前編
「夏ホラー2007」参加作品です!
紺野美菜は、一両編成の電車から小さな無人のプラットホームに降り立った。プラットホームを取り囲むようにそびえる山々からは、一斉にセミの鳴き声が押し寄せてくる。
美菜は鍔の広い帽子を目深に被り、手をかざして空を見上げた。山の向こうから湧き出るような入道雲。真夏の空は鮮やかな青色をしている。
──あの日とちっとも変わってない。
美菜がこの小さな田舎町を訪れるのは、十数年ぶりのことだった。父方の両親が住むこの町に、夏休みになると毎年のように遊びに来ていた。だが、美菜の両親が離婚して、美菜が母親に引き取られてからは、次第に足は遠のいていった。
あの日。美菜が最後にこの町に遊びに来た年の夏、両親は離婚寸前で、いつもは三人で父親の実家を訪れていたが、とうとう母親は一緒に来なかった。
小学四年生だった美菜には、両親の離婚はかなりショックな出来事であり、楽しいはずの夏休みをずっと暗い気分で過ごしていた。
──この町に来るのも今年で最後。
美菜はそう感じとり、益々心が重くなるのだった。
美菜の心が沈むのは、両親の離婚のことだけではなかった。田舎に来れなくなることで、父方の祖父母に会えなくなること、いとこで同い年の理恵と遊べなくなること、それらのことも寂しかったが、美菜が一番辛かったのは、沼田一磨という少年に会えなくなってしまうことだった。
一磨は美菜より二つ年上の六年生で、理恵達の遊び仲間だ。理恵やその友達の中では、いつもリーダー的存在で面倒見も良かった。小学生の二つの年の差は、かなり大きい。美菜は一磨のことを、とても大人っぽく感じていた。彼は元々は都会育ちで、ここには小学校に上がる年に転校して来たらしい。理恵や他の友達とは違う、あか抜けた雰囲気をしていた。
理恵やその友達たちは、元気いっぱい野山を駆け回っていたが、おとなしく運動の苦手な美菜は、いつも一歩出遅れることが多かった。そんな美菜を気遣って色々と面倒をみてくれたのが一磨だった。
初恋。幼い美菜が、初めて心をときめかせた相手が一磨だ。その一磨ともう会えなくなる、そう思うだけで小さな美菜の心は痛むのだった。
真っ青な空、ギラギラと照りつける太陽、山々から響いてくる蝉の声。
川で水しぶきをあげて遊ぶ、理恵やその友達たちの元気な声を聞きながら、美菜は一人木陰に座って休んでいた。麦わら帽子を被っていても突き抜けてくるような太陽の熱は、美菜の頭をクラクラさせる。みんなから離れ青白い顔でぽつんと座っていると、余計惨めな気持ちになってくる。
──今年で最後なのに……。
近くに生えている草を引き抜きながら、美菜は泣きそうな気分になった。もっとみんなと楽しく遊びたい。最後に過ごす夏休みに最高の思い出を作りたい。一磨ともっと一緒にいたい……。
「ミンミン蝉の抜け殻見つけた!」
段々悲しい気持ちになっていく美菜の耳に、明るく弾んだ声が聞こえてきた。顔を上げると、一磨が蝉の抜け殻をかざして笑っていた。川で水遊びをしていた一磨は、Tシャツを脱いで半ズボンだけはいている。髪を濡らし褐色に日焼けした一磨の姿が、太陽の光でキラキラ輝いているように見えた。スラリと背の高い一磨、まだ骨格は細く華奢だが、その体は日々逞しく成長していってるように見える。
「気持ち悪い……」
美菜は蝉の抜け殻から目をそむけて俯いた。一磨が声をかけてくれたのは嬉しいが、美菜は虫が大嫌いだった。
「美菜ちゃん、虫が嫌いだもんなぁ」
一磨は抜け殻を手の中でいじり、粉々に潰した。
「キャ……」
