表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣化の剣  作者: 吉岡
3/16

1章 (後)

 

 アバック山地の緑は濡れたように色濃い。

 均等な色でない、まだらの緑がでこぼこと山を覆っている。緑の屋根を時折ひときわ大きな巨木が貫き、見たことも無い奇形の植物が蔓を揺らす。離れて見ていていかにも気味の悪い深い森である。


 二人はまだ朝のうちに到着して馬車を降りた。森のなかに入ってみると、意外に見通しは悪くない。背の高い草は少なく、木々はどれも非常に背が高い。葉も枝も人間の目線よりはるか高い場所に付いているので、目線の辺りに何もなく、丁度見通しが良い。巨大すぎる木々は、一本ずつ一定の距離を開けて生えている。

 アバック山地の土壌は特殊で、新しく植物が芽を出し成長するのは難しいのだ。葉は高いところでびっしり茂り、日光を地上まで下ろしてくれない。根付いたばかりの若木は、苔に覆われて成長を止めてしまう。アバックの山の木は、どれも樹齢数百年以上の巨木なのだと言う。


 この地の道は、人の目の高さにある。木の幹の一定の高さに、青や赤の布の切れ端が結び付けられている。それを目標に商人たちはこの険しい山を越えるのだ。そしてその道は、非常に歩きにくい。

 ニルティは、汗でへばりつく髪を払いのけながら、黙って歩いていた。イシャーナは流石に山歩きに慣れているのだろう、さっきから延々と、アバックの山道の読み取り方を説明してくれている。いい加減にこの男は黙らないのだろうかと、ニルティは呆れた。


 三日前、唐突にニルティはイシャーナと合形を組むこととなった。イシャーナはどれほど理解しているのか分からないが、ニルティは学舎でも最低の劣等生だった。そんな彼女がイシャーナと合形になったのは、何も長老の嫌がらせだけでは無い。長老たちはイシャーナの新しい合形を選ぶのにそこまで細かい注文を付けてこなかった。学舎の普通の生徒を寄越せと言っただけだ。

 そこでニルティを選んだのは、学舎の指導係の親心だった。ニルティが前々から治癒の魔法に向いていないために、魔物討伐に就きたいと主張していたこともある。しかし結局、ニルティが最も向いているとみなされたからだ。


 ズルッ。

 片足が滑りそうになって、ニルティはもう片足でしっかりと地面に踏ん張る。

 アバックの山道は、国内有数の難所だ。普通の山道は、道が整えられていなくても、人が歩き土を踏み均す事で歩き易くなっていく。道に侵入してくる枝は切り落とされ、そこに生える草は踏み潰される。

 しかしアバックの山道では、足元にあるのは巨木の根だった。丸太ほどの太さもある、切ることさえ難しい、固い固い根だ。人が踏み歩くことで歩き易くなるどころか、根の表面が磨かれて滑りやすくなる。更に湿度の高いこの地域では、地表をみっちりと細かな苔が覆うのだ。


 走りなれた王宮周辺の林とは全く違う。それでも彼女は、朝から半日歩いている間に、この山道の歩き方を覚え始めていた。

 ザラッと、遠くで音が聞こえてニルティはふと顔を上げた。大した音ではない、この山は見通しが良く、葉擦れの音も遥か高い所から聞こえるから、動物の気配が非常に分かり易い。


 彼女は腰に下げた袋から、棒を取り出す。布でぐるぐる巻きにした棒は、魔術師たちの魔術の媒介である杖のようなものだ。本当は杖を持って来なければならないところを、持って来なかったからこうして誤魔化している。このままならば別にばれないだろう。ニルティは不安定な足元の支えにそれで地面を突いた。


 学舎の指導係がニルティを選んだのは、彼女ならば危険な任務で生き残る確率が高いだろうと考えたからだ。ニルティは女でありながら、その体力と図太さによって選ばれたのだった。合形の優秀なイシャーナに比べれば、学舎の子供の魔術の実力など、たかが知れている。それよりももっと別の、原始的な生命力にで選んだわけだった。


