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獣化の剣  作者: 吉岡
15/16

5章 (後)


 イシャーナは勢いよく右手の杖をぐるぐる回した。最も基本の風の記号を、杖の柄と先の両側から放ち続ける。同じ記号を毎秒数十個ずつ生み出しながら、左手の指先で方向記号を生んで、風の動きを調整する。


 方向記号で風の動きを一瞬止めて威力を溜めて、放って勢い良く金翅雀を一匹吹き飛ばした。

 すぐ目の前で、今にも襲い掛かろうとしていた金翅雀が吹き飛ばされても、ザバは顔色一つ変えずに真っ直ぐに目標を見つめている。目標以外何一つ目に入らない表情で、彼は静かにそれを投げた。


 イシャーナは、タイミングを計って杖を素早く振り上げ、風の刃でそれを壊す。

 容器が壊れて、中から酒が上手く零れ出たのを見て、二人はほっと息を吐いた。


「よっしゃ、そろそろ終わりやな」


 ザバが振り返って、イシャーナににやっと笑いかけた。


 ズシーン。


 大地が震えるような音がして、イシャーナは顔を上げる。龍は相変わらず激しく暴れている。


「次の下戸縄で終わりかな」


「あれだけ暴れとったら、残り一個ぐらい千切りそうやけどな」


 正直イシャーナも、もうそろそろ作戦も終了したと思っている。帰りたいところだが、しかし、


「ニルティ、呼んだら聞こえるだろうか」


 彼女は、金翅雀に混ざって暴れている。金翅雀たちを斬った返り血で、髪も巻き布も真っ赤に染まり、赤い魔物に混じって見分けも付かない。


 ただ時折、彼女は鳥達を踏み台に高く跳躍する。太って動きの鈍い鳥たちを出し抜いて、上から戦いを仕掛けている。絶えず動き続けて、どういう体力をしているのか、全く人間とは思えない。

 獣化の剣が彼女の体にまでなんらかの作用を及ぼしているのではないかと不安にもなるが、そこまで心配しても何の意味も無い。


 いつ大怪我をするのでは無いかと最初はイシャーナもはらはらしていたが、そのうち心配するのにも飽いた。今は、早く大怪我でもして、死ぬ前に諦めて欲しい。戦うことをやめて欲しい。

 でないといつまで経っても、彼女は止まらないのだ。


「あいつ、ほんまに人間離れしてきてんな」


 ザバは言いながら、ガタガタと酒樽の蓋をあけた。


 皮袋を投げて下戸縄に酒をかけているうちに、手持ちの酒も皮袋もあっという間に尽きた。酒は、荷物置きにしていた場所まで取りに戻ればすむ話だったが、皮袋はそんなにいくつも持って来ていない。しかし龍の近くまで歩いていって、そろそろと酒をかけて逃げ戻ってくることなど、到底出来そうに無かった。


 食事用の碗に蓋をしたり、風の魔術でアバックの木を切り出したり、破れた皮袋を必死で回収したりして、なんとか容器を作った。

 ザバは酒の中に、イシャーナが作った木の容器を沈めている。


「もしこれ失敗したら、新しいの作るのもういらんで。諦めて帰ろうや」


「次それでダメだったら、樽ごと投げようよ」


 容器の口に、水を弾く木の葉を丸めてつめて蓋をする。ザバが作業している間、イシャーナは杖を振って、金翅雀からザバを守った。


 酒樽を転がして魔物たちから離れた場所に置いておくと、金翅雀を弾き飛ばしながら、龍に届きそうな位置を探す。何度も失敗して、何度ももう諦めて帰ろうと思ったが、随分手際もよくなった。

 暴れているニルティは、ほとんど役に立っていない。イシャーナと、何の義理も無いザバが、汗と泥に塗れながら必死になっている。イシャーナはザバに現在、非常に申し訳ない気持ちを抱いていた。


