表せないが、雰囲気と言うか、妹と同じ匂いがする。

 もしかして、彼女を妹だと思って今まで接してきたのだろうか……。

 いや違うはずだ。

 彼女と妹は、いわば似て非なるもの。

 彼女は彼女で妹は妹。

 だけど妹を甘やかすことができなかった分、慎重に彼女と接してきた部分は大なり小なりあるのだろう。


 俺は何と無く、真っ白の本の表紙に手を掛けた。


 これを読めば何か変わるという訳ではない。

 ただ、小さな罪悪感を退治するにはこれしか方法はない。


 そして俺は表紙を捲り、紙に記された文字を噛み砕くようにゆっくり読んだ。


  四月一日

  高校への転入を依頼されてから早三日となる。

  依頼とは直接的に別だけど、転入する外ない条件だった。

  自分にとって、これは必要性皆無の件だと思っている。

  かと言って、依頼を無下にもできない。

  引き受けるとしても、もう一度あの地獄の日々を送る勇気は、あたしにはない。

  苛められ、貶され、哀れむ。

  一度だけ友人ができたこともあった。

  だけど友好関係は一週間と持たず、友人は赤の他人となって去った。

  

  あたしはまだ決断できていない。


  四月二日

  一晩ぐっすりと寝て、あたしの中で答えは出た。

  故に、上司に依頼受託の用紙を申請する。


  期待はしない。

  高校という単なる機関に何を期待しろと言うのか、あたしにも分からない。

  あれは青春という、甚だしい程に浮かれ気分の連中が集う場所。

  別段、それを悪く言う気は毛頭ない。

  それでも、連中に言いたいことは山のようにある。

  何と言っても一番言いたいのは

  ――八つ当たりは他に頼んでほしい

  ということ。


  四月三日

  明日には転入手続きが滞りなく済んでいるはず。

  あたしは鬱な気分で明日を迎えることだろう。


  今日はあまり眠れなかった。

  仕事も少し残っているというのに、変な緊張感で仕事に熱が入らない。


  上司はあたしに楽しんで来いと言った。

  上司は深く考えず、気軽に言ったと思う。

  でも胸のちくりとする痛みは抑えきれなかった。

  明日はしっかりと起きれるだろうか。


  四月四日

  あたしは革新的な情報を手に入れた。

  提供者は上司の上司の、更に上司。

  何と無くコーヒーを飲んでいると、提供者はあたしの近くまで来て話をしてきた。

  提供者があたしを見て、にやにやしていたのは直ぐに分かった。

  案の定、身体をべたべたと触られた。

  ひどい嫌悪感を感じた。

  だからと言って、下っ端のあたしには抵抗さえ許されない。

  我慢した末、提供者は口元を緩めながら言った。

  提供者の話を纏めると、どうやらあたしの転入する高校には一枚の記述があるらしい。

  それはウィリアム・ギルバートやアイザック・ニュートン、ガリレオ・ガリレイやベンジャミン・フランクリンを始めとする有能で優秀な学者たちが記した論文を合わせた代物。

  話によると、一般人では到底理解できない内容らしい。

  文字も母国語などではなく、この世に存在しない文字。

  それを偶然見つけたのがあたしの行く高校の理事長で、何かの宝だと思った理事長は高校のどこかへ隠したと噂になっているみたい。

  もしかすると、億の確率だけど、それはあたしがずっと求めていたものかもしれない。


  四月五日

  明日はいよいよ転入する。

  久しぶりにぐっすりと眠れた。

  今朝、鏡で自分を見た時、初めて自分の顔を褒めた。

  この顔立ちのせいで何度辛い思いを味わったことか分からないけれど、この歳で高校に通えられるので満足だった。

  少なくとも、今日は。


  四月六日

  新入生と共に、あたしは三年二組へ転入した。


  学校生活を甘く見ていた。

  以前通っていた時よりも視線が痛い。

  やたらと下心丸見えの男子に声を掛けられる。

  女子には無視され、あたしは痛感した。

  ここに来るべきではなかった、と。


  受けた依頼は一冊の本を探してほしいとのこと。

  長期間は覚悟してほしいと言われたので、転入することになったのだ。

  それ程難しくもないだろうと馬鹿にしていたあたしは、依頼を熟して記述を探そうと思った。


  さすがに転入初日には見つからず、クラスでも孤立し、あたしの数年ぶりの高校生活は最悪の出だしとなった――。



 俺はページを捲り続けた。

 これは彼女の日記。

 罪悪感を退治したくて読み始めたが、俺は夢中になっていた。


 その後のページも依頼は熟せなかったと記されてあり、俺が一番気になった記述はまだまだ出てきそうになかった。

 