 ひでりのせいで、アバック山地もかなり雨が減っているはずなのに、じっとりと湿度が高く、雨は降っていないのに歩いているだけで全身が濡れている。汗が目の中に入って、目の前が見えにくい。

 これ程歩きにくい山道では、ニルティの学舎の同年代の連中だったならば、既に疲れて座り込んでいただろう。今日一日歩いただけで、足の裏の皮が剥けて翌日ろくに歩けなくなっているかもしれない。魔術師は大人も子供も、大抵体力が無い。

 イシャーナはニルティの様子を時々伺いながら歩く。細身の彼は体力なんて無さそうに見えるが、流石に魔物討伐のエリートだけあって、平然とした顔でニルティの体調を気遣っている。


 合形つぶしのイシャーナなんて呼ばれて、どんなに怖そうな魔術師かと思えば、意外なことに非常に面倒見の良い青年であった。

 男の癖に、冷ややかな美貌と呼ぶべき硬質な美形の主だ。

 冷たい目元で、ニルティに気付かれないように、いつも彼女のことを気にしている。冷静さを装って、どこか何かに怯えている。

 彼は真上を見て、太陽の位置を確認したのか、荷物を背中から下ろした。


「大丈夫かい、ニルティ。よく頑張って歩いてたよ。痛いところや辛いことはどこかにないかい?」


「別に」


 自分は一体何歳児なんだ、と思いながらニルティは言い捨てた。

 手近な木の根に腰掛けて、腰に吊るした荷物から干し肉と水を取り出す。決して美味くないが、食べ慣れたそれを千切る。千切りながら、気を使ってもらっていたのに、別に、は酷い返事だったかとふと思う。


「どこも、痛く、ないです」


 ぼそぼそとイシャーナに告げる。ニルティは別に無口なわけではないが、イシャーナと話す時は話し方に気を付けなければならないから嫌なのだ。どうしても話すのが面倒臭くなる。彼女はガラが悪いし、言葉に珍しいなまりがある。丁寧に言い方に気を付けて話そうと思うと、言葉が出ない。

 だが、別に、は酷かった。ニルティは干し肉をかじりながら考える。


「金翅雀って、どんな魔物、なんですか」


 イシャーナは何か質問されると機嫌が良い。説明するのが好きなのだ。ニルティは機嫌を取るように尋ねた。

 彼はニルティのその思惑に気付いたのか、呆れたようにニルティを見て話し始めた。


「金翅雀は特別珍しい魔物じゃない。君も討伐の任務を志望するくらいだ、魔術寮の学舎で魔物について色々と学んでいるはずだね。金翅雀について知っていることを言ってみなよ」


 大半の魔術師たちは幼い頃大勢でまとめて学舎の教育を受けるが、エリートのイシャーナは違う。より才能のある子供は、年配の合形と師弟関係を結び、その人から直接様々なことを学ぶのだ。だから彼は、非常に様々なことを良く知っていると同時に、学舎についていささか勘違いをしているように思う。多分彼はこれまで、よほど優秀な合形としか組んでこなかったのだろう。

 学舎のごく普通の子供は大体、そんなに真面目に必死に勉強をしていない。ニルティは腕を組んで考え込んだ。ダメだ、多分何も覚えていない。


「金翅雀……ええと、赤茶色のでかいニワトリ、です。あまり飛べなかった、ような。それから、好物は、蛇?」


「龍だ!」


 イシャーナは鋭く言った。その声の鋭さに彼女ははっと、彼を見つめた。


「龍が好物?」


「それから金翅雀は飛べるっ。小回りが利かなくて、狭い場所では飛べないけど、金翅雀は南の島国からこの国まで、飛んで来るんだ。まったく、学舎は一体どんなことを教えているんだい!」


