5章 龍(前)
クエー。クエー。
ギャーー。ギャッ、グェーー。
キュオ、キュオ、キュオー。
何羽居るんだ。イシャーナは周囲を見渡した。まだ金翅雀は一頭も見えないのに、遠くで何重にも重なった、鳴き声の合唱が聞こえる。
金翅雀は体が大きな分鳴き声も大きな魔物だが、それが何頭分も一斉に鳴き喚いて、アバックの山を揺さぶる大騒ぎになっている。
四人は道など知らないはずのニルティを道案内に、アバックの山を登っている。ピナカとザバも結局付いてくることになった。
ピナカはニルティの手伝いをしたいと共に、もし彼らの村のやったことが金翅雀の御心に沿わないのであれば、それを正す手伝いがしたいと言った。
ザバは面白がって付いて来るようだ。気持ち悪い目でニルティを見ていたかと思うと、あっという間に冒険者協会の部下達に話を通していた。
あの支部の責任者なのに、そんなに簡単に危険な物見遊山を決めていいのか。冒険者と言うのは本当に、イシャーナには理解できない人種だった。
「イシャーナ、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ、僕は重くないし」
ちゃぷん、と背負った皮袋の中で水音が鳴る。着替えや寝具を冒険者協会に残してできるだけ荷物を減らし、代わりに大量の酒を背負った。
アバックの狩人たちが作った秘伝の縄、下戸縄を外すには、酒を振り掛けるといいという。酒に反応する植物で編まれた縄らしく、酒をかけると棘が柔らかくしぼんで、絡まっている縄が簡単に解けるようになるのだという。
イシャーナは杖と、皮袋の酒を背負っているだけだが、ザバとピナカは酒樽を背負って酒を運んでいる。ピナカはその上、弓と大量の矢も武器として持ってきている。弓矢は使い捨てで使えば、人間が魔物に対抗できる数少ない武器だ。
それらはザバが、気付けば全て準備してくれていた。
そこまで用意させて、酒樽まで背負わせて、良いんだろうかと思う。ちらりとザバを見ると、彼はばっと振り返った。いつ取り出したのか、彼は何かをかじりながら歩いていた。
「なになに、魔術師さんも食べたいん? 遠慮せんでいいで。はい、あーん」
にこにこしながら、かじっていた干し肉を口に押し付けようとしてくるので、イシャーナはそれより先に手で受け取って、ほんの一口だけかじった。
「そろそろにおいが酷なってきたなあ。これがニルティが、臭いくさい言うてたやつか」
ザバは鼻をこすった。龍のにおいは、最高級の香料龍涎石と同じ香りであるだけに、遠くで嗅いでいるとどことなく懐かしい上品な香りだ。
甘い香りの中を歩いていると、鼻が慣れておかしくなりそうだった。
しかし龍に近付くにつれて、そんな甘いことを言っていられなくなった。
強烈に不快なにおいだった。
龍がもう、近い。龍が出したらしき霧が、森の中をもやもやと、薄ぼんやりさせつつある。
「ニルティ、大丈夫かい。君その、今、冷静かい」
「大丈夫、まだいけます。そやけどそろそろ、ヤバイかな」
ニルティは冷静そのものの、凪いだ瞳で答えた。
「よっしゃ、じゃあ、このへんに荷物置いてくか。どっか目立つとこ無いかな」
「吊り提灯に火を灯して、木に吊っておけば良い。目印になる」
ピナカがのそのそと近づいて来て言った。
「消えないように、三つだ。この山の木は濡れているから、山火事の心配は無い」
「あ、なるほど」
アバックの山の知恵なのだろう。ザバがひらりと手で合図すると、ニルティは荷物を置いて提灯を取り出した。ピナカは背の酒樽を、どさりと置く。
イシャーナはピナカの弓を見て、激怒されそうでなかなか尋ねられなかったことを聞いてみた。
「ピナカ、君、その弓で」
金翅雀を撃つのかと尋ねようとして、何を聞かれているか分かったのだろう、忌々しそうに彼はイシャーナを睨んだ。
「矢に酒を染み込ませて飛ばすんだ」
言って、取り出して見せた矢の先には、矢尻ではなく、丸い大きな植物の実が取り付けられている。実にはたくさん細かな穴が空いていて、そこから液体を吸い込むのだろう。
