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獣化の剣  作者: 吉岡
9/16

3章 (後)

 

 二人は、前になったり後ろになったりしながら歩いた。


 山を下る二人の歩みは順調だった。川沿いを下っていて、普通のアバックの山道よりも歩きやすい。百年に一度の大ひでりのせいで、川の水量が減って本来ならば川である場所を歩けるのだ。

 ニルティの分しかない荷物は、今はイシャーナが背負っている。彼がどうしても、彼女だけにずっと持たせ続けるのは嫌だといったのだ。妥協しあい、彼女の荷物の中で一番重い剣はニルティが持ち、残りをイシャーナが持った。


「その剣、君が持つのかい?」


 イシャーナが尋ねると、ニルティは考慮にも値しないというように彼を一瞥した。


「あなた、自分が杖無くても魔術使えるからって、ちょっと無神経やで」


「そうかな」


 イシャーナは分からない。


「町に着いたら別の剣に変えますわ。ちょっと当てもあるし、いざとなったら、傷も付いてないし質屋で別のと交換するか……」


 そんなに危険な剣が、他人の手に渡っては大変なことになる。何も知らずにその剣を買ってしまった人間が、その剣の狂気に負けたらどうするのか。彼は慌てて声を上げた。


「ダメだよ、質屋なんて。危険すぎる」


「その件、いったいどれくらい信用できる話なんですか」


 剣は鞘に収めず布を巻きつけて、ニルティの腰に紐で縛り付けられている。


「いや、これはかなり信用できる話だよ」


「そんなん言うたって、魔術師は人に怪我させられへんとか、思い切り間違ってたやん」


「でも、真実の一部だよ!」


 ニルティは気の無い様子で言った。


「結局、この剣持ってたら何があかんのです?」


「狂気に駆られるんだ。人を殺したくなる、らしい。理性を失くし、人間でなく獣のようになって血を求めるんだ。だからその剣を、獣化の剣という」


 ニルティは数歩歩いて唐突に立ち止まった。二人は歩くと言うにはなかなかな速さで歩いていたので、その時は偶々後ろを歩いていたイシャーナは急に立ち止まれず、彼女にぶつかりそうになった。