 イシャーナはニルティが驚くほどの勢いで言った。それを聞きながら、ニルティはどうして自分が金翅雀についてあんなに色々なことが説明できたのか、自分でも不思議だったが納得していた。なんてことは無い、馬車の中でイシャーナがずっと説明していたことを、半端に覚えていたから、蛇だの赤茶色だの言えたのだ。


「へえー」


「何が、何に今納得したんだい」


「飛べるんや、と」


 イシャーナは噛み付きそうな顔になった。それから、怒りを吐き出すように、息を吐いた。


「この辺りから、金翅雀が現れると報告にあった地点だよ。これからしばらくは、周囲の様子を見ながら山を歩く。魔物討伐と言うけど、僕たちは討伐以前にまず、金翅雀を見付けないといけないんだ。この広い広いアバックで、金翅雀をたった一羽。……まあ、二羽くらい居るかもしれないけどさ。それを、目撃証言だけを頼りに見付けなきゃならないんだ」


「目撃者はほとんど、喰われて死ん、で、ます、し」


 ニルティは相槌を打ちながら、なんとか後半を敬語に持って行く。自分でも、まともな言葉になっていない自覚はある。

 イシャーナはきろりとニルティを睨み、皮肉そうな口調で告げる。


「いいや、目撃者のほとんどは生きてるはずだよ」


「あ、はい。分かりました」


 ニルティは真面目くさって片手を上げた。イシャーナには、来る道々で何度も小難しい謎をかけられた。それにほとんど答えられなかったのだから、答えが分かる時は進んで答えておくべきだと、彼女は思った。


「アバックの村人たち、だな」


「そう、正解。長老たちは村人に直接尋ねて情報収集しろって言うんだよ。殺されろと言ってるようなものだよ、バカらしい。そう簡単に話してくれないだろうし、得た情報が真実だとも限らない。村に居る間僕たちは、金翅雀のこの字も出さない方が無難だよ。言わなくてもバレるだろうけどね」


 つまり、二人はわずかな情報を頼りに山をさ迷い歩き、魔物を捜さねばならないのだ。これは全く、学舎の同年代ではニルティ以外堪えられなかっただろう任務だ。


「これだけは、運の面も大きいんだ。行ってすぐ魔物と遭遇することもあるけど、僕は一ヶ月、鍋を背負って森の中を歩き続けたこともあるよ。金翅雀は大きいし羽の色も派手で分かり易いから、そこまでにはならないと思うけど、でもアバックは広いからね」


 アバックの村にはあまり滞在したくないようだから、食料などの補給にだけ立ち寄り、後は山の中で寝起きすることになるのかもしれない。

 森の中での寝起きは、普通は体力的に非常に辛い。ニルティは魔術師としては例外的に、山の中で寝起きするのに慣れていたから平気だと思うけれど。


「出来るだけ早く見付けたいから、手がかりになりそうなことは何でも知らせてくれ。僕が見落として、君が気付くこともあると思う」


「はい」


 真面目くさった顔でニルティは手を挙げて見せた。イシャーナは首を傾げた。しっとりした黒髪が、額に張り付いて、こんな森の中でも美しい。


「何? 質問?」


 ニルティは首を振った。


「いいや、気付いたこと」


 そして二人が今やって来た方角を指差した。


「さっき来る途中、大型動物の気配を感じ、ました」


 イシャーナはぎょっと振り返った。


「本当かい?」


 ニルティは右手で布を巻いた棒を持ち、左手をそれに添えながら頷いた。


「どうしてその時言わなかった?」


「野生動物は普通、人間にわざわざ近付かない、狩られるから。だから危険でない、と、思って。でも金翅雀の可能性は、あります、よね」


 イシャーナは背中にくくり付けていた杖を抜き取った。

 彼の杖は太く滑らかで、良く使い込んだ雰囲気がある。討伐の魔術師の杖だからところどころにぶつけたような痕があるが、丁寧に手入れされて杖そのものが気品を放っているようだ。

 ニルティは数ヶ月前に、魔術に失敗したせいで真っ黒焦げになり使い物にならなくなった自分の杖を思い出した。彼女は学舎の教育係に激怒されて、新しい杖を買ってもらえていなかった。彼の杖と比べて、確かに彼女の杖はかわいそうな杖だった。


