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獣化の剣  作者: 吉岡
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2章 (中)


「イシャーナ、逃げるで」


 イシャーナの側から遠くへ、きらりと冷たい光が走った。ビュッと血が吹き出し、目の前が真っ赤に染まる。彼はぎゅっと目を瞑った。

 その瞬間ぐらりと体が傾いた。そのまま転ぶことを覚悟したが、足は地面を離れたのに体は宙に浮いている。

 イシャーナが目を開けると、彼はひとりでに宙を飛んで逃げ回っていた。違う。ニルティの肩に担ぎ上げられて、ぐんぐん二人は男たちから逃げているのだ。


 驚き過ぎて声も出ない。

 ニルティはイシャーナ一人を抱えたまま素早く駆けて、邪魔する男を二人、冷たい輝きで斬った。


「イシャーナ、それ持って!」


 そこで立ち止まったニルティに言われて、彼は咄嗟に目の前のかがり火を掴んだ。そのまま二人は森の中へ逃げ込む。


 村の傍らには、すぐそこに森がある。そこでやっとニルティはイシャーナを降ろし、かがり火で足元を照らしながらでこぼこした地面のアバックの森を駆けた。

 しかしいつまでもかがり火を持っていては、追っ手からの目印になる。イシャーナははっと気付いたが、ニルティは分かっていたかのように頷いた。


「目くらましをするねん。魔術でできるだけ遠くの、違う方角に火を付けてくれへん? それを、あいつらが追うように」


 ニルティは落ち着いた声で言った。驚くべきことに彼女はまだほとんど息も上がっていない。


 イシャーナは頭の中で彼女の言葉を繰り返してやっと、言わんとすることが分かった。変わった口調で話すので、混乱しきった頭では一度で言葉が入ってこないのだ。

 一瞬考えて、イシャーナは青くなった。


「……できない」


 ゼーハー荒い息を吐きながら彼は呟いた。ニルティもきょとんと彼を見詰めて、パカッと口を開いた。


「荷物持って来たら良かった。杖がないから魔術が使えへんのか。じゃあ火、消さんなあかんわ」


 ニルティはかがり火を地面に落とした。


「それくらいならできるよ」


 イシャーナはふゆふゆっと指先を動かして風を起こし、一瞬で火をかき消した。

 それは今まで二人が話していたことと奇妙な齟齬があったが、そんなことを気にする余裕もなく、二人はすぐに駆け出した。


 アバックの木のびっしりと繁った葉が月明かりを阻んでいたが、地面を覆う苔が仄かに発光しているようで、二人の足を助けた。行き先も考えず二人はひたすら走った。

 ニルティの足は驚くほど軽く、疲れも見せずに時折よろけるイシャーナの手を引いた。イシャーナは様々に考えたいことで頭をいっぱいにしながらも、走るうちに頭の中は自然からっぽになっていくのだった。


 どこまで駆ければ良いのか、二人のどちらにも分からない。疲れきって、もう大丈夫では無いかと思い始めた頃だった。ニルティは不意に、警戒でもしたようにイシャーナを引き寄せた。


 風を切る、彼の使う魔術に良く似た音が、したのだ。


「うあっ!」


「イシャーナ!」


 あっと、肩に火を押し付けたような痛みが走って、イシャーナはその場に転んだ。

 ニルティは肩にかけた荷物の袋からすらりと剣を抜くと、イシャーナの傍らに腰を落として構えた。

 弓だ、と彼は気付いた。気付いてニルティだけでも逃げるように言いたかったが、声が出せない。どこから飛んで来たのか彼には少しも分からなくて、ニルティが見る方向に顔を向ける。


 一つの影が山の斜面の上方に、少し離れて薄く見えた。その後ろからわらわらと明かりが近付いてきた。人がさらに来るのだ。ニルティに逃げるように言わなければと思いつつも、痛みで意識が散らばって行く。