 俺は無性にページを捲り続けた。


 駄目だ、ここにも載っていない。

 ……また駄目か。

 記述が出てくるのはまだ先なのか?


 迷いの果て、俺は何か書かれた一番最後のページを、間を飛ばして見た。

 そこにはこう書かれていた。


  十月五日

  あたしは彼に別れを告げた。

  ずっと、ずっと大好きな彼に。

  会えなくなるのは寂しいけど、再会した暁には思いっ切り頭を撫でてもらおう。

  ――bye.


 最後のページはそれだけだった。

 一枚前を捲ると日付が飛ばされていて、いきなり六月二十日に戻っていた。


  六月二十日

  あたしは一杯一杯だった。

  転入前の依頼はまだ成せず、別件で面倒な飼い猫探しの依頼までやって来た。

  理事長ですら分からなくなった記述の在りかも、明日で探求を辞めようかな。

  明日は猫探しを優先しよう。

  ちょうど猫が集まる場所も知っている。

  そのついでに、もう一つの依頼と私情を成せれば幸いってことで――。


 完結されていない日記にストレスが募る。

 そんな邪見を振り払おうと、俺は首を左右に振った。


 六月二十日の次の日、つまりは二十一日に記述が見つかったと考えるべきか……。

 将又、日記に飽きが来ただけか。


 考えても仕方のないことだ。

 俺はパラパラと内容を気にせずにページを捲った。


 して、図書館という単語が中盤にやたらと出て来るのに気付いた。

 この近くの図書館と言えば、所有面積の大きい私立図書館だ。

 思い返してみると、彼女は本が好きだった。

 

 ――本に囲まれながら勉強するのは大好きだから。


 一緒に勉強していた時の彼女の台詞。


 私立図書館、か……。

 行ってみる価値はありそうだ。


 俺はしばらくもたれていた身体を起こした。

 ベージュのショルダーバッグに日記を入れ、右肩に担ぐ。

 俺は足早に教室を出て、私立図書館までスピードを上げて走った。




 あの日、あたしが記述を手に入れたのは紛れもない偶然。

 