「この辺りからなら、届くんじゃないかな」


 イシャーナは杖の動きを止めた。既に生まれえていた記号が、干渉し合って無数の記号を生む。惰性の風が、周囲の金翅雀を綺麗に吹き飛ばした。


「おお。魔術師って、ほんまに魔物は簡単に倒せるよなあ」


「ああ、まあ、そうだね。金翅雀はさほど強い魔物では無いし。こんなに大量に居たら話は別だけど、積極的にこっちを襲って来るわけじゃないから、これくらいはね」


 魔術師は魔物を倒すことはできる。けれど剣士には手も足も出せない。そして、剣士は魔物には勝てない、決して。それが、絶対のはずだったのに。


「うおおおっ」


 ニルティが低い声をあげて、獣が威嚇するように吠えるのが聞こえる。

 彼女は血みどろになって、魔物と対等以上にやり合っている。彼女はまだ人間なのだろうか。もはや獣化の剣という、人間と魔物の間の何かなのだろうか。


 ザバが一歩前に出た。

 イシャーナは少し横へ逸れて、くるりくるりと杖を回し始めた。ザバと龍の間に道を作る。細くてもいいから、渦巻く風と同じ体積分、金翅雀を押し退ける。

 杖の両端から延々と風の記号を生み、左手の指先や掌で方向を決める。時折足で地面を踏んで、風が丸く質量を持つように、形を整える。

 攻撃性を持たない、固い風。


「いくで!」


 風が柔らかくなって、ザバと龍の間に白い道を作った。ザバは真っ直ぐ、木の容器を投げた。

 イシャーナは杖を振り上げて、その容器を割った。

 パシャン。聞こえるはずも無いかすかな音をたてて、酒が龍の体に絡まった下戸縄に染み込んだ。

 酒が降り注いだことを感じるのか、龍の体が小さく揺れる。大暴れの前兆だ。


「逃げるで」


 イシャーナは頷いて、二人は駆け出した。そろそろ龍の体の下戸縄は全て外れる。そうすれば、龍は一体どういう行動に出るのか、イシャーナには想像が付かない。今よりずっと自由に動けるのは確かだと思うが。


 彼は足早に龍から離れながら、隣のザバをつついた。


「ピナカにも知らせに行こう」


「あん? あいつがどの木登ったかなんか、俺もう忘れたで」


 イシャーナだって、良く覚えては居ないが。


 幸い龍の頭側に行くと、矢がたくさん散らばっていて、すぐにピナカが登っている木は分かった。

 ピナカの居る木の下には金翅雀が三匹転がっていた。それらは、矢を何十発も射られて死んでいた。


「おお。こっちも大変やったみたいやな」


 壮絶な、金翅雀を神と呼んでいたピナカにはありえない光景を目にして、イシャーナは不安になる。

 龍に攻撃したために、金翅雀に敵視されたのかもしれない。そうしなければ死ぬかもしれない状況だったのかもしれないし、恐怖で混乱して矢を乱発射したのかもしれない。


 弓矢の遠距離攻撃で、返り血も浴びていないから大丈夫だとは思うが、ニルティのように狂気に陥っていたらどうしようと思う。あるいは神を殺した罪悪感に押しつぶされていたら。

 イシャーナは風でそっと金翅雀の死体を押し退けながら、その木に近寄った。


「ピナカ、大丈夫かい。ピナカ」


 大声で呼ぶと、頭上遥か高くが揺れ動いた。縄か蔦かに掴まって、大柄な男が器用に下りて来る。

 彼は蒼褪めた顔をしていたが、落ち着いていた。


「貴様ら、生きてたのか」


「おう、死ぬかと思ったけどな」


 ザバはへらりと笑っていった。ピナカの青い顔を見れば、少しも冷静さを崩さないこのザバという男が、普通でないことが良く分かる。流石にニルティの友人だった。


「ニルティ様はどうなさった」


「魔物に混じって暴れてるで」


 ピナカは目を見開いてから、納得したように頷いた。


「やはりあの方は、神とご同輩でいらっしゃったのか」


「そやな。あの獣化の剣のことも、まあまあ信用出来そうな話や」


 自分の合形を、勝手に魔物の仲間に認定して欲しくない、とイシャーナは思ったが、彼も心の中では時々思ってしまうことだったので、何も言わなかった。


 ズシーン。


 破壊的な音が鳴って、イシャーナは一瞬体をすくめた。


 龍がアバックの巨木に頭突きをしている音だ。

 びりびりと振動が彼の体や木々を揺らす。

 龍の頭に近付いた分、これまでとは比べ物にならない音だった。


「龍は、あの生き物は、我らのしたことであれほど怒っているのか」


 ふと見るとピナカは、青い顔でぶるぶると震えていた。あんな音を何度も聞かされていれば、金翅雀よりも龍の方がよほど恐ろしくなるだろう。ただでさえ金翅雀は、龍に手も足も出せていない。