 かがり火を持った男が二人合流して、やっと最初の一つの人影が誰か見えた。怒りで別人に見えるほど顔を赤く歪めた大柄な男、ピナカだった。

 ピナカは、ニルティが斬ったせいで死んでしまったかと思っていた。

 そんな自分を愚かだと思いつつも、イシャーナは思わずほっとした。


 ピナカは弓を構えると、ゆうゆうと森に響き渡る声で言った。


「罪人共よ。愚かにもおまえたちは名誉ある死の機会を失った。かくなる上は、南と空の守り神に神罰を与えていただく」


「名誉ある死なんか無いわ」


 ニルティはイシャーナにだけ聞こえる程度の声で吐き捨てて、彼を守るように前に出た。


「ニルティ」


 かすれた声で哀願するように彼は呼んだが、彼女は落ち着いた声で言った。


「射手が一人で、来るって分かってる矢ぁやったら、切り払って見せます」


 しかしピナカが放った矢は、そうするまでもなく、二人から少し離れた場所にガトンと音をたてて落ちた。


「女に守られるとは、情けない男だな」


「あたしより弱い男が何を言うねん。今からでも叩き斬ったるで」


 ピナカはギロリと少女を睨み付けたが、すぐに鼻で笑った。


「剣士は何もできまい。魔術師は、杖が無ければ子供のように無力だな。大人しく神罰を受けろ」


 ニルティは身構えていたが、男はそう言うと身を翻して去って行った。残された二人は一瞬呆然としていた。

 訳が分からなかったが、ニルティはとりあえず振り返ってイシャーナの隣にしゃがみ込んだ。


「イシャーナ、大丈夫ですか」


「うん。大丈夫、だよ。掠っただけみたいだ」


 支えられながらイシャーナはそろそろと体を起こした。

 大きな怪我は何度かしているが、人に武器で以って傷付けられたことはそれだけで大きな衝撃を与えた。特にもう、絶体絶命だという状況では。

 しかし改めて考えれば、たかが肩である。かすり傷とは流石に強がりだったが、矢は確かに命中したと言うほどではない。酷く痛むが死ぬほどの傷ではない。

 ニルティは剣で自らの巻き布を裂き、患部に巻き付けた。


「よく分からへんのやけど、これでええんかな。立てます?」


 イシャーナはのろのろと立ち上がり、右手で左肩を強く抑えて圧迫した。


「急いでここを去った方が良いよ。できれば……水のある場所を探したい」


 今、彼らがどこにいるのかさっぱり掴めないが、先程の村の近くには細い川が流れている。その川の流れは湖の一部に繋がっているので、辿っていけば街に辿り着けるはずだ。


「探せます? 場所」


 イシャーナは顔をしかめた。もう少し明るければ、夜が明けていれば、周りの景色や道の印の布の色で場所が分かるのだが、そんなにのんびりしていられない。

 その時、突然ニルティがきょろきょろと周囲を見回した。


「どうかした?」


 彼女は眉をよせながら、しかし相変わらずそこ以外は無表情で言った。


「臭い」


「え?」


 尋ねたと同時に、イシャーナの鼻もぷんと甘い臭いを見つけ出した。しかしすぐにその臭いは強くなり、嫌な、非常に嫌な臭いになった。


「うわ、くさい。魚、臭い」


「色々な臭いが混じっているんだ。うわ」


 それは確かに甘い臭いであったが、例えば腐った食物が発酵して甘い臭いを放つような。決して単純に快いとは言えない臭いだ。


 二人は臭いの発生源を探して、先程ピナカの放った矢を見付けた。矢には四角い箱が結び付けられていて、地面に落ちた衝撃で箱はぱかりと割れていた。


「あれやな」


 ニルティは無造作に近付くと、爪先で軽く箱を蹴飛ばした。カロンと軽い音をたてて箱は転がり、むわっとさらに悪臭が立ち上った。箱の中からは、見慣れない物体が出てきた。

 ピナカが何かの意図を持ってそれを放り出したのは間違いない。二人は真剣にその物体を眺めた。


 仄かに輝く苔の光を頼りによく見るが、苔の光は弱い上に緑がかっていて、その物体の正確な色は分からない。おそらくは、青っぽい色をしている。透明なようにも見えて、形無くでろりと地面にへばり付いている、見覚えの無い物体だ。

 イシャーナも一瞬魔術師としての好奇心が騒ぎ、痛みも忘れてそれに見入った。食物か、植物か、生物か。植物から取り出した成分か、巨大な生き物の死体の一部、何かの卵か。

 何にしろこれがこの強い臭いを発しているのだろう。考えてイシャーナは気付いた。気付いてどうして気付かなかったのかと自分を罵りたくなった。


「ニルティ、逃げるよ。釣り餌だ。この臭い、何かを呼び寄せてるんだよ。何か」


 凶暴な生き物を。

 イシャーナが叫んだ時、ニルティは既に身構えていた。ピナカたちの意図に気付いたからではない。彼女はそれよりも先に、別のものに気付いていたからだ。


「もう遅い。来ましたで」


 相変わらず落ち着いていて、しかもぎょっとするほど低い声だった。彼女は右手に抜き身の剣を持ったまま、のそのそと肩に掛けた荷物と水筒を下ろし、無言でイシャーナに押し付けた。