カサカサという小さな音とともに、落ちていく抜け殻の粉を見て、美菜はゾッとした。
「こんなのただの抜け殻だから怖がることないよ。中に入ってた蝉は今頃元気に飛び回ってるさ」
一磨は明るく笑うと、タオルで頭と体を拭いて脱ぎ捨てていたTシャツを着た。
「美菜ちゃん、気分良くなった?」
一磨は顔を伏せている美菜を覗き込むようにして聞いた。
「うん……」
本当はまだ頭がふわふわしていたが、美菜はこくりと頷いた。
「じゃあ、遊ぼうよ!」
一磨は美菜の手を引いて立ち上がらせる。
「あたし、水遊びはやだ」
麦わら帽子を押さえて、美菜は言う。美菜は何度も川で流されそうになったことがあり、水に対して恐怖を抱いていた。
「水遊びじゃないさ。もっと面白い遊び」
一磨は美菜と手を繋ぎ、スタスタと歩いていく。少しひんやりとした一磨の手を握りながら、美菜の心は次第に弾んでいった。
一磨が美菜を連れて来たのは、川の近くにある『鬼神神社』という小さな神社だった。古びた石の鳥居をくぐると、長い石の階段が山の上まで続いている。そこは、山の陰になっていて真夏の太陽は遮られ、涼しい風が吹いていた。
太陽の熱にダウンしかけた美菜にとって、火照った体を冷やすには絶好の場所だ。今までも何度か遊びに来ている。だが、美菜はこの古い神社が好きになれなかった。『鬼神』という名前が恐ろしかったし、今は誰も管理をしていない寂れた神社は、薄暗くどことなく不気味な雰囲気をおびている。石の階段を上へ上れば上るほど、空気は冷たくなり静かさが増してくる。
一磨と一緒じゃなかったら、美菜は恐くてとても来ることが出来ない。ヒグラシの寂しげな鳴き声、空から聞こえる烏の鳴き声にさえ、美菜はビクついていた。
しかし、一磨は大きな声で歌を歌いながら、元気に石段を登っていく。美菜は一磨の手をギュッと強く握りながら、ついていった。
「何して遊ぶ?」
ようやく長い石段を登りきった美菜は、息を弾ませて尋ねた。目の前には神社の本堂とその前にお賽銭箱が置かれている。この神社にお参りに来る人はほとんどいないから、お賽銭箱はいつも空っぽだ。
「美菜ちゃん、いい? 今から石の上しか通っちゃダメだよ」
ふいに一磨はそう言うと、本堂に続く飛び石の上にピョンと跳び乗った。石段から本堂までは、途切れ途切れに平たい飛び石が続いていた。昔はきちんと置かれていただろう石は、今はところどころなくなっていて、石と石の間隔がかなり空いている部分もある。
「えー、あたし跳べない」
「大丈夫だよ。思いっきり跳んだら石に着地出来るから」
「石から落ちたらどうなるの……?」
ピョンピョン跳んでいく一磨を見ながら、美菜は泣きそうな声を出す。
「落ちたら……」
大きくジャンプして次の飛び石に移った一磨は、美菜の方を振り返る。
「……地獄から鬼の手が出てきて、美菜ちゃんの足を引っ張っていく」
「……え?」
一瞬、一磨の顔から笑みが消え、鋭く睨まれた気がして美菜はゾッとした。
「ハハハ! 美菜ちゃんは恐がりだなぁ」
次の瞬間には、一磨は大笑いしていた。
「早くおいでよ! ただのゲームなんだから」
身軽な一磨はもうお堂の前まで来ていた。
「……」
美菜は全身の力をこめて思いっきりジャンプする。小さな美菜には、次の飛び石までの距離がとても長く感じられた。石には苔がむしていて、ズルッと滑りそうになる。
「美菜ちゃん、早く! おいてくよ」
「待って!」
美菜は必死でジャンプを繰り返す。石と石の間には、真っ暗な闇の世界が広がっていて、石の上から落っこちると本当に地獄の底に落ちてしまいそうな気がした。
──地獄の鬼に足を取られる!