「そろそろ下戸縄全部取れてると思うねんけど、何で龍はまだあんなにのた打ち回ってんねん」


 イシャーナは、アバックの巨木に頭を打ち付けている、龍の顔を見つめた。龍が全身を揺するせいで、龍に縋り付いている金翅雀の数はかなり減っている。


 龍の肌は青黒く、うっすら透明がかっている。

 顔には耳と短い角と、口からは牙が生えていて鼻もあり、蛇よりはでこぼこした顔をしている。その目は落ち窪んだ肌に隠れてよく見えない。

 皮膚がうっすらと浮き上がり、龍は体全体の輪郭がはっきりとしない。くすんで、どこか歪んでいる。

 イシャーナは龍の顔を指差した。


「見てごらん。龍の顔は、ほんの少し浮いてる。皮膚が二重になってるんだよ」


 イシャーナの指につられて、三人は同じ方向を見た。


「は? 二重って。いや、そうか。なってるか?」


「二人は、蛇の脱皮を見たことはあるかい? 龍はこれから、全身脱皮をするんだ。百年に一度龍は、脱皮するんだよ」


 龍は身をよじっている。短い手足に長いからだの龍は、人間のように器用に服を脱いだり出来ない。脱皮は龍にとって何ヶ月も掛かる、大事業なのだ。


 湖から上がって陸でのたうっている龍を、嗅ぎつけて金翅雀たちはやってくる。

 これ程巨大な龍を、食べたいからはるばるやって来るのか。それともニルティがうっとりと呟いていたように、ただ運命だからやって来るのか。


 運命というそれは、本能ではなかろうかとイシャーナは思う。

 龍が激しく、脱皮するために体を揺するから、龍に付いて行ける金翅雀の数はどんどん減少している。


 残るのは、数頭の大きな個体。

 強くて、体が大きくて、真っ赤な鮮やかな羽をしている。

 素早く動けて、利口で、生き残り戦うことに長けた個体。

 金翅雀の次世代の、群れの首領たちだ。


「金翅雀たちは龍の脱皮にかこつけて、百年に一度こうして、群れのリーダーを選出しているんだ。金翅雀たちにとってこの争いは、ボス選びの儀式なんだよ」


 イシャーナが呟いて龍を眺めた時、遠くで赤い髪がひらりと舞うのが見えた。

 魔物の数が減って、人間と魔物の区別が付くようになっている。ニルティはやはり小さくて、髪や剣が時折ギラリと光って見えた。


「ピナカ、ザバをその縄で、木の上に引っ張り上げることができるかい」


「できるが、どうした」


「ニルティを、迎えに行ってくるよ」


 イシャーナは杖に視線を落として、言った。


「龍の下戸縄は全て外した。やるべきことは全てやったんだ。じゃあ後は、僕の合形を守らなきゃならない」


「おいおい、迎えに行ったって、あいつ言うことなんか聞かへんで」


 ザバはからかうように言った。


「それでも、放っておく訳にはいかないよ」


「そうか? 行ったっておまえ、何ができんねん、魔術士さん」


「なんだってできるよ! 僕は魔術師だ」


 ザバは首を傾げた。イシャーナとニルティ会話を半端に聞いていて、情報が揃っていないのだろう。


「ん? そうやな。あいつ、魔術師は何かできひんって言うてなかったっけ」


 魔術師は人を傷付けることができない。たとえ傷付けるつもりでなくとも、魔術で人に怪我をさせれば、イシャーナは魔術を失うことになる。だから剣のように、魔物と近距離でやりあう存在の援護をするのは難しい。