 呆然としてそれを受け取り、暗い闇を見渡してみても、イシャーナには何も見えない。ただ耳を澄ますと、ガサッガサッと聞こえる気がしたが、それも気のせいかもしれない。


「川のある方向、探して下さいよ。ここにおったら何匹でも集まって来よる。相手しながら逃げた方がええですよ」


 イシャーナは慌てて怪我を庇いながら肩に荷物を掛け、頭の中を回転させる。手近な木にしがみ付いて手探りで布を探し出し、縦にしたり横にしたりしながら色を推測する。こんな時に火の魔術が使えたらと歯を喰いしばった。

 村から逃げ出した方角を思い出し、見えない月を見上げて探しながら、大急ぎで頭を動かす。


「半分以上勘だからね。とりあえずこっち」


 ガサガサいう音が追いかけてくるような気がして駆け出しそうになったが、ニルティはイシャーナに並ぶでなく数歩後ろに付いた。


「どうした?」


「ちょっとずつそっちへ進んで下さい。そやけど、あたしから離れて先にも行き過ぎんといて下さい」


 彼女はイシャーナと反対方向を向いて立った。イシャーナはためらった。

 人間ではない生き物が、二人を襲おうと狙っているのだろう。イシャーナは二人で急いで逃げようとしていたが、彼女は今居る一匹とは闘い、相手をしながら逃げようとしている。

 ならば彼女が戦う必要はないのではないか。


 確かに彼女はどういう訳か剣が使え、暗闇の中でも獣の気配が読めるらしい。彼はといえば杖も無いし、怪我をしている。しかしそれでも、痛みで集中は欠くが多少魔術は使える。そして敵は人間ではなく獣のようだ。

 剣で野生の猛獣に勝つのは決して簡単ではない。普通弓矢で戦うのだ。そして魔術は、飛び道具である。


「ニルティ、僕が戦うよ」


 イシャーナはそう言って、彼女に近寄ろうとした。


 キラリと、彼女の右手の剣が光った。イシャーナは、ギクリと息を呑んだ。闇の中で、見えないはずのニルティの平凡な茶色の瞳はギラギラと輝いていた。


「運命なんです」


 唐突にニルティは言った。


「こうなったのも全部、結局あたしの運命やったんです。あたしとあいつの間には、こういう運命があったんです」


 ニルティが輝く剣を向けると、闇の中で大きな影がうごめいた。そのシルエットに、イシャーナは諦めに似た溜息を吐いた。考えたくなくて分からないフリをしていたが、予想していなかった訳がない。


 金翅雀だ。


 金翅雀は普通、夜は眠っている。

 なのに、あの強烈な臭いは、この眠っていた魔物を目覚めさせてしまったのだろう。


「ニルティ。剣で魔物は倒せないよ。僕が戦うから、」


「そんなん誰が決めたんですか。死んでもいい。あたしは戦いたいんです」


 ニルティの声はどこか陶然としていた。その上珍しい抑揚が付いているというのに、相変わらず彼女らしい凪いだ調子に聞こえるのがおかしい。


「戦いたい。戦いたいんです。本当は昼間、イシャーナが戦ってた時から堪らんかったんですよ」


 足元の苔が仄かに光って、彼女の体の低い部分はイシャーナにもぼんやり見えたが、その表情は分からない。長い赤茶の髪の毛先が、地面近くでチラチラと踊って光った。


「堪らへん、堪らへんのです。今この戦いを投げ出したとしても、あたしがあたしである限り、きっとまた我慢できへんくなる。

 だってあたしは知ってしまったんや、あなたを。魔物に勝てる人間の存在を」


 小さな抑揚で話すのに合わせて、きらりとニルティの目は光る。同時に、近付いてくる巨大な生き物の存在感も増す。魔物がじりじり近付いてくるというのに、どうしてのんびり話なんて出来るんだろう。イシャーナは思う。もし自分なら、いや、どんな魔術師だったとしても、とっくに先手で攻撃しているのに。

 しかしイシャーナは、ニルティの雰囲気に押されて手が出せない。彼が魔術を金翅雀に向かって放ったら、後ろから彼女に斬りかかられそうだ。


 それ以上にイシャーナは逃げ出したい。金翅雀は動きが鈍いし夜目が利くとは聞かない。今逃げれば逃げ切れるのではないか。いや違う、動きが鈍いほうだとは言っても他の魔物に比べてで、今のような状況で人間が逃げ切れる訳がない。


