3章 魔術の禁忌(前)
血まみれの巻き布をばさりと落とした。
固く固く縛った編み靴の紐を解いていく。ここ数日、眠っている間だってこの靴を履いていて、足が固まっている。
ズボンを脱いで、肌着を脱いで、素っ裸になる。夜なのに裸でも暖かいくらいだが、清らかに流れる川の水は冷たい。歩き通しで火照った体には堪らないほどだ。
足先からそっとそっと入っていく。真っ暗闇で足元をどこかに取られないように。全身を水に慣らすと、流れの緩い深みを探す。ざぷりと頭の頂点まで水に沈み、顔を出してサラサラと髪を洗った。
ほんの小さな川だが、流石に川にはアバックの巨木も生えないので、枝も腕を伸ばしきれずに、彼女にちらちら月の光が届く。わずかな月の光にも、髪を洗った川の水が一瞬濁るのが分かった。すごい返り血だ。
髪を洗うと一度川岸に戻り、巻き布と剣を持って今度は浅瀬でしゃがみ込む。ところどころ破けた巻き布をじゃぶじゃぶ洗う。血が取れやすい素材で出来ているのか、髪よりも水は赤く染まった。
剣は水に浸けながら、巻き布で拭っていく。こちらは血よりも油を丁寧に落とす。月の光にかざして刃を良く見るが、あんなに固いものを斬ったのに刃は特に傷付いたり刃こぼれしたりしていない。
人を、実際に斬ったのは初めてだった。
イシャーナがどう思ったかは知らないが、アバックの村人はきっと誰一人死んでいない。流石に殺すのはまずかろうと思ったのだ。
イシャーナのようにどうしても人を殺したくないという気持ちではない。誰か一人でも殺せば、アバックの村人は二人を本当に殺そうと追って来るだろうと思ったのだ。
ニルティはカンゼの騎士たちを見て、恨みがどれほど厄介で面倒なものか知っている。殺されかけたから返り討ちだとか、正々堂々の決闘だったといったって、死人の身内は聞いてはくれない。恨んだら、ひたすらに、恨むだけだ。
そして同時にニルティは、殺しても心に何も感じないだろう自分を、恐れていた。本当に命の危機に際してならば、ニルティは迷わず敵を殺すだろう。今回は単に、アバックの男達がニルティが手加減できるくらい、彼女にとって弱かったからそうしたまでだ。
そしてイシャーナは。
裸の濡れた肌に冷たい風を感じながら、ニルティは剣の水気を拭い、清潔な乾いた布で丁寧に剣を巻いていく。
イシャーナは、誰も殺せない人間だ。命の危機に際しても、傷付けるよりも傷付くことを選ぶ人間である。
魔術の天才で、利口で一見冷静で、まるで強者に見えるのに、いつでも傷付く側の人間だ。
「ああ、そういうことか……」
考えていてニルティは、ふと思い当たった。イシャーナが強硬に、魔術師は人を傷付けられないと主張していた理由に。
思い当たって非常に、不味い気持ちになった。
しまったと思った。
あの人は合形つぶしのイシャーナ。傷付けられたことが、あるのだ。
編み靴を解いて、巻き布とズボンをたくし上げ、火照った足を川の流れに浸した。
頭がくらくらとして、座って上半身を起こしているのも辛い。肩の傷は熱く、熱が伝染して全身をぼんやりさせるが、水に触れる足先からはぞくぞくと寒気が上って来る。
体中汗がでるほど熱いのに、震えもあって、熱いのか寒いのか、痛いのか痛くないのかも分からない。
傷口から熱が出たのだ。
今魔物が襲ってきたら、イシャーナはまともに戦うことが出来るだろうか。ニルティを守りきることが本当に出来るだろうか。
情けない。全く頼りない合形だと、イシャーナは思った。
今更自分が守られる立場に立つことになるとは、彼は思ってもみなかった。
しかしこの状態では、彼は合形を守るどころか、足手まといにしかならないだろう。自分が足手まといの側になるだなんて、イシャーナは信じられなくて、泣きたいような笑い出したいような気持ちになった。
ニルティは、彼の新しい合形は、彼が今まで信じてきた常識を尽くぶち壊していく。
彼女は何も恐れない。イシャーナが恐れるものを何もだ。
魔物も人も迷信も、確定しない未来に襲い来るかもしれない不都合も危険も、恐れないと言う。イシャーナのことも、恐れないと。