最後の石に飛び移る時、美菜は石の端に着地しバランスを崩す。真っ暗闇の下界から、今にもニュッと鬼の手が出てきて、美菜の足を掴んで引きずり込む。美菜はその光景を頭に描きパニックになる。
「助けてー!」
悲鳴に近い声を出し、美菜は一磨の体にしがみつくように倒れ込んだ。一磨の胸に顔を埋め美菜は声をあげて泣いた。
「あー! 美菜ちゃんのせいで僕の負けだ」
「……?」
美菜が恐る恐る顔を上げると、美菜に体を押された一磨は、飛び石の上から落ちていた。
「だ、大丈夫?」
真剣な顔で心配する美菜を見て、一磨は笑った。
「僕は地獄に落っこちた。美菜ちゃんのせいだよ」
「……ごめんなさい。鬼に足を掴まれた?」
「どうかな……?」
一磨は顔から笑みを消して、自分の足に視線を移す。
「美菜ちゃんが抱きついてきたからわからない」
「あ……」
美菜は急に恥ずかしくなり、パッと一磨から体を離した。その様子を見て、一磨は面白そうに笑った。
「美菜ちゃんはかわいいけど、まだまだ子供だね」
「……一磨君も子供だもん」
「僕は来年中学生になるんだから、大人だよ」
「美菜も、美菜だって中学生になるもん。大人だよ」
「じゃあさ」
ムキになる美菜の顔を一磨はじっと見つめる。
「『呪いの手』を見に行く?」
「え……『呪いの手』?」
美菜は口ごもり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「で、でも、あれは見ちゃいけないよ。見たら、見たら祟りが起こるんだから」
うわずった声で、美菜は必死に反対する。『呪いの手』とは、本堂の横の小さなお堂にまつられているという『鬼の手』のことだ。昔、村人に悪さをする鬼を勇敢な若者が退治し、打ち落とした鬼の手をまつったという。神社の名の由来にもなっているこの話は、祖母から聞いたことがある。
手を切り落とされた鬼は、今でも手を探し求めこの町をさまよっていると言われ、言うことを聞かない子供に親は、「怒った鬼が手の代わりにお前をさらいに来るよ」と叱ることがあった。おとなしい美菜は言われたことがないが、いとこの理恵は時々祖母に言われていた。
美菜はその言葉が恐ろしく、叱られたのは自分ではないのに、その晩は鬼が襲って来るんじゃないかと気が気で眠れなくなっていた。
「だから、ダメ。見に行っちゃダメ」
「美菜ちゃん、そんな迷信信じてるの?」
必死で一磨を説得する美菜に、一磨は軽く笑ってみせる。
「あんなの作り話さ。鬼なんかいるわけないじゃないか」
「だって……だってお堂には本当に『鬼の手』があるんだって言ってたよ。昔、その手を見た人がいて、三日後に死んだって言ってたもん」
美菜は泣きそうになりながら言う。
「そんなの嘘だ。どうせ作り物なんだからね。カッパの手をテレビで見たことあるけど、あれは動物の手を細工したもんだって言ってたし、もし本物なら大発見だよ。テレビの取材が来るかもな」
一磨は笑いながらそう言うと、足早に小さなお堂の方に向かっていく。
「待って……待って一磨君!」
さわさわっと山の木々が風に揺れ、湿った生温い風が美菜の髪を撫でていった。木々の間から見える空は、いつの間にか黒い雲に覆われていた。
「ダメ、ダメだよ、一磨君!」
風に飛ばされないよう麦藁帽子を手で押さえ、美菜は小走りで一磨の後についていく。
小さなお堂の前で、一磨は立ち止まり美菜の方をふり返る。
「恐かったら美菜ちゃんは来なくていいよ」
キリッとした目で美菜を見つめ、低い声で一磨は呟いた。
「……」
いつもの明るい笑顔の消えた一磨の顔がなんだか恐くて、美菜はもうそれ以上何も言えなかった。一磨はお堂の重い扉を開けると、誘い込まれるようにスッと中に入って行った。 バタンッと大きな音を立てて扉が閉まる。空が益々暗くなり、生温い風が強く吹き抜ける。
──一磨君! 戻って来て!
不吉な胸騒ぎをおぼえた美菜は、涙を流しながら心の中で叫んだ。
──鬼が、鬼が襲いに来るよ!
ピカッと稲妻が走り、ゴロゴロと空がなった。美菜は悲鳴をあげて、その場にうずくまる。
後編に続く……。