 ニルティは左手で棒を撫ぜながら、目を閉じる。彼女の相棒は杖ではなくて、この得物なのだ。神経を耳に集中させて、深く息を吐く。


「あれ?」


 ザラッという、警戒心の足りない、大型動物特有の動作の音。


「近付いて来てますね。虎、やない。音がします」


 しなやかに足音をころして近付く、狩りをする大型動物の足音では無い。もっと無遠慮な、無造作な足音。王宮の近くの森には、こんなにも傲慢な足音を立てる動物は存在しなかった。


「音? 本当か? どこだ」


 イシャーナが緊張した様子で小声で尋ねる。ニルティは目を細めた。アバックの木々は間隔が広いので見通しがいい。ちらりと、巨大な幹の立ち並ぶ隙間に、木とは違う濃い赤が見えた。


「……金翅雀や」


 ニルティは小声で告げて、ゆっくりとその方向を指先で伝えた。

 イシャーナは驚いたような顔をしたが、小さく頷いた。杖を構える。


「お手柄だ、ニルティ。よくやった。魔術に巻き込まれない、少し離れた所で見ていろ。手は出すんじゃないよ」


 まったく、彼はニルティを何歳児だと思っているのか。

 彼女は野生の獣など怖くはないが、魔物と戦ったことは一度も無い。魔術師の戦いも、実戦はまったく見たことが無い。どんなものだか、お手並み拝見。ニルティは目を細めて棒を左手で撫でた。


 イシャーナは、背負っていた荷物を地面に置くと、杖だけ持って駆け出した。走りながら彼は、ぶんっ、と杖を振った。不自然なくらい大きな風が、そこから発生した。



 学舎でニルティたちが一番最初に学んだのは、円の中にペケや三角、四角などの記号を書いて、簡単な魔術を起こすことだった。紙に書いた記号に意識を走らせえて、風や火やわずかな水滴を生み出す。記号は様々にあり、これが風、これは光、これが大きくする記号、と一つ一つ覚えた。

 その頃はまだ単純で、ニルティも無数の記号を喜んで覚え、面白がって紙に書き散らした。

 しかしそれだけでは実際に魔物を倒すことなどできはしない。記号を幾つも組み合わせ、自分で自分の魔術を作っていくのだった。火と風で炎、水と冷気で氷、水と風で嵐。そこに大きさ記号、方向記号、良く分からない付属品をたくさん付けて、巨大な自分の記号を作るのだ。


 ニルティはもう、その頃には諦めきっていた。はっきり言って彼女にはその手のセンスが無かった。火と水で周りが雷を作るところを、彼女の火は消えたし、地震を起こそうとして、起こったのは砂嵐だった。

 複雑な記号も巨大な円も実用的では無い。魔物を倒す間に書いている暇は無いのだ。何度も使い、頭で無い部分で覚えることで、記号を簡略化できるようになる。単純な記号の魔術ならば、何も書かなくても杖でポンと地面を突くだけで魔術を起こすことが出来るようになる。

 そのためには、集中力と想像力が必要だった。ニルティは前者には自信があったが、後者は、まったく無かった。


 しかしイシャーナには、おそらくあらゆるものがあった。センスも勘も良かったのだろう。見たところ努力家で、根気もあったのだろう。


 彼は、天才だった。



 彼が左手を前に突き出すと、五指それぞれから一つずつ小さな円が生まれた。

 踊るように、くるりと振った杖の先から、連続して小さな丸が生まれる。

 タン、タン、タン。彼が踏んだ足元から、光の円が弾けて生まれ、肘、膝、肩、あらゆる関節が触れた空間に円が零れた。


 その瞬間ごとに無数の円が生まれる。その一つ一つが、風や水滴の小さな魔術を起こして、それと共に円が生まれては消えて行く。小さな風が、互いに干渉し合ってひとかたまりの強風になった。