彼は、自分には怖いものなど何も無いと思っていたのに、実は何もかもを恐れていたのだと気付いてしまった。
本当に傲慢な人間を知ってしまったからだ。この先の困難に知恵を巡らせて備えるのでなく、ただ自分の強さ一つで乗り切ってしまえるという自信を持つ人間を。
野生の獣のように、自分の強さだけで生きる誇りと傲慢。
魔物を相手に剣を振るう彼女は、まるで赤い獣だった。
パシャン。
流れる水の音とは違う不規則な水音が聞こえて、彼はふと顔を上げた。その拍子に、熱くぼんやりした頭がひときわくらりとして、一瞬イシャーナは上下の感覚を失った。
パシャン。
「……ああ。冷たい」
イシャーナは軽く頭を揺すった。
腰掛けていた小さな岩から落ちて、浅瀬に服ごと浸かってしまったらしい。しかし水はひんやりと心地よく、彼は体調の悪さよりも、熱によるぼんやりとした眠気を感じて、動きたくなかった。
しかしこのままここに居たら、いずれ溺れて死にそうだ。
「何してんのですか」
呆れたような声が降ってきて、イシャーナは答えるように頭を揺すったが、返事は出来なかった。
冷たくて細く柔らかい指が彼の首にそっと触れて、すぐに離れていった。
それから、柔らかく冷たくて温かいものが彼を包み抱きしめて、ひょいと持ち上げた。その柔らかさにイシャーナは安心して身をゆだねていたが、ふと気付いて暴れだした。
「ニルティ! な、何してるっ」
「何って、運んでるんですよ。酷い熱やないですか。服も脱がんと川に浸かって、そんなことしても、熱は下がりませんよ」
「そうじゃなくて。ふ、服、服はこっちが言いたいよ。君は!」
イシャーナは少女の腕の中から逃れようとじたばた足掻いたが、彼女はそんなもの意にも介さずがっちりと彼を捕らえていた。彼は泣きそうになりながら叫んだ。
「裸じゃないか!」
「そりゃ今まで水浴びしてたんやから」
ニルティは平然と言った。
「は、は、肌が触れてるよ」
それ以上に、この頭の近くにある柔らかい感触は。
イシャーナは今まで以上に頭に血が上ってきて、無駄に暴れたこともあり、地面に降ろされた時はぐったりとしていた。
ニルティは巻き布や荷物を下に敷いてイシャーナを寝かしてやり、彼がうるさいので軽く服を着た。
「ちょっと気にし過ぎやで。あなたを丸め込もうと寮の長老たちが色仕掛けでも企んだら、一発やね。実際あたし、そういうこと遠回しに言われましたよ」
ニルティは彼と合形を組むに当たって、寮長達から色仕掛けについても軽く示唆された。しかし実際にその効果を期待している様子はほとんど無かった。
ニルティは、顔も体も見るからに平凡で、むしろイシャーナのほうが美人と形容される姿をしている。外に出かけることの多い魔物討伐を担当しているので、魔術師とはいえ女性に言い寄られることなどよくありそうだ。
今だって、月明かりに照らし出される黒い瞳は熱のせいで潤み、ニルティだってぞくりとするほど色っぽい。
苦しそうにぐったりしながらも、イシャーナは猛然と反論した。
「色仕掛けだからって、本当に脱ぐ子は居ないよ。
色仕掛けって言うのは、好意があることを言葉や仕草でさり気なく示すんだ。急に服を脱ぎ出したら、元気だったら逃げてるよ」
「そんだけ暴れたら充分ですよ。魔術師っていうのは、色仕掛けでも口だけですね」
ニルティはいかにも自分が魔術師で無いかのようにしらっと言った。
イシャーナは少しむっとしたが、怒り続ける体力も足りないのだろう、寝転がって空を仰いだまま息を吐いた。
「この川を下っていったら、町に着くよ」
「はい?」
隣で荷物を漁っていたニルティは、話題が急に飛んだのできょとんとした。心の中で、熱が出ているときくらい黙っていればいいのにと思った。
「僕が案内しなくても、川に沿っていけば、君なら夜明け前に町に出られる。夜の間は金翅雀も出ないし、狼も虎も君は平気なんだろう? なら夜のうちに歩いた方が安全だ」
ニルティは仰向けのイシャーナをわざわざ真上から見つめて、もう一度低い声で尋ねた。
「はい?」
「ニルティは、僕を置いて先に行くんだ。熱が下がり次第、後を追いかけるから」