 探し当てた猫の居場所には一冊の文庫本と透明なクリアファイルがあった。

 文庫本に手を掛けると、依頼者の探していたものだと分かり、開放的な気分になったっけ。

 猫をしっかりと抱きしめたあたしは、次にファイルを手に取った。

 そこに入っていたものは、汚い字が書かれたボロボロの紙だった。

 少し残念な気分だったが、依頼を同時に成し遂げたのは嬉しい。

 猫と一緒に文庫本とファイルを持つと、強烈な鯖の匂いが漂った。

 その匂いに驚いたあたしは、反射的に文庫本とファイルを地面に落とした。

 その瞬間、どうして文庫本とファイルが猫と一緒にいたか察した。

 きっと、匂いの付いた二つの品を食べ物だと勘違いして引き摺ってきたのだろう。

 文庫本の探求を依頼した人は、この高校の卒業生だと聞く。

 何かの拍子で鯖の匂いが付いた本を、学校にでも住み着いていた野良猫が奪ったのかもしれない。


 ともあれ、結果的に無事依頼完了。

 とてつもなく大きな開放感に満ち溢れた。


 あのボロボロ紙も後に例の記述だと分かり、あの日だけは幸せを感じざる得なかった。


 これで高校にも別れを告げられる。

 そう思うと嬉しくて堪らなかった。


 あたしは急いで二人の依頼人の所まで行って、一日で何もかも終わらせた。


 つまらない仕事場に戻るのは少し憂鬱だったけど、学校にいるよりかは何十倍もマシ。


 しかし、そんな考えもあっさりと潰れた。

 新しい依頼者が来たのだ。

 依頼の内容は学校絡みで、長期戦を予想されるものだった。


 あの時は本当にショックを受けた。

 今でも忘れない絶望感が嫌な思い出を蘇らせる。

 でも、そのおかげで彼に出会うことができた。


 まだ当時の依頼は成していない。

 けれど、今のあたしのは関係のないこと。


 あたしがこの世界を変えるのだから――。


 おっと、いけない。

 そろそろ時間が来ちゃう。


 使いこなした記述をもう一度見直したあたしは、記述を白のトートバッグに入れた。

 ノートを一枚千切り、黒ボールペンで文章を二行書いてテーブルに置く。


 これで良し。

 ……じゃあね、拓也。


 あたしは私立図書館を去った。




 俺は知っている。

 彼女がどうして名前で呼び合いたくないか。

 あの約束は、罪悪感を感じる優しい彼女だからこそ、行ったもの。


 昨夕、彼女は彼女の抱え込むもの全てを俺に吐き出した。

 だから知っている。

 彼女は繊細で臆病で努力家ということを。


 以前から違和感はあった。

 これ程までに頭がよければ、もっといい高校に入れたはずだ。

 そう思えてならなかった。

 ……だから、彼女が政府の管理する組織にいたと知った時も、取り乱さずに済んだ。

 それ故に、偽名を使って学校に転入したってことも知っている。

 だから偽名で呼んでほしくない、そういう彼女の思いも。


 彼女と俺の初めての出会いは最悪だったと言える。


 九月上旬。

 俺は友人に誘われて、放課後に室内鬼ごっこをしていた。

 負けるとペナルティがあったから、俺は真剣にやっていた。

 範囲は生徒たちの教室が立ち並ぶ生徒館のみ。

 俺は鬼に追われること数分、誰もいない三年二組に入って身を隠した。

 ……のつもりが、三年二組の教室には着替え中の女の子が一人いた。

 俺に気付いたその子は悲鳴を上げる代わりに俺から大きく距離を取った。

 今となっても鮮明に思い出せる、その子の下着姿。

 そう、その子こそが彼女なのだ。


 これが彼女と出会うきっかけだった。

 ホント最悪な出会い。

 俺からすれば最悪ではないけれど……。

 いや、その後ものを投げつけられ、俺の頭に辞書が当たって痛い思いをしたから、やはり最悪か。

 

 一ヶ月も経てば笑い話だ。

 だけど、この話を彼女の前ですると機嫌を損ねるので言わないようにしている。


 俺は息を切らしながらも私立図書館に着いた。

 さすがに運動部でもない人間が全力で一キロ以上走るのはきつい。


 俺は自分の身体を省みず、図書館に入って行った。


 館内は真っ暗。

 照明は天井に吊られていたものの、不思議と暗く感じた。


 俺はひたすら歩き回る。

 しかし彼女はそれに応えない。


 十数分して結論が出た。

 彼女はここにいない――。


 溜め息を吐く俺の目に、一枚の紙が映った。

 テーブルに置かれていたその紙を、何と無く掴み取る。

 内容はこうだ。


  君と楽しい時間を過ごせたこと、あたしの唯一の誇りです。

  これからは、一層楽しめると信じています。


 紛れもない彼女の字だった。

 俺は察した。

 世界中の誰一人としてできなかったことを、彼女は遂にやるのだと――。


 俺はそのまま椅子に座った。

 誰かが座っていたのか、少し温かい。

 さっきのようにテーブルへもたれ掛かる。


 昨夕の会話が脳裏を過る。


 ――この世界の中心にある、計算尽くされた不可視の柱。あたしの終着点。ううん、最大の通過点と言った方がいいかも。


 昨日、彼女が言った台詞の中の一つだ。


 ――それが君の求めるものだって言うのか? 俺にはピンと来ないけど。


 ――じゃあ考えて。いい? この世には誰も分からないというものが存在するの。何だと思う?


 ――……難解な問題とか?


 ――アバウト過ぎるよ。……もう言うね。答えは「感情」。


 ――感情? それもアバウト過ぎないか?