 けれど、


「なんだってするよ。絶対にニルティを、死なせたりしない」


 たとえ魔術を失っても、イシャーナはもう合形を失いたくない。

 彼女を失えない。

 彼女を死なせたりなどしない。

 魔物の血で狂わせたりしない。

 必ず連れて帰る。


 たった一人の合形。

 イシャーナのことなど少しも、怖くないと言ってくれた。隣で一緒に戦ってくれた、彼を守ると言ってくれた、合形。

 初めからいつだって、予想を裏切ってばかりの、イシャーナの剣士。


 ザバはとん、とイシャーナの肩をつついた。


「分かった」


 一つだけ、酒も入れずに残しておいた飲み水の皮袋をイシャーナに差し出した。


「俺らのことは心配せんでいい。やばなったら勝手に逃げとくで」


 イシャーナは、皮袋の水を三口含んで、返した。


「ありがとう」


 言って、きびすを返してニルティが戦う龍の元へ向かう。



 右手の杖を撫でて、欠けていないか確かめる。魔術が良く生まれるような魔術的な工夫は無いが、固くて軽くて良い杖だった。何より、何度も地面を転がったような混戦で、折れずにすんだ丈夫さが良い。

 ザバを背後に庇って、魔術で何度も金翅雀を退けたから、魔術で援護するコツも、なんとなくつかめた気がする。


 遠くからどうやってニルティに近付こうかとしていると、彼女は軽々と龍の胴の上に飛び乗って、その上を駆けて来た。


「うおぉりゃあぁぁ」


 叫びながら剣を突き出し、龍に覆いかぶさって邪魔な金翅雀を一頭、刺そうとする。


 その一頭は、金翅雀とは思えない器用さで、くちばしで彼女の剣を捕らえた。ニルティは剣を手放さず、体をねじって魔物の顔面に蹴りを入れた。


 もみくちゃになって戦っているニルティを援護しようと、イシャーナは振り上げた杖を下ろせなかった。


 ……撃てない。


 どう魔術を撃てば、彼女の助けになるのか、欠片も分からないのだ。

 どう撃ったって、魔物もろとも彼女も攻撃してしまう。


 人を傷付けて、魔術を失うのが嫌だとかそういう問題では無い。混戦過ぎて、やりようがないのだ。


 ……本当に?