 ニルティはそれを呆然と見ていた。


 あっという間にイシャーナは、白い泡のような無数の円にまぎれて行く。

 莫大な数の魔術。風を複雑な大きさ記号で数千倍の強風にするのでなく、数百個の小さな風の魔術を干渉させ合って万倍の大風にする。これほどの数の記号、全てに集中して、一つ一つを計算し尽くしているなど、そんなことが可能なはずがない。


 彼はただ、踊っているように見えた。伸ばした指先、踏む足の一歩まで優雅で、緩やかに自然にただ踊っているように見えるのだった、

 その踊りのついでに、自然と風が起こり、彼を取り巻く。

 イシャーナの魔術は、ニルティの知るそれとは根本から違った。彼女は呆然と、それを見ていることしか出来なかった。


 彼は美しかった。それによって生き物を殺そうとしていることが信じられないほどに。


 魔術寮の学舎の噂で、ニルティはイシャーナのことを聞いたことが何度かある。

 冷酷な合形つぶしのイシャーナ、プライドが高く、わがままで残虐でしかし、間違いなく魔術の天才。

 ニルティはここで、はじめてその噂を理解した。


 彼を実際に見て、ニルティはお節介な男だと思った。出会ったばかりで今後も組む訳でもない彼女に、くどくどと説教をして面倒を見た。

 信念と実力に裏打ちされた誇りを持った、頭のいい男だと思ったのだ。そしてその誇りと頭の良さが、他の魔術師たちにとってはうっとうしく思えたのだろうと。


 勿論、その予想も間違いでは無いだろう。しかしそれは、違った。

 違ったと、ニルティは思った。

 全てはこの、彼の魔術のせいなのだ。


 ひらりひらり、イシャーナは左の掌と杖とを躍らせる。無数の円は円で干渉し合い、勝手に円までも増やしていく。

 巨大な風に取り巻かれて、金翅雀はつんざくような悲鳴を上げた。


 ギエーッ、ギエーッ。

 金翅雀は赤い巨体を震わせて、逃れようともがいた。


 イシャーナの風は、優雅に踊る彼とはまったく違い、凶暴な風の刃だった。干渉しあって膨れ上がった強烈な風は、彼の踊りに制御されて一つの方向へ圧縮される。魔物の周りで渦を巻き、巨鳥を無遠慮に傷付ける。

 赤い羽根が周囲に飛び散り、鳥はバタバタ暴れた。


 あの巨大な鳥が、風の圧力から逃れることも出来ない。ニルティは目を見張った。鳥は、イシャーナに触れることもできない、少し離れた所で、なす術もなく切り刻まれていくしかない。

 圧倒的な、これ程の実力差があると、魔物にさえ同情を感じてしまうことを彼女は知った。

 こんなに圧倒的な魔術を、ニルティは知らない。想像もしたことがなかった。これ程の実力を見せられて、今までのイシャーナの合形は何を感じたことだろう。


 嫉妬、恐怖、それから絶望。

 とうの昔に魔術を諦め、学舎をサボりまくっていたニルティでさえ何かを感じる。


 イシャーナの風はひときわ強く渦巻き始める。彼は、風の他に、水滴や冷気の魔術も組み込んでいた。

 風は、水滴や氷の刃を含み、魔鳥自身の流す血しぶきさえ凍らせて、その殺傷力を増す。周囲の土や木の根の欠片まで巻き込んで、風は赤茶色の塊になる。

 風は、嵐だった。魔術で作られるパターンの決まった、嵐という名の魔術ではなく、風と雨と土ぼこりと雷で実際に作り出した、小規模な嵐なのだった。


 全てを巻き込みなぎ倒す、生き物には抗う術も無い、自然の力。暴風雨。

 それは金翅雀の周囲のアバックの巨木さええぐり、鳥の鳴き声さえその中に閉じ込めてしまう。時折渦の中では、ビリリと鋭い音と共に光が起こった。

 強力な、しかし局地的な嵐。完璧に制御されて、ニルティの所にはそよ風ほどしか届かない。

 ニルティはただじっと、見ていることしか出来なかった。

 地面に突いた、杖であって杖でない道具を、布越しにぎゅっと握った。強く握りすぎた右手が、プルプルと震えている。掌から血脈がトクトクいうのが伝わり、まるでその冷たい道具に心臓が宿ったようだ。