「俺は木の上から、縄を狙って射る。神々は木には登られない」
「っへー。おまえ、こんなでかい、つるっつるに枝の無い木に登れるんか」
「アバックの山の民なら、子供でも登れる」
「さよか。落ちたら勝手に死ねよ。じゃあこいつは、庇わんでいいやん。残りの三人はどうする」
ピナカは思ったよりも頼りになりそうで、イシャーナはほっとした。
「じゃあ、ザバ。僕は君を金翅雀や龍から守るから、危険だけど近くで酒をかけて回ってくれないか。
ニルティは、ピナカが木に登ったり別の木に移る時に守って欲しい。魔物の血は、浴びないようにだよ」
「えー……」
ザバはポツリと、つまらなそうな声を上げた。
「不満かい?」
ザバにはほとんど何の縁も責任も無いのに、一番重要な役を振ってしまっている。しかし役を割り当てていくと、彼しかいなかったのだ。ピナカとザバは魔物を攻撃できないから、守る人間が必要だ。
「やっぱり危険だと思うなら、帰ってくれても構わないんだけど」
正直、酒樽をここまで背負ってきてくれただけでも、イシャーナには非常にありがたかった。
「いやいや、魔術師さん、ちょっと待って。
ニルティのこと、あいつのこと。
ニルティがそんな、良い子で言うこと聞いてる訳無いやん」
ニルティは荷物の中から、彼女の剣を引っ張り出していた。予備に一本、普通の剣も持ってきている。イシャーナは大人しく普通の剣を使っておいたほうが良いと思っているのだが。
「じゃああたしは、正面から金翅雀に打って出て、二人が進む道を作ります」
「ちょっと待ってよ。何がじゃあなんだい」
彼女はするりと、剣に巻いた布を解いた。
「じゃああたしは暴れ回って、金翅雀を引き付ける囮になります」
「ちょっと、話を聞いてるのかい」
「どうせあたしは、黙って立ってピナカを守ってるようなことは出来ません。そんなできもしいひんことに期待せんと、冷静に現実を見て下さい」
「僕が悪いって言うのかい」
「あたしら昨日、あの男に殺されかけたんですよ? あいつが金翅雀に襲われてても、見殺しにしそうなどころか、逆に背後から斬りかかってしまいそうですわ」
彼女は感情の読めない茶色い瞳を、べたりと銅貨のように光らせた。
彼女をこんなところまで連れて来てしまったと、イシャーナはふと思った。
イシャーナが連れて来なくとも、彼女は一人でここまで来てしまいそうだけれど、それでも連れて来てしまったと思う。
イシャーナたちが今おこなっていることは、誰にも依頼されてはいないが、非常に大事な任務だ。失敗すればこの国一の穀倉地帯が干上がって、餓死者が国中で大勢出るかもしれない。気候が大きく変わり、国の将来に渡って大きな影響が出るかもしれない。
でも、彼は今思う。今更考えても意味なんて無いたとえ話だけれど。
ニルティがもし本気で、イシャーナが行くなら自分も行く、イシャーナが行かないのなら行かないと、本気で言ったのならば、彼はここに来なくてもよかったかもしれない。
いいや、今からだって引き返したって良い。
だけど、イシャーナだけ帰ると言い張ったって、彼女は決して止まらないと、彼は分かってしまっている。
彼は今、たった一人と大勢の人々をはかりにかけている。仮定の話だから意味なんて無いけれど。
彼女が猛り狂って龍を殺そうとしたら、そうしなければ彼女が死んでしまうのだとしたら、イシャーナは彼女と共に龍を魔術で切り刻んでしまうかもしれない。
イシャーナは、この任務のためならば、命を賭けても良い。でも彼女には、失敗してもいいから、傷付かないで欲しいと思う。そんな彼の気持ちなど、彼女の目的と狂気の前には無力だけれど。
「ほらなあ。こいつ普段は意外なくらい命令に従うねんけど、気分がノリ出すと途端に、言うこと聞かんようになるねん」
ザバはニヤニヤ笑いながら、ニルティの肩をつついた。それから酒樽の蓋を開けた。ぷーんと酒のにおいが辺りに漂うが、龍の悪臭に混じってよく分からない。