「僕には、無理だ」


 ニルティは金翅雀から剣を奪い返し、横に一閃して薙いだ。のけぞってそれを避けた妖鳥を一瞥して、先へ向かおうとする。

 そこに横から別の妖鳥が爪を突き出した。


 イシャーナは杖を一振りし、弱い風を生み出したが、その風は方向性を持たず、辺りに空しく消えた。

 イシャーナは、自分自身に絶望した。

 撃てないのだ。


 彼女に当たるかもしれない。魔術を失うかもしれない。

 自分自身の命に代えても、イシャーナはニルティを死なせたく無い。死が恐ろしくないわけじゃ無い。死ぬのは怖い、とてもとても怖い。



 イシャーナは物心が付いた時から魔術師だった。最初からずっと、魔術が使える。


 師と二人で幸せだった頃も、一人きりの日々も、傷付けられた朝も、恐ろしかった夜も、彼は魔術師だった。

 彼には魔術だけがあった。

 魔術を失うのは、死よりも怖い。


 現実はいつだって圧倒的で、イシャーナから様々なものを奪っていく。

 大切な人も、自分は人並みに優しいという自負も、強いという自信も、魔術師としての誇りも。


 魔術だって、失うのだ。



 ズシーーンッ。


 龍が、木に頭突きをした。下戸縄を外され、自由度を増した龍の体は、頭突きの反動で大きく反り返り、そのまた反動で背中を大きく盛り上げた。

 小さな人間の少女は、はね飛ばされた。高く飛んで。


 イシャーナは一瞬、彼女が自力で跳んだのかと思った。

 でも違った。

 そこから落ちたら、死ぬ高さだ。


 イシャーナは杖を揺らして、風を放った。

 ニルティに向けて、風を放った。

 生まれて初めて彼は、人に魔術を向けた。


 バシュン。


 悪夢のような音がして、宙のニルティが人形のように揺れた。

 はっと正気づいたイシャーナは、彼女の下に走りながら、全力で杖を回した。泡のように記号を生み出して、地上に固い空気の台を作った。


 ボスン。


 ニルティは風の台の上に落ちた。


「ニルティ!」


 叫びながらイシャーナは、ぞっとしていた。


 生まれて初めて、人に向けて魔術を撃った。

 でもそんなことよりも、それ以上にずっと恐ろしいことに、彼女は既に立ち上がろうとしていた。

 彼は立ち上がろうとしていた彼女に、後ろから抱きついた。


「やめろ! やめてくれ、ニルティ。もうやめろ。死んじゃう、死んじゃうだろっ」


 イシャーナは叫びながら、自分こそが死んでしまうかもしれないと思った。


 合形なんていらないと思った。

 こんなに恐ろしい思いをさせるのが合形なら、イシャーナは合形なんてもう一人も欲しくないのに。

 何の因果か、彼の合形はただ一人、この恐ろしい合形なのだ。


 イシャーナよりもよほど力の強い合形は、容易く彼の体を振りほどこうとして、急に動きを止めた。彼女は振り返って、まじまじと彼を見た。

 正気に戻った目をしていた。


「イシャーナ?」


「ニルティ、もうやめろ。行くんじゃない」


 ニルティは驚いた顔で数回瞬きをすると、イシャーナの頬にそっと手を伸ばした。彼の頬を指先で、すっと撫でた。


「泣かんといて、イシャーナ」


 気付けばイシャーナは泣いていた。泣いて合形に、行くなと縋っていたのだった。

 地と泥に塗れた掌をイシャーナの頬に乗せ、親指で目元を撫でる。


「泣かんといて、イシャーナ。あたしきっと戻る。きっと、戻りますから」


 イシャーナは歯を喰いしばった。瞳が熱かった。

 ポロリと、大粒の涙が零れるのが分かる。


 もうずっと、イシャーナは一人ぼっちだった。

 一人きりで、ずっと寂しくて仕方が無かったけれど、二人でいるのがこんなに大変で、恐ろしくて、相手に振り回されることだというのならば、彼は永遠に一人ぼっちでいいと思った。


 でもなんの因果か、彼は今、こんなに面倒な相手と、二人なのだった。


「このバカ。……最低な合形だよ、君は」


 彼女に、強く抱きついた。

 イシャーナは優秀な魔術師だから、本当はこの瞬間に杖一本で彼女に簡易の治癒魔術を与えることが出来る。

 でも、そんなものをかけるつもりは無い。

 大怪我をすれば良い。さっさと動けないような酷い怪我をして、諦めて戻ってくれば良い。

 早く、戻って来るんだ。


「もういい。行きなよ。行きなよ!」


 好きに行けばいい。

 たった一人のイシャーナの合形。

 腕を解いてやると、彼女はゆっくり立ち上がった。


 全身が金翅雀の返り血で真っ赤に染まっていて、抱きついたイシャーナにもその血が移ってしまっていた。赤茶の平凡な色の瞳がギラギラと輝いて、血に塗れた鉄剣と同じ色をしていた。


 彼女は感謝するようにイシャーナを見つめてから、何も言わずに向こうを向いて、去って行った。

 剣士というのが、そういう生き方ならば、好きに生きればいい。

 でも必ずイシャーナは、彼女を、合形を守るのだ。





 ニルティは歩きながら、左手でそっと腹を撫でた。

 これまで何度も思ったことだが、今度こそ死ぬかと思った。あの高さから落ちて、こうして平気で歩けていることが奇跡だ。


 しかし、全くの無傷ですむはずも無い。

 興奮しすぎて自分で自分の体の痛みもろくに感じ取れていないが。

 彼女はそっと腹を撫でた。

 少しヤバイ。


 戦いに支障が出るほどではないが、今のは、イシャーナに傷付けられたことにはならないのだろうか。大した怪我ではないから、魔力の減少に気付けていないだけ?


 しかしほんの小さな傷でも、失敗した魔術師は、その瞬間に気付いていた。ニルティは何度か学舎でその瞬間を見ていたから、知っている。ニルティだって、水ぶくれにもならない火傷をさせて、魔力をごっそり失った。


 別に、怪我をしていないのだろうか。彼女は首を傾げながら、肋骨辺りの骨をなぞった。

 そうかもしれない。高い所から落ちたから痛い気分になっただけで、きっと怪我などしていないのだ。


 ドクンッ。

 とろとろ歩いていると、獣化の剣がせかすように震えた。

 ニルティは息を吐いて、近くの転がっている金翅雀に跳び乗った。それを踏み台に、立っている金翅雀の頭を踏みつけ、更に高く跳ぶ。魔物たちを出し抜いて、龍の上に飛び出した。