 ――全然アバウトじゃないよ。ほら、テレビドラマでもやってる。『感情に答えなどない』って。


 ――ああ、やってるな。


 ――あんなの嘘。虚言の何物でもない。


 ――じゃあ、君は感情に答えがあると思ってるのか?


 ――思ってる、じゃなくて実際に答えがある。答えがなかったら、この世は既に末期状態。滅んでいてもおかしくない。


 ――いまいち分からないな。


 ――感情に答えがなかったら、正義なんて生まれないし国も造れないの。


 ――まあ、そう言われればそうか。それで、その感情の答えが世界の中心にあるのか?


 ――位置的に違うけど、意味的にはそう。


 ――へえ……。どこにあるんだ?


 ――どこにでもある。ここからだって行ける。……けど、上手く生きて帰れるかは別。


 ――それじゃあ、生きて帰れる場所はないってこと?


 ――ううん、あるよ。その場所がどこにあるか最初は知らなかったけど、さっき見せた記述にヒントが書いてあった。


 ――ああ、あの汚い字のやつか。


 ――あれは暗号に似たものだから。あれには数多の学者の論文が連なっている。みんな間接的な表現で分かり辛かったけど、ある程度のことは理解できたし、場所も分かった。明日にでも行くつもり。


 ――そこは?


 ――場所のこと? ……言うのは本望じゃない。君を危険な所に連れて行く気はない。


 ――……行くつもりはないさ。ただ場所を知りたいだけ。無論、他人にも言わない。……駄目か?


 ――……じゃあ、教えるよ。場所は‶名無しの空間"。


 ――名無しの空間? ……確か、最近できた近場の建物だろ? でもあそこは何もない、白のペンキで塗られたコンクリートの壁で成す立方体だったはず。


 ――わざとそう造らせたの。


 ――造らせたって……え? じゃあ、あれは君が造ったのか?


 ――設計図とお金を出したのはあたし、だけど造ったのは大工の人たち。


 ――それは分かるけど……そんな大金、よくあったな。


 ――仕事柄、余分にもらえるから。


 ――へえ。でも、どうしてあんな建物を造らせたの? あそこに世界の中心があるとも思えないけど。


 ――ううん、あそこに世界の中心は存在する。詳細に言えば、世界の中心へ行けるゲートが開くの。


 ――そんなことができるのか? あそこでは。


 ――うん。記述に書かれた論文の中に、こんな台詞があった。『もし、重力や電力が生じない場所があるとすれば、それは歪なものに他ならない』。他にも『時間だけが存在する空間というのは、神の領域に等しいものだ』とか。


 ――つまり、何にも影響されない空間に世界の中心はあると?


 ――少し違う。時間のみで左右される空間に地球の中心がある、これが正解。


 ――でも、名無しの空間には重力が存在するだろ? 君が入れば摩擦力も生じる。


 ――その通り……だけど、『時間以外の何にも影響されない』そう定義すれば話は別。そして世界の中心と同じ原理の空間が生じることで、世界の中心へと行けるゲートは開く。


 ――……行ったとして、世界の中心に行ったとして、君はどうするの?


 ――あたしは世界を変える……。世界の中心には一本の柱があって、そこには世界中の、生死している人全ての感情が、精神が存在する。あたしはそこで変える。この世に住む人々の価値観を――。


 彼女は辛く、厳しい人生を虐げられてきたのだろう。

 俺だって温い人生を送ってきた訳ではない。

 卑屈なりにも、真っ直ぐ生きてきたつもりだ。

 だけど、彼女は曲がりに曲がってしまった。


 俺は、昨日の彼女の言葉を否定できなかった。

 我が儘を言えばいい、素直になればいい、そう言ったのは他でもない俺自身だ。

 今更否定なんてできない。


 今頃、彼女は名無しの空間に行っているはずだ。

 どこへ何しに行っているのか分かっているのに、俺は動けずにいる。


 俺は彼女のことをどう思っていたのだろう。

 