「一番安い酒やから、飲めるような代物と違うで」
笑って言って彼は、ひしゃくですくって、飲み口の付いた皮袋に酒を移し始めた。イシャーナは慌ててそれを手伝う。
「ピナカのことは放っといたらええやろ。自分の面倒は自分で見させたらいいやん」
「ああ、俺のことは気にしなくていい。ニルティ様は、あなた様の望まれる通りになさって下さい」
ピナカも酒樽を開いて、そこに矢を突っ込む。酒を染み込ませているのだ。ニルティは獣化の剣をザバに押し付けて、酒樽の前からザバを押し退けた。
「これ、ちょっと見てていいで。それあたしやるわ」
言って、酒を移す作業をザバから奪う。
「なんやねん。……ん? う、うおお。これ、ちょっと動くやん」
「え? 動くのかい?」
「ああ、ちょっとだけですよ」
たっぷり酒を入れた皮袋の口を、きゅっと強くニルティは縛った。
「それって本当に呪われてない?」
「呪われたって言うか、ちょっと生きてるみたいなんです。金翅雀が乗り移ったみたいな」
それは、気持ち悪い。
「これで魔物を斬ったんか。刃こぼれしてへんなあ」
「獣化の剣、めっちゃ切れ味良いのは確かやで」
「へえー」
イシャーナが顔を上げると、ザバはちょっと怖いくらい舐めるような瞳で剣を眺めている。
ニルティは皮袋に酒を注ぎ入れながら言った。
「あたしは、動かずにはいられません。戦いが始まったら、作戦なんかほっぽって暴れてると思う。だから適当に盾にしながら暴れさせといて下さい。
獣化の剣は金翅雀や龍に夢中で、人間には襲い掛からんと思います。
ザバは魔物斬るなよ。あんまり無茶せんと、もしもの時は頼みたい」
「ん、もしもって何や」
「金翅雀の大騒ぎは、しばらくしたら静まるやろう。それが終ってもあたしが暴れてたり、それかあたしが途中で死んだら、イシャーナを背負って山を降りて欲しい」
「ん、いいで。剣もらってもいいか?」
「いいけど、もしあたしが龍を殺したんやったら、剣には触らんほうがいいと思う」
「龍殺しの剣を残していくんか」
「龍殺しの剣を、扱いきれる自信があるんか?
どうしても欲しかったら、イシャーナを下に送って行ってから、取りに帰ったらいいやん。ザバをいざと言う時殺せる冒険者も、一緒に連れてきたほうが良いと思うよ」
あまりにあっさりと彼女はもしもの死を語った。イシャーナだって死を覚悟しているけれど、彼女達は少しも恐れる風が無い。
ニルティは死ぬかもしれない。イシャーナには、自分が死ぬ覚悟はあるが、合形を死なせるつもりは無かった。彼は合形に去られたことは何度もあるが、合形に死なれたことは無い。
ニルティは死ぬかもしれない。イシャーナにはそんな覚悟は無かった。実感がまだ無い。死なせない。死なせたくない。死なせたくなんかない。
彼はもう、合形を傷付けない。彼女だから傷付けたく無い。
イシャーナのたった一人の合形、十人目の合形。彼を助けてくれた合形。守ってくれて、救ってくれて、癒してくれて、守るのだと言ってくれた。
「ニルティ。無茶しないでよ、頼むから!」
そんなこと言ったって、全然聞いてくれないことは、もう薄々気付いている。樽を挟んで正面から彼女を覗き込むと、彼女は少し目を泳がせた。
「極力、努力します」
極力ね。イシャーナは皮袋の口を、きゅっと締めた。
「よし、こんでいいかな。充分やとは思うけど、酒が足りんようになったら、ここに取りに戻ろう」
ザバはニルティに剣を返した。
イシャーナは、小さめの皮袋を二つと、水を肩から掛けて、杖を持った。ニルティは自分の分の水をごくごく飲むと、その皮袋をばさりと地面に落とした。ザバから剣を受け取る。大胆にも、剣一本で行くらしい。
イシャーナは彼女に、何かもう一度声を掛けようと口を開いたが、やめた。もうニルティの、目が違う。
彼は自分の杖を、すっと撫でた。彼女が死ぬ覚悟なんてしない。
必ず全員、生かして帰る。
「じゃあ、行くよ」