「なんて?」


「何がだ?」


「今なんて言ったん」


 ニルティは振り返って低い声で言い、ぐいと彼に迫った。


「な、何? 何、言ったかな、狂気に……」


「獣化の剣っ」


 彼女は鋭く叫んだ。


「獣化の剣って言うたやろ」


 彼女の顔色が違うことに、イシャーナは気圧されながらも不思議に思った。


「あ、ああ。聞いたことあるのかい? 学舎で習うほど、有名な言葉じゃないと思ってたけど」


「それて元からある言葉なん?」


「元から? 最近は知らないけど、古い文献には度々出て来る言葉だよ」


 彼女はイシャーナをきゅっと睨みつけてから、くるりと向きを変えて再び歩き出した。睨まれたからといって、そこに怒りが無いのはイシャーナにも分かった。


「ニルティ、何考えているんだい」


 彼女はすたすた小気味いい歩調で歩みながら、低い声で言った。


「イシャーナ、獣化の剣士って言葉、知ってる?」


 彼は眉をひそめた。その言葉通りの意味ではないのかと思いながらも、いいやと答えた。


「それは、剣士の間では有名な言葉や」


 歩きながらニルティはポツリと呟いた。


「有名どころか、特別な、その響きからして特別な言葉や」


 彼女にしては珍しく、その低い声は痺れるような興奮を帯びている。イシャーナはその響きから、という言葉こそが詞のような響きを帯びて聞こえた。


「あなたの言ったことは、どうも真実味がありそうや。そしてもしも、もしあたしの考えることが正しいんやったら」


 彼女はそこで言葉を切り、彼を振り返って壮絶に笑った。


「莫大な金になるで」


 イシャーナは一瞬、彼女が何を言ったのか頭に入らなかった。無表情なニルティが彼に向けて笑いかけたのは、これが初めてだったのだ。しかし壮絶で、甚だ物騒な笑顔だった。


「え……。売る気かい?」


 彼女の語る言葉は独特の響きを帯びていて、その剣の金銭に換えられない特別な価値を告げていた。なのに。


「人に売ったら、危ないって言ってるじゃないか」


 ニルティはニヤリと笑ってから、前を向いて再び歩き出した。


「大丈夫。ちゃんと説明して、それでも買うって奴に売るやろうから。大体、少々危ないもんやないと、むしろ誰も信じてくれへん」


「売るやろう? 売るだろうってことか? 売るのは君じゃないのかい?」


 ニルティはちらりと後ろのイシャーナに流し目を寄越した。


「あなた変なところで耳ざといな。まあ、心配しゃんといて。ちょっとアテがあるってことや。ちゃんと説明して売るし、買う方かって大人や、自分で責任取るやろ」


「でも!」


「まぁまぁ、ちょっとした友達への土産みたいなもんや」


 ニルティはすたすたと歩きながら、気のない様子でいなした。


「ニルティっ」


 イシャーナがさらに言おうとすると、彼女は唐突に鋭く叫んだ。


「しっ」


 彼女はぱっと掌を広げて見せ、イシャーナは立ち止まって息を止めた。


 しーんと、深いアバックの山の中に耳鳴りのするような沈黙が広がる。イシャーナにはニルティが何に気付いたのか分からない。ただ心臓の音さえ控えるようにじっと黙っていた。

 しばらくすると耳が慣れて聞き流していた水の流れる音や、頭上高くで葉の擦れる音など、聞こえるような聞こえないような音が、静けさから染み出てくる。

 しかしそれでも、彼女の気にする何かはイシャーナには分からない。耳を澄ましてじっとしていると、目の前のニルティはピクリと動いた。


 その後しばらく石か木の様にじっとしていた彼女は、まもなく力を抜いた。


「音や。なんか音がする。なんであんな音が鳴るのか分からんねんけど、深く森を揺らす木の音や。何か分かる?」


 イシャーナは首を振ってから少し考え込む。


「いや、いや。木? 猿かい?」


「枝が揺れるとか葉の擦れる音やなくて、木そのものの音や」


「鹿が木にぶつかっているとか? 時間的にあり得ないが、木こりか」


「そんな半端な音やない。もっと、もっと木そのものを揺るがすような」


 ニルティは耳を澄ますように顔を上げた。


「迂回する方がいいかい?」


 迂回するといっても結局目指す場所は変わらないので、本当に大回りするしかない。

 彼女は少し考えて首を振った。


「よく分からんけど、必ずしも危ないとは限らへん」


 上げていた顔をすっと戻して、彼女はイシャーナを見た。


「行ってみよう」


 言って、ぱっと駆け出した。


「どうしてっ!」


 彼は思わず叫んだが、彼女はひらりと手を振って残っても良いと示した。だが放っておけるはずがない。彼女一人でうろうろして、町へ辿り着けるというのか。


「守るとか言っていたくせに、もう、」


 小走りに後を追いかけた。


 ニルティは軽く軽く、でこぼこのアバックの山道を、平地をかける馬のように軽く下った。イシャーナも暗闇に随分慣れ、見えない足元を何とか見ながら追う。

 途中でニルティは方向を変え、音に向かって川沿いを外れ山の中に入っていくから、イシャーナだって困る。時々彼女は立ち止まって、彼を待った。また、夜明けが近付いてきたのか、周囲がわずかに明るくなってきた気もして、彼はなんとか付いて行った。


 ズシーーンッ。


 震えるような低い音が聞こえてきて、彼の顔は引きつる。それは深く低く、森全体を震わせる音だ。

 一体何の音なのか本当に分からない。

 少し先で待っていた合形に追い付くと、イシャーナは荒く息を吸った。これ以上走り続けるなら、ちょっと付いて行けそうにない。別に走る必要など無いのに。

 まあ、心配しなくても音の原因はこの周辺だろうと思う。


 ズシーーンッ。


「ニルティ、霧が出てきたよ。余り離れて進むとはぐれる」


 少し速度を落として欲しい、と。


「霧? 今ですか?」


 ニルティは歩きながらきょろきょろ周りを見回したが、まだ暗いせいもあってよく分からないだろう。それに王宮の周りはあまり霧が出ない地域で、霧について言葉でしか知らないのかもしれない。