 彼女との思い出が一斉に蘇って来る。

 楽しいことだらけの毎日だった。

 街に出たり、海へ行ったり、勉強をしたり。

 どんなに苦しいことも、彼女との日々を思い出せば潜り抜けられる。


 今、はっきりと分かった。

 彼女に対する俺の思い。


 俺は、俺は――。


 気が付けば身一つで俺は走っていた。




 名無しの空間に着くと、あたしは高さ約五メートルある白の外壁に血を付けた。

 紙で指の腹を切って出した血。

 その血で文字を書く。

 記述にあった文字と同じ文字。

 一見出鱈目な文字を三行書くと、文字は何かに反応するように薄く、血の色に光った。


 それを確認したあたしは白のトートバッグを外の地面に置いた。

 そしてドアから中へと入る。


 あたしは驚嘆の声を漏らした。


 白いペンキが塗られただけの何もないはずの空間の中央に、橙色に染まる夕日のようなゲートがある。

 円形の橙色のゲートはゆらゆら燃えていて、菫色の縁は火花のように弾けていた。

 ゲートの中心は少し透けていて、接続した空間の様子が見て取れる。

 この世には存在しない歪な空間。

 それはまるで死者への入り口。


 これがあたしの求めて来たもの……。


 驚嘆はした。でも同時に恐怖を感じてしまった。

 知らないうちに脚が震えている。


 平静ではない自分でも自覚があるくらいあたしは怯えていた。

 でも、ここで止まったらここまで来た意味がない。

 寝る間を惜しんで記述の文字を解こうとし、論文の意味を理解しようとしてきた苦労と苦痛の意味がなくなる。


 きっと、あのゲートを通れば世界の中心へ行ける。

 今まで苦しんできた思いがようやく晴れるんだ。


 そのはずなのに脚が言うことを聞かない。

 震えた脚を抑え込むようにして前に進もうとしても、身体全体があたしの意志を拒んでいるようで少しも前に進めない。


 どうして……。

 どうして歩けないの……?


 背中に冷や汗が流れる。

 それでもあたしは行こうとした。


 意地を張ってるとか、意固地になってるとか、そんなの関係ない……。

 だって、ここまで必死で来たんだから。

 

 学生時の頃、周囲の人は関係ないと思っていたけど実際は影響を受けてばかりで、何度も嫌な思いをし続けて来た。

 それでもこの世には未だ解明されていない別の世界があると信じて自棄になって勉強してきた。

 そして就いた仕事は何の取り柄もない、ただの雑務。

 上司には嫌がらせをされるし、同僚の人には避けられる。

 あたしは憎んだ。

 自分を、上司を、同僚を、同級生を、この世界を憎んだ。


 あたしには生きる場所が存在しない。

 どうせなら何もない空間の中で生きていたい、そう思った。


 そんなあたしでも、最近は変わった気がする。

 ずっと消えていた笑顔も自然と出るようになった。

 それもこれも彼……拓也のおかげ。


 拓也と出会って一ヶ月。

 最近のはずなのに遠い昔のように思える。

 拓也を知って、拓也と会って、拓也と話して。

 あたしは幸せだった。


 でも、もう遅い。

 あたしの望んできたものが目の前にある。

 あたしは行くんだ。

 今までの思いを全て捨てて――。



 その瞬間勢いよくドアが開いた。

 あたしは物凄い速さで振り返る。

 するとそこには息を切らす彼がいた。


 「……っ…、待ってくれ……待ってくれ……!」


 あたしは安堵してしまった。

 彼が来てくれてほっとしてしまった。

 そんな安堵する自分が嫌で、唇を噛んだ。


 「……どうして、どうして君がいるの……?」


 「……俺、君にまだ言ってないことがあったんだ……」


 「言ってないこと……?」


 「ああ……。引く気はないか?」


 ……っ!