 物の癖に、人間に指示を出そうなんて、流石は伝説の剣である。


 仕方が無い。ニルティと剣は戦いの瞬間は、同じ運命を生きている。理由など無く、ただ戦いに生きる。

 戦うことに理由が欲しいだなんて、彼女にしてはとんだ贅沢な悩みだった。理由が無くても結局戦うのだから、そんな贅沢な願いを持つ資格、彼女には無かった。


 ただ、今彼女には、戦いを終える理由があった。

 戻ったときに待ってくれる人が居る。

 生きて帰る理由がある。

 それはそれで、なんという幸運だろうか。


「うおりゃああっ」


 叫びながら、龍の青い首筋に剣をつきたてる。刃先がぬるりと沈んだが、龍を傷付けられた気はしない。少し沈んで、がちりと固い皮に遮られて、それ以上刃は通らない。

 がむしゃらに剣を叩きつけると、痒いとでもいうように、不快そうに龍は背を揺らした。これではダメだ。さっきから、いくら斬りつけても彼女は、龍を殺せる気がしない。


 これは、急所を狙うしか無い。それも、首筋くらいでは歯が立たない。ニルティは前を塞ぐ金翅雀を飛び越えて、龍の頭へ向かう。


 龍は頭をもたげた。

 その首を、振り下ろすのだとニルティは悟って、龍の首を蹴ってそこから飛び降りた。


 ズッシーーン。ミキ、ミシシシ。


 龍が頭突きをする。力一杯に龍は木に頭をぶつけて、ぐったりと首を地面に下ろした。周りの金翅雀のことなど気にも留めずに、それこそが龍にとって何よりも重要なのだというように。

 巻き込まれて、頭の近くで戦いを挑んでいた、立派な妖鳥が一頭木に叩きつけられた。


 少しも相手をされていない。

 でもニルティには幸運なことに、その分の場所が開いた。

 駆け込んで、手近な鳥を踏み、龍の目元に剣を突き刺した。


 ガチンッ。まぶたの上の皮で刃が弾かれた。まぶたすら、固い。龍はまた首をもたげようとした。首を高く持ち上げられては、ニルティが跳躍したくらいでは届かなくなってしまう。

 ニルティは丁度、持ちやすそうにそこにあった、龍の角を左手で掴んだ。ひやりと冷たく、割と持ちやすい。その瞬間、龍は頭を高くもたげた。


 彼女は慌てて左手で体を支え、龍の額にへばり付いた。左手で角を掴み、剣を龍の皮に食い込ませて落ちないように堪える。

 龍はむずかるように首を揺すった。


「畜生、殺してやる」


 ニルティは不安定な姿勢のまま、剣を伸ばしてくぼんだ龍の目を突こうとした。

 はれぼったいまぶたに引っかかった剣を、引き抜くと、一瞬で龍のまぶたがべろりと切り取れた。

 くぼんだまぶたの下から、つやつやと黒い、深い美しい瞳が現れた。


 ドクン。

 つやつやと黒い宝石のような瞳。龍がキョトリとそれを動かし、水の泡のように白いまぶたでしぱしぱと瞬きをした。

 殺気がそがれるような、幼くて無邪気な瞳をしている。


 ニルティは龍の額の上で這いつくばりながら、まぶたをそぎ取った左目と、はれぼったい右目を見比べた。しかし左目にも、薄いまぶたが存在する。


「まぶたじゃない? !うあっ」


 龍が眩しそうにふるりと首を揺すった。


 ニルティは足を滑らせて、落下しそうになる。左手でなんとか角に掴まり、右手の剣をどこでもいいから、その皮に差し込んだ。

 龍が首を揺らすたびに、彼女はふあふあと不安定に揺れる。


 ドクン、ドクン。

 冗談じゃない。こんなに良い位置を独り占めしているのに、一矢報いずにいられるわけが無い。

 殺してやる。殺してやる。

 少しでも、傷付けてやる。龍よ!