彼女は、相変わらず無表情なのは変わりなかったが、茶色の瞳がキラリと物騒な光を帯びた。
「イシャーナ、まだ分かってなかったんですか。言っとくけど、今足手まといなのはあなたや」
彼女は真上から見下ろして、自分の合形に指を突きつけ、ゆっくりと言った。
「守られるのも、庇われるのも、命令されるのも、大人しく言うこと聞くのもあなたや。黙って見とき」
その口調は決して厳しいものではなかったが、全く優しいものでもなかった。同時に不機嫌にも、気遣っているようにも、無関心にも聞こえるだろう。
彼女は荷物の中からわざわざ持ってきていた紙と緑がかった黒のインクを取り出した。
ニルティは、控えめに言っても魔術が得意ではない。だから、杖の代わりに剣を提げて歩いているのは、剣を杖代わりに使えるからではない。そもそも、杖で魔術をほとんど使えないからだ。
ニルティが魔術を使うときは、わざわざ紙に魔術の通りの良いインクで記号を描いて魔術を使うことしかできない。そうしていても、複雑な魔術は成功しない。
魔物討伐の魔術師は、そんな風にのろのろと記号を描いていては、魔物に襲われてしまう。魔物討伐に必須なのは、まず早さ、そして強さだ。
しかし、治癒の魔術師は魔術の発動をそれほど急ぐ必要は無い。
魔術の内容そのものは、魔物討伐に利用する火や水といった単純な攻撃と比べてぐっと複雑になるが、最初から上手くできる必要も無い。実際に仕事をして、何年もかけて学びながら一人前になればいいのだ。
実際魔術寮の学舎で、ある程度以下の能力の者は、問答無用で治癒魔術師への道を歩むこととなる。
しかしニルティは、普通ではなかった。長老たちの変な企てに巻き込まれたという面も無くは無いが、彼女には治癒の魔術師としてどうしようもない欠陥があった。
失敗することである。
ペシッ、ペタ。
「っ痛っ。おい、もっとそっとしてくれ」
ニルティは記号を描いた紙を、イシャーナの額と肩の矢傷の近くに押し付けた。肩には、消毒用に持って来ていた度数の強い酒を服の上から振り掛ける。イシャーナはぎょっとして、痛みに顔を引きつらせた。
「消毒完了」
「前もって言えよ」
彼女は魔物討伐の魔術師になれるほど有能ではなかったが、治癒の魔術師としては致命的な欠陥があった。
ニルティは、繊細な人間ではない。
魔物討伐の魔術師になれる芽もなく、治癒の魔術師としては欠陥があったけれど、自分の将来に対する不安といったものを抱えるほど可愛らしい性格ではなかった。
ただ彼女は治癒魔術が下手で、人に優しくするのが苦手な人間で。誰かを傷付けることしか自分が得意でないと知って、少し虚しいだけ。
でも、それが彼女だった。彼女はそういう人間なのだった。
ニルティは、仰向けに寝転がっているイシャーナの体の上にのしかかり、紙の上から額と肩を押さえ込んだ。イシャーナは身動きできなくなった。
「目標は、肩の矢傷の癒着と、傷による痛みと熱を和らげること。成功確立は五分五分や。ちょっとの間、黙っててくださいよ」
静かな口調だったが、イシャーナは脅されているような気になった。一言でも話せば命は無いぞ、と言われたのだ。
ニルティは無表情のままだったが、凪いだ瞳の奥に見る間に物騒な金の光がともった。今にもイシャーナの喉に喰らいつこうとする、肉食獣の目だ。
彼女はイシャーナを熱心に、今にも飛び掛ってかみ殺してやろうという瞳で見つめながら、集中して紙に描いたインクの跡に魔力を流し込んだ。ゆっくりゆっくり、彼女の意識が記号をなぞってゆく。
イシャーナは、ぞっとして逃げ出したくなった。ニルティは今、敵を倒そうとしている。彼女にとって敵とは彼の傷なのだが、彼自身さえ巻き込んで殺さんとしているように見える。
彼の肩には今、血の滴る美味しそうな肉の塊が乗っている。目の前の獣は、それを食べようと舌なめずりしているのだが、勢いあまって片腕一本持って行かれそうな雰囲気である。
じわりっ、と肩と額の紙が熱を持ち、彼は体内から焼ききられそうだと思ったが、まもなくそれは収まった。仄かに暖かく、包み込むような優しさが代わりに生まれる。