「アバックは霧が多いんだ。巻き布が湿ってるはずだよ。まだ山の中は暗いけど、外はそろそろ夜明けなんだろうね。この辺りは川下で、湖にも近いし、出たら多分濃霧になる」


 ニルティは分かっているのかいないのか、頷きながら何か気になる様子で辺りを伺っていた。


「なんか、においしません?」


 イシャーナは首を傾げた。


「におい? どんな」


「甘いにおいや。甘くて、堪らん」


 無表情で彼女は言った。


「甘くて、甘くて、泣きたくなる。懐かしい、好きなにおいや」


 イシャーナは無表情の彼女の熱烈な言葉を奇妙に感じるが、彼はまだ何のにおいも感じない。


「においの元と、音の元は、同じ辺りかい?」


「さあ、流石ににおいの方向までは分からへんし」


 しかし音に向かって歩いていくと、明らかににおいが強くなっていった。イシャーナもすぐに気付いた。最初は確かに、甘くて良い香りだと思った。

 ただ甘いだけじゃない。甘さの中に苦さと切なさを含む、複雑で高貴な甘い香り。懐かしく、昔どこかで嗅いだことのあるような。

 しかしもっと近付くと、段々首をかしげることになった。


「良いにおいと言うより、臭いよ。甘いけど、果物の腐った甘さだ。それに、なんだか生臭い、魚臭い」


 そのにおいがはっきりしてくれば、非常に臭かった。嫌なにおいというのは本当に嫌なものだと、イシャーナは初めて知った。


「ニルティ、どうかした?」


 彼女は相変わらず例の無表情だったが、どこかぼんやりして見えた。


「良いにおいや」


「え?」


 イシャーナは眉をしかめた。ニルティは遠くを見るように顔を上げ、呟く。


「堪らんにおいや。やっと見付けた」


 ふと見ると彼女の右手は、血管が浮き上がるほど力を込めて剣を握っている。イシャーナはその手を剣から引き剥がそうと手を伸ばしながら、怒鳴った。


「ニルティ!」


 ぺしっ。彼女は伸びてきた彼の手を、剣を手放した右手で叩き落として、目の前の必死な形相の青年を不思議そうに見つめた。


「どうかした?」


 イシャーナはきょとんとした。


「え、今。ニルティ、君」


 まじまじ彼女を見つめてから、いや、と呟いた。


 ズシーーンッ。

 音はいよいよ近く、大きく、深い。空気から二人にまで真っ直ぐ振動が伝わる。木がまばらで見通しの良いアバックの山地なので、普通ならとっくに音の原因が見えているのだが、闇とそれから霧によって、まだ何も見えない。


 見えないだけですぐ近くに巨大な何か、魔物か獣かもっと別のものかが牙を剥いているかもしれない。二人は並んで、そっと足音を殺して歩いた。

 イシャーナは、そろそろ逃げ出したい気持ちを押し殺して、冷静な顔でニルティの隣を歩く。彼女を放って置いて、一人で逃げ出すことは出来ない。

 もはや彼には少女を頼りないだとか守らなければなどと考えることは出来ない。しかし絶対に放ってはおけない。彼が彼女を放り出しては、彼女はどんな無茶をするか分からない。置き去りにされないように、見失わないように隣を歩く。


 森の外では確かに夜が明け始めたのか、仄青く輝いていた苔は光を発さなくなり、黒い闇に白い色が混じる。霧が白くかすかに色付いた程度で、一寸先はまだ灰色の闇だ。

 しかし二人はとろりとした闇の向こうで、巨大な影がゆらりと動くのを見た。太い何かがゆらりと曲がり、イシャーナはアバックの巨木が一本倒れたのだと思って、衝撃に体を備えた。


 ズシーーンッ。

 ニルティが隣で息を止めて駆け出そうとして、イシャーナは反射的に彼女の体を掴んだ。


「離して!」


「行ってどうする気だい!」


 この二人で力比べをした場合、明らかにニルティの方に軍配が上がる。イシャーナはずるずると引きずられて行くことになった。


 近付くほどに影は明らかになり、それが明らかになるほどにイシャーナは、逃げ出したくて仕方なくなる。ニルティを引きとめようとする足の力はずるずる抜けて、それでも決して離さず引きずられて行く。

 その全貌が霧の闇から明らかになったとき、二人とも立ち止まり呆然とした。


「龍、じゃないか」


 青黒く輝く龍は、巨大な丸太のように森の中に横たわっていながら、のたうっていた。それは巨大で、アバックの巨木よりは細そうだったが、人二人で抱えきれないほどの大きさで、尾は二人から今は見えない。