 どこに刺さったのかも良く見えない剣を、ニルティは力一杯引いた。


「うああぁぁあっ」


 ぬるぬると、剣は何かを切り裂き、無理な体勢のせいで彼女はとうとう、龍の体から滑り落ちた。


 この程度の高さ、足から落ちれば。


 ニルティはなんとか全身で衝撃を受け止めようと、体を緊張させた。しかし体は痛みを感じる前に、足から生温い何かに包まれる。

 柔らかいイシャーナの風が、ニルティを受け止めたのだった。

 彼女は座り込むように、痛みも無く、地面に倒れこんだ。


 ズッシーーン。ブキ、バサササ。ズッズ、ズズーン。


 龍がまた、アバックの大木に渾身の頭突きを与えて、大木はその重さに堪え切れずに倒れて、大地に轟音を響かせた。

 ニルティは素早く飛び起きて、駆け出そうとした時、腕を掴んで止められた。


「もういいよ、ニルティ。終ったよ」


「終ったって、何がや?」


 鋭く叫んで振り返ると、イシャーナは呆れたように微笑んでいた。


「君が勝ったんだ。どの金翅雀よりも君が強かった」


「鳥に勝っても何にもならへん。あたしは、龍に」


 イシャーナの指差す方へ、彼女はつられて顔を向けた。


 そこにはもう、龍は居なかった。正確には、ニルティの殺したくて仕方が無かった龍は居なくなっていた。

 彼女が切り裂いた傷は、龍の口元にあった。口元からたるんだ皮をぱっくりと切り裂いたので、頭突きの木との摩擦と共に、そこから龍の頭の皮はペロリとめくれ、外れていた。


 そこにはもう、龍は居なかった。


 正確には、そこにいる龍は、もうそれまでの龍と違った。

 ニルティの感情をかき乱し、ひきつけ捕えて離さなかった龍はそこにはいなかった。

 そこに居たのは、青黒い肌で、芳しいにおいでニルティを誘惑した、恐ろしくも愛しい魔物ではなく。清らかで幼く、つやつやした黒い目と輝く白い肌の、少しもニルティの食指の動かない輝かしい龍神だった。


「頭の皮が脱げたら、後はもう自力で出来るんだろうね。体を霧で隠し始めてる。龍の脱皮は、無事に済むだろう。君たち金翅雀の役割は終ったんだ」


 ニルティは獣化の剣を取り落とした。


「だっぴ」


「龍は脱皮をしていたんだ。百年に一度龍は、古い皮を脱ぎ捨てるんだね。今回は下戸縄とかの、思っても見ない邪魔が入ったんだろうけど、無事にいけそうで、良かった」


 そこに居るのは、ニルティが求めた龍ではなかった。何か、その、残骸がそこにあるだけ。

 龍の脱皮、それに、芳しいにおいに誘われた妖鳥たちは利用されていただけだったのだ。


 白い龍の頭は、ホゥーッと濃い息を吐いた。

 さわやかな香りがするだけの吐息。周囲の霧が、急速に濃くなってきていた。


「ニルティ、そろそろピナカやザバを迎えに戻ろう」


「……はい」


 ニルティはとろとろと、剣を拾い上げた。

 ドクン。


「龍め……」


 彼女は呟いた。


「え?」


「龍め、龍の奴め」


 イシャーナはニルティの手を掴んで歩いた。彼女はろくに前も見ず、むしろ何度も未練がましく龍を振り返りながら、引かれて歩いた。

 彼女や金翅雀の、命や本能や運命を弄び、軽々と利用した龍。


「許せない。許せない。龍よ、いつか、いつか絶対殺してやる」


 彼女は絞り出すように声を出した。しかし皮肉にも、熱病のような執着をなくした今の彼女には、龍と彼女の実力差がはっきりと分かっていた。


 ポツリと、雨が降り出して。

 それは瞬く間に豪雨となった。

 土砂降りの雨は、龍の体を隠し、金翅雀の姿すら見えなくし、やがて何も分からなくなった。


「すごい雨だね」


 ちらちらと振り返るニルティに、イシャーナは話しかけた。


「この雨は、川を作るよ」


 ニルティは横に立っていても顔も分からなくなりそうな、イシャーナを見た。相変わらず、こんな時に良く喋る男だと思った。


「その川の流れに乗って、龍は湖に帰っていくんだろうね。そして金翅雀も、川を泳いで海に帰っていくんだ」


「へえー」


 ニルティは興味の薄い相づちを打った。


「ニルティ、君は、人間なんだから、僕と一緒に寮へ帰るんだよ」


「……はあ」


 彼はぎゅっと、彼女の掌を握った。

 ニルティは頷いてから、小さく微笑んだ。多分その笑みは、雨のせいでイシャーナには見えていない。


 美しくて寂しがり屋のイシャーナ。ニルティの、合形。

 彼女は笑って、彼の掌を握り返した。


「はい」

 


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