 あたしの手は震え始めた。


 心のどこかで分かっていた。

 彼の今の言葉をずっと待っていたのだと。

 だけどそれを認めたくない自分がいて、身体が熱くなる。


 「あたしは……! あたしは、ここに来るために必死に努力してきた! それなのに諦めろって!?」


 あたしの声は自分でも驚くくらい荒れていた。


 「ああ。俺は君に……奈々に、諦めてほしいんだ」


 「……今、なんて?」


 「奈々……君に諦めてほしい」


 「どうして……。どうしてあたしの名前を……」


 「昨晩、君について調べた。君の仕事場にも確認した。そして分かったんだ。君は……君の名前は、澄野奈々だってことが」


 目頭が熱くなった。

 手足は震え、身体は熱く、涙が止まらない。


 「……君は……、君は……。……あ、あたし……頑張って、頑張って……ここまで来たんだよ……? ずっと……ずっと、嫌な思い、我慢してここまで来たんだよ?」


 「ああ、知っている」


 「……あたし、あたしね……、何度も何度も挫けて……やっと……やっと来れたんだよ? だから……、だから……!」


 あたしは涙を手で拭ってゲートに振り返った。


 「奈々! 俺は君にまだ言ってないことがある!」


 あたしは彼の言葉を背中で聞いた。


 「俺は奈々と過ごしたこの一ヶ月間、すごく楽しかった! 人生の中で、何よりも幸せだった! だから……。だから、言おうって決めた!」


 「……」


 「俺はお前に、ずっと恋をしている!」


 「……っ……!」


 「ずっと、ずっと大好きだ、奈々!」


 あたしはまた涙が溢れた。

 抑えることのできない、流れ続ける涙。

 あたしは彼に向き直った。


 「あ、あたしだって! 君のことが……橋野拓也のことが大好き!」


 「……奈々」


 「……あたしは……、あたしは拓也がいたからここまで来れた。でも、あのゲートを潜れば、世界を変えれば、拓也があたしのことを忘れるかもしれない……そんなの嫌だよ……! あ、あたし、拓也とずっと、ずっと一緒にいたい!」


 「俺だって奈々と一緒にいたい! 大好きな奈々の傍で笑っていたい!」


 「あたし……、あたし、どうすれば……」


 あたしは涙を手で抑えたまま蹲った。


 「ねえ、拓也……。あたし、これからどうしたらいい?」


 「もう外は真っ暗だ。……俺と一緒に帰ろう」


 「うん、拓也が言うなら……」


 拓也はあたしの手を取って、一緒に名無しの空間を出た。

 あたしは外壁に書いた血の文字を掻き消し、トートバッグを担いだ。

 そしてあたしは拓也のマンションの部屋に泊まった。



 奈々から粗方の情報を聞いた俺は、仕事を辞めるように薦めた。

 そうして奈々の辞職は無事完了したが、同時に学校を辞めざるを得なかった。


 その後、フリーターとなった奈々は独り暮らしの俺の部屋に転がり込み、二人暮らしになった。


 「ねえ、拓也。海に行こうよ」


 二人暮らしが始まって数日後の朝。

 この日は日曜日で学校が休みだった。


 「海? ……ああ、前に行った所か?」


 奈々は激しく頷いた。


 こっちに来てから奈々はファミレスでバイトを始めた。

 慣れていないせいか、時折疲労を見せる。


 「よし、じゃあ行こうか」


 「うん! 今日は晴れてるし、気温も高いから絶好だよ!」


 今日は矢鱈とテンションが高いな。

 奈々は最近疲れてるみたいだし、ぱあっと行こうかな。




 「へえー、綺麗だな。潮風も気持ちいい」


 サンサン太陽の下、砂場まで拓也とあたしはやって来た。


 伸びをした拓也の背中にあたしは抱き付いた。


 「ん? どうした、奈々」


 「ううん、何でもない。ただこうしていたいだけ」


 あたしは頭をぐりぐり押し付ける。


 「……拓也、キスしたい」


 あたしは独り言のように呟いた。

 誰も聞こえないくらいの音量だけど、拓也はいつも気付いてくれる。


 「……うん、じゃあ横に来て」


 言われるまま横に行くと、拓也はあたしの頭を撫でた。


 「む~っ! キスだよ、キス! 頭ナデナデじゃないよ!」


 「気持ちよくないか?」


 「そ、そりゃあ気持ちいいけど……。でも、あたしが言ったのは――っ!」


 あたしは不意を突かれた。

 気付いた時には拓也の唇があたしの唇と繋がっていた。


 「……っ……。……ひ、ひどいよ、不意を突くなんて」


 あたしは頬を緩ませながら言った。


 「悪かったよ、奈々」


 「……悪いと思うなら、もう一回して」


 

 そしてもう一度、拓也とあたしはキスをした――。

 

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