 強烈な甘いにおいが辺りに充満している。今度はにおいが強すぎて、甘いにおいが他の嫌なにおいを打ち消している。


「どうしてこんな所に龍が」


 イシャーナは驚き過ぎて、恐怖すら忘れた。それにいくら強大そうでも、よく分からないものよりもよく知り戦いなれた敵のほうが恐ろしさはマシだ。

 龍は大きく頭を跳ね上げると、重たげに揺すって近くの太い木の幹に苦しげにぶつかっていった。


 ズシーーンッ。

 地が裂けたような、雷が落ちたような、強烈で深い音だった。イシャーナは目がくらみそうに感じたが、隣の合形の掴んでいた腕から飛び出しそうな一瞬の筋肉の緊張を感じて、反射的に抱きついた。


「離せやっ」


 ドスの効いた低い声で、吠えるように彼女は叫んだ。


「落ち着いて、落ち着いてニルティ。どうしたの、一体何だい」


 イシャーナはニルティの怒鳴り声の恐ろしさに泣きそうになりながらも、幼い子供をなだめるように彼女に語りかけた。二人とも酷く興奮していて、どちらも酷く混乱していた。


「誰があんなことしたんや。あんなこと、許さへん。見付けたのに。折角あたしが、一番に見付けたのに」


 駄々をこねるように彼女は叫んで、イシャーナを引きちぎるようにはがした。走りながら剣から布を破くように捨てて、ニルティは巨大な龍に斬りかかった。


「バカやろうっ!」


 イシャーナは怒鳴った。馬鹿だ馬鹿だと実は思っていたけれど、まさかこんなにバカだとは。

 彼女の愚かな行動に付き合う義理などもう尽きかけているだろうに、それでも付き合う自分も馬鹿だと、思ってイシャーナは必死で走った。


 ニルティは龍の長い首の一部を斬り付けたが、人間の小さな体では龍の体に傷一つ付けられまい。変な体勢で剣を振り回している。

 龍は不愉快そうにうねった。

 龍の小さな身じろぎも、小さな人間の身に当たれば致命傷である。まだ逃げようとしないニルティに飛びついて、イシャーナは避けきれないと思った。


 彼はニルティの持っている剣を、彼女の手の上から掴んで振った。


 剣の先から莫大な量の風が生まれ、龍と二人の間に小さな爆発が生じた。二人はまとまり合ったまま風に吹き飛ばされ、そのまま地面をごろごろ転がった。

 その風は龍を傷付けるほど強くもなく、それはまた不快そうに身をよじったが、転がって逃げた小さな生き物を追おうとはしなかった。


「痛ぁ、つ」


 風で吹き飛ばされた時、イシャーナがニルティを庇うように抱きしめて転がったから、彼の方があちこち打ち付けている。全身が痛んで、どこが痛いかも分からない。

 彼の上に乗っていたニルティは、ひょいと退くと、仰向けの彼を上から覗き込んだ。


「イシャーナ、大丈夫やった?」


「大丈夫じゃないよ! まったく、何他人事みたいな平気な顔してるんだい。君がねぇ。いたっ」


 イシャーナはニルティを掴んで、離さないように気を付けながらのろのろと起き上がった。


「龍に向かって斬りかかって行くなんて、どういうつもりだよ」


 彼女はしれっとした例の読めない顔をしていて、さっきまでとは明らかに違っていた。狂気ともいえるほどの凄みと必死さが失せて、べたりと読めない凪いだ瞳をしている。


「ニルティ、君さっきやっぱり獣化の剣に取り憑かれてただろう」


 イシャーナは精一杯低い声を出して脅した。どことなく彼女の無表情も、わざとらしいところがあるように思える。


「だからあの剣は捨てた方がって、」


 彼が言おうとすると、ニルティは珍しく言い訳のように言った。


「いや別に、あたしは龍を斬ろうとした訳やなくって。あの龍に巻き付いてる紐を切ってやろうと」


「紐だって? あの龍にかい?」


 イシャーナは立ち上がってそろそろ龍を伺った。


「紐か蔦か何かはよく分からんけど、斬れへんねん。あれも暴れるし。

 でもだからあんなに暴れてんのに、あの龍大して動かれへんねん」


 ニルティは龍の方へ歩きながら、来いと言うように振り返った。


「もしかして、動けないから危なくないって言いたいの? さっき僕たちあの首にはね飛ばされそうになったんだよ」