 もう、それ以上にイシャーナは、恐怖で叫びだしたくなった。しかし隣の少女のかもし出す奇妙な緊張感がそれを押し留めるのだった。


「戦いたいんです。体がそうしたがってるんや。あたしは、戦うことを、我慢できへん」


 低く言って、ニルティはぱっと飛び出した。




 ニルティは飛び出した。

 猛スピードで敵に駆け寄り斬りつける。


 グエーッ。


 聞いたこともない、耳に不快な甲高い鳴き声が上がり、素早く跳び退った。

 たまらなかった。

 胸がドキドキする。

 いや胸どころでなく、体全体が心臓になったかのようだった。特に剣を持つ右手は燃えているかのように熱く、その掌は体とは別個にどくどくと脈打った。

 鉄で出来た冷たいはずの剣にその熱と振動は伝わり、剣は一つの生き物のように熱く、一つの生き物のように脈を持った。


 グエ――。

 頭上から不恰好な鳥の翼が襲ってくる。技巧もクソもなくニルティは力任せに剣を振り切った。


 野生動物と比べればスピードはやや鈍いが、その分重くてパワーがある。その上、固い。鳥のくせに、羽毛なのか皮なのかなかなか切り難いが、まったく切れない訳ではないはずだ。

 昼間は風の魔術で、あんなに易々と切り刻まれていたのだ。


 斬り付けては退き、翼や足の爪、嘴の攻撃を避ける。それらの凶器は決して鋭くはないが、力強い。一撃でも完全に当たれば、命に関わるだろう。

 怖くないわけではない。死ぬのは、怖い。

 しかし体中に血が巡り巡って、興奮で、恐怖は認識できないのだ。あらゆるものはほとんど体の興奮に引きずられてしまっている。


 体の感情に全てが負けるのだ。考えて、判断しながら剣を振るう。しかし、考えて判断する前に体は動いてしまっている。

 たまらない。

 恐ろしいけれど、ドキドキする。


 興奮は喜びでも悲しみでもないけれど、それ以上の圧倒的な感情を呼ぶ。

 勝ちたい。勝つのだ。

 死への恐怖よりも怖いものがある。衝動は死よりも、甘く切なく絶対的だ。

 そしてニルティは、そんな風に思う自分自身が何よりも怖い。


 ドキドキする。

 胸も、耳元も、目の裏にさえ脈がある。腕にも肩にも太股にも、足の爪先にも右手の剣にだって心臓が宿る。

 殺そうとしている目の前の醜く派手な妖鳥に、恋をしている気分になる。初めて、本気で殺そうと思った対象。初めて愛するように、彼女にとって忘れられない相手になるだろう。殺すにしろ、殺されるにしろ。


 初めて、命を賭け合った存在。


 これは彼女にとって、初の実戦だった。


「!うっ」


 力強い蹴りを剣と体で受け止めながら喰らって、軽く吹っ飛ぶ。木の根にぶつかりながら転げて、素早く体勢を立て直す。

 その上から彼女を踏み殺そうと金翅雀は足を伸ばした。ニルティは一瞬息を吐く。


 衝撃を吸収してしまい体まで届かない、分厚い羽毛が守る胴体。確かに固いがそこそこの太さの足。

 致命傷にはならないが、トリガラの方が斬り、やっ、すっ、いっ。


「うおおおおぉっ」


 獣のように吠えて、ニルティは剣を振り切った。


 金翅雀の足は断ち切れはしなかったが、到底魔物の巨体を支えるに足る一本ではなくなっており、鳥は体勢を崩し激しく喚きながら倒れた。

 ニルティは鳥の足元から転がり出て跳び上がった。


 さぁ。

 さぁ、最後の一瞬なのだ。

 あなたが勝ってもあたしが勝っても恨みっこなし。


 跳び上がったニルティは、全体重を掛けて突いた。自分の体重から剣の先まで真っ直ぐに、芸術的に真っ直ぐにそろえ、体制を崩した金翅雀の眉間を真っ直ぐ貫く。


「ああぁぁぁっ」


 その頭蓋を、砕いた。


 あなたが死んでもあたしが死んでも恨みっこなし。

 その瞬間、ニルティと彼女の剣は別々の心臓を持つ生き物になった。しかしその瞬間、心はぴったりと重なっていた。




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