 堪らない。


 そう、堪らなかった。立っていることがやっとだった。

 胸が高鳴り体が震えた。


 ニルティは頭の片隅で、合形のことを冷静に分析していた。その一方、彼女の動物としての本能は、天災である嵐を恐れていた。また心の方では、彼の舞を美しいと感嘆していた。

 しかし、体は震えていた。死に行く魔物をうっとりと見つめ、早く早くと急かしていた。


 早く行かないと、終わっちゃう。

 動き出そうと震える体を、理性は必死で止める。イシャーナは何度も何度も、途中で手を出そうとするなと言っていたのだから。魔術師の戦いに、途中で手を出すなんて危険過ぎる。


 理性では分かっていても、体はうずうずしていた。

 自分だって。

 自分だって、自分だって。

 ニルティは必死で、冷たく固い棒を握り締めた。右手が動き出さないように。


 彼女の目の前で、金翅雀はやがてもがくことを止めた。しかし風は止まない。

 風の刃は大きな魔物の体を切り刻んでいく。細かく細かく、土に塗れて、もう抵抗もできない鮮やかな色の魔物の体は切り刻まれていく。


 それは見るからに残虐な所業だった。美しく踊るように魔術を操って、冷静な顔でそれをするイシャーナはいかにも冷酷そうだった。


 金翅雀の体が元の形も分からなくなった頃、ゆるゆるとニルティは冷静になった。というか、獲物が居なくなり、興奮が冷めたのだった。

 まだぼんやりする頭で、魔物が切り刻まれていくのを見る。なぜイシャーナが、冷酷に見せかけて世話焼きな誇り高い男が、残虐だとあんなにも有名なのか彼女は分かった。

 彼の魔術は他の魔術師たちのそれと大きく違うからだ。


 イシャーナの魔術は単純な記号を千も万も組み合わせて、延々と繰り出される。多くの魔術師は、複雑で少しでも攻撃力の高いオリジナルの記号を編み出そうと汲々としているのに。

 また彼は、不得意なのか何か理由があるのか、攻撃力の高い火の魔術を使わないのだ。ここで火を使えば、切り刻む面倒など必要なく、一発で灰に出来ていたはずなのに。


 イシャーナの魔術と他の魔術師たちの差は、敵に何千個の小石を投げ付けてなぶり殺しにすることと、殺傷力の高い剣で一撃で切り殺そうとすることの違いだ。

 生き物を殺すことを生業にしておいて、残虐だ何だというのは、いかにもバカらしいとニルティなどは思う。しかし横で見ていてどちらが残虐に見えるかと言えば、間違いなく前者なのだった。それてどちらが難しいかと言っても。

 つまりは、そういうことだ。


 彼女の目の前で風は止み、後には台風一過のように局地的に無残な景色がある。

 イシャーナはくるりと彼女を振り返り、少し高慢にも見える笑みを口元に浮かべた。


「終ったよ。こんなに早く終るなんて、今回の任務はすごく運が良かったね」


 それだけ言って、また彼は向こうを向いた。

 ニルティは、あっと思った。

 今、彼は恐れたのだと、彼女は気付いた。ニルティを見ずに、手近にあったアバックの道、巨木の幹に付けられた一枚の布を覗きながら、告げる。


「ここから一番近い村まで行くよ。そこで明日の朝に発つ。馬車のある寺院まで少し遠いからね」


 易々と巨大な魔物を倒しておきながら、彼はニルティのような少女を恐れていた。

 恐れられることを、恐れているのだとニルティは気付いた。


 彼はずっと、旅の間ずっと、恐れていたのだと気付いてしまったのだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