「ちょっと離れて大人しく眺めてたらいいねん。大丈夫やって。あなたが見たらちょっと分かることもあるかもしれへんし」


 イシャーナは嫌な顔をしながらも、そっと龍に近づきその様子を伺う。よく見ると龍の長い胴体のあちこちに太い綱が絡みついている。

 それは毛羽立っているのか棘があるのか痛々しく、互いに絡み合って龍の長いからだのあちこちを縛り付けている。


「誰があんな、馬鹿なことを……」


「やっぱり、人間がやったことやと思う? 龍が勝手に絡まったんやなく」


「違うね。あの綱はアバック地方の狩人独特のもので、ただの綱じゃなく、狩りに使う道具だ。虎狩の時に使うんだ。一度獲物に絡みついたら、棘が絡み合って絶対に外せない。獲物が暴れれば暴れるほど固まって、剣でも切れなくなる」


 剣でも、とニルティは呟いて龍を眺めた。


「どうしても、この龍を助けたいと思うねんけど、どうしたらいい?」


 イシャーナも頷いた。これは彼としても見過ごせる問題ではない。


「そうだね。この綱を外す方法はアバックの村人だけが知っている秘術らしい。とりあえず街に行って、魔術寮と連絡を取ろう、知っている人間が居るかもしれない」


「寮はこのことでちゃんと動いてくれる?」


 ニルティは疑わしそうに言ったが、イシャーナは皮肉気に笑った。


「動くどころか、これは大事件だよ、ニルティ。この龍はただの魔物じゃない。神とも呼べるレベルの生き物だよ、龍神だ」


 龍はどうしてもその綱を外したいのか、ゆらゆらとのたうっては、何度も手近な大木に頭を打ち付けている。

 冷静さを心がけながらその顔を見て、イシャーナはその顔に大きな傷があることに気付いた。しかし、傷と言ってもなんだか妙だ。彼は龍の顔全体に、理由の分からない違和感を感じていた。


「この霧は、その龍が吐き出している息が作っているんだよ。龍には数多くの伝説があって、どれも正しいかどうか分からない。

 でもおそらく正しいだろう説の一つに、龍は霧を作るというものがあるんだ。雲とは、霧だよ」


「はあ、どういうことで」


「ダクシャナ平原の大ひでりは、龍がここに捕らえられていることが原因なんだ」


 ニルティは流石に驚いた顔でイシャーナを振り返った。そうだ、これは大事件だ。


「アバックの人間のせいで、ひでりやってこと?」


「いや、それは分からないけど。何か理由があってここにやって来た龍を、偶々見つけて捕らえたんじゃないかな」


 何か、理由。イシャーナはもう一度龍をよく見た。その顔に感じる、違和感について考える。あの顔、なんとなくぼやけて見える。まるで、二重に重なっているように。





 彼女はもう、この龍の香りにもそれを縛る綱にも、さほど激情を揺さぶられない。あれはやはり間違いなく、彼女の感情ではなく、獣化の剣が与えた衝撃だったのだ。

 ということは、イシャーナの言っていたことの信用が増す。彼女はひょこひょこ歩いて、吹き飛ばされた時手放した剣を拾った。


 どうして剣のせいで龍に強く反応するのか、ニルティは分かるような気も、分からない気もする。


「ニルティ、その剣まだ持っていく気かい。その危険さはいい加減分かっただろう」


「もうこんなことせえへんから」


「そういう問題じゃない」


 イシャーナは真っ直ぐニルティを見た。彼が真剣に、しかも真っ直ぐ彼女を心配しているのはよく分かる。


 さっき彼女は龍からイシャーナに助けてもらった。あれは確かに彼女の失敗であり、彼女の借りだ。

 あれでイシャーナをアバックの村人から助けた貸しはチャラになって、二人は今改めて対等になったと、勝手に彼女は感じている。彼はそんなことちっとも思っていないだろうが、彼女はそう思っている。


 一方的に命令したり、守ったり、頼ったりの関係はもう終った。どちらもいくらかずつ失敗したから、二人は対等だ。

 そしてニルティは、なんと言われようと結局、


「手放さへん。これは、絶対手放さへん」


 イシャーナはその断固、と言うか取り付く島のない口調に恨めしそうな顔をして、まもなく諦めた。



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