ふわふわと形無い物がイシャーナの体中を巡り、気付けば体から力が抜けていた。それに続いて、痛みが抜け、火照るような熱さが抜け、優しい何かも抜けて行った。
後には何も残らず、眠りから醒めたようにぼんやり彼は目の前を見つめた。ニルティは恐ろしい獣から、元の無表情な少女に戻って、彼の上からゆっくり退いた。
イシャーナはおかげで体を起こすことが出来た。
額からひらりと落ちた紙は、描かれた記号が綺麗に消滅した紙だった。
体中疲れ切ってあちこち力は入らなかったが、痛みはなく、熱による不快さも消え去っていた。自分の体を見回して、イシャーナは少し掠れた声で言った。
「あ、ありがとうニルティ」
それから顔を上げて、幼い子供を褒めるように優しく笑った。
「君、充分治癒の魔術師になれるんじゃないかい。失敗するか成功するか半々って、その年なら充分な確率じゃないか。長老たちの言い分だと、よほどの劣等生かと思ったけど」
ニルティは優しく笑うイシャーナを無表情で見つめていった。
「劣等生です」
「ああ、紙に描かないと魔術が使えないのかい? でも治癒ならそれは別に欠点にならないよ。討伐をどうしてもやりたいと言うなら、難しいけどね」
言って彼は、深く考えずに付け加えた。
「ただちょっと、怖かったけどね。殺されるかと思った」
さらりと言ってしまってから彼ははっとした。
酷いことを言った。彼は合形からそういう類の言葉を何度も言われてきたけれど、その度に死にたくなるほど苦しむのに。
焦って何か言おうと口を開くが、それより先にニルティが言った。
「そうなんです」
「……何が?」
「別に殺すまでは行かへんのですけど」
今何か恐ろしい言葉を聞いたと彼は思った。
「何がだい?」
「あたしの治癒魔術ってなんやら、攻撃と紙一重みたいで」
イシャーナは驚愕して目を見開いた。
「どういうことだ」
「治療しようとしても、火を噴いたり、凍ったりするんです。五分五分の確立で」
「そこが五分五分?!」
ニルティがわりとどうでもよさそうに首を傾げた。
「あたし、人に優しくするの得意やないんで」
「そんな問題じゃないよ」
ニルティはまた荷物をごそごそ探って、携帯食料を出してイシャーナに渡した。
「食べてちょっと休んだら出発しましょか。水汲んできますわ。良かったら酒もありますけど」
「いや、酒はいいよ、消毒用だろ。怪我が治ったばかりだし。水を頼むね」
こんな所で誰が酒を飲むんだ、と怒鳴りたくなって彼は堪えた。川のほうへ向かうニルティを見送って、一つ息を吐く。
文句を言ったり怒ったりしてばかりだけれど、本当に彼女に頼りっぱなしで情けないことこの上ない。
携帯食料を開いて乾いた豆を口の中に放り込む。魔術で不自然に大急ぎで怪我を治させた体は、疲れきっている。痛みも熱もないけれど、体力は足らず働きも鈍い。
乾いて素っ気無い豆の味が、じっくり染み出してくるまで良く噛む。一つ飲み込んだら、また一つ。きちんと食べて、少しでも体調を良くして、ちょっとでも足手まといにならないように。
彼女は怪我をしたイシャーナに対して、ほとんど苛立ちを顕にしない。というより相変わらず何を考えているか読めない。
しかしそれは、彼女が感情を表さないように努力しているからでも、表情の筋が固くて無表情だからでもないと、今彼は感じている。
なぜなら彼女が話していても、大いに感情をあらわに怒っていても、結局イシャーナには良く分からなかったからだ。
ニルティの怒る理由が分からない。つまり多分、二人はあまりにも違っているのだ。
イシャーナは自分が魔術寮の中で、実はアウトサイダーだということに気付いているし、ニルティも彼とは違う意味で魔術師として規格外の存在だ。彼女の存在は、イシャーナの知識や想像の外側に今まであったのだ。だから彼女の行動や思考を、予測も想像もできない。
彼女はイシャーナが今まで出会ったことのない存在なのだ。
まだ何も、知らない存在なのだ。そもそもイシャーナの世界は、元より決して広いものじゃない。
「豆だけを食べてきた人生で、急に魚でも食べたような感じだよね」
イシャーナはポツリと言って、遠くでパシャンと水音がした。