4章 (中)
イシャーナは、表の方が騒がしいので目覚めた。
ごく普通に起き上がろうとして、すぐ隣の寝台でニルティがまだ眠っているのを思い出し、そっと息を殺して体を起こした。
初めは眠るなんてありえないと思っていたが、山の中を走り回ったり、大怪我をしたりしたことで、寝台に入ればあっと言う間に眠りに落ちた。体は休息を必要としていたのだろう。寺院には、イシャーナが手紙を書いて冒険者に届けてもらった。
協会にはいくつも仮眠部屋があるのだから、男女が同じ部屋で眠る必要など無いと言うのに、ニルティは有無を言わさず彼をすぐ隣の寝台に入れさせた。必死に拒否しなければ、同じ寝台で眠ることになっただろう。
イシャーナは巻き布を身につけた。ニルティを起こさないようにそっと部屋を出た。
部屋を出ると、表の騒ぎがなんとなく理解できる。冒険者協会の受付に、無茶を言う客が来ているようだ。仇だとか殺すだとか、物騒な単語が聞こえている。イシャーナはその騒ぎに巻きこまれないように、こそこそと廊下を歩く。
ザバと言う男を、協会の執務室らしき部屋で見つけて、イシャーナはそこに入った。
「あ、起きたんか。おはようさん」
ここの支部長らしいのだが、それがどういう立場なのかはよく分からない。彼は紙を広げて机に向かっている。騎士や冒険者と魔術師は非常に仲が悪いので、イシャーナは冒険者について詳しくない。
ザバは手近な椅子を指し示したので、イシャーナは警戒しつつそこに座った。
「杖を貸して欲しい」
イシャーナが切り出すと、ザバは机から手を離して体を起こした。
「ニルティには黙って、ここを出て行くつもりだ。彼女をこの件に巻き込みたくない。非常に危険な魔物が相手なんだ」
彼女を連れて行くことはできない。確かにイシャーナが一人でアバックに戻ることは非常に危険だろうが、ニルティだって危なっかしい。イシャーナよりよほど無茶をする。
彼女は山の中で金翅雀に出会ったら、どうするつもりだろうか。龍に出会ったら。
ニルティはきっと、魔物に剣を向ける。龍と戦おうとするだろう。彼女の方がイシャーナよりもずっと、危険だ。
彼女自身が気付いているのか居ないのか分からないが、彼女は今普通では無い。獣化の剣の影響を受けている。
血に狂い、魔物と無謀な争いに突き進もうとしている。今はまだ理性を装えているが、これ以上魔物の血を浴びればどうなることか分からない。
そしてイシャーナは、きっとそれを止めることが出来ないのだ。合形が巨大な魔物と戦っている時に、彼はきっと見ていることしか出来ない。彼女を止めることも、魔術で援護することも出来ない。
だって彼の魔術が、彼女に当たるかもしれないから。
ザバはゆっくりと席から立ち上がった。
「ふん。詳しい話はまだ全然聞いてへんねんけど。何が危険なんや」
ザバは言いながら、腕組みをして部屋を横切る。
詳しい話といっても、イシャーナ自身がまずよく分かっていないことだらけで、大したことは言えない。
「龍が、居るんだ」
「龍? このへんにか」
イシャーナにとって危険なのは、龍よりもアバックの村人達だが、ニルティには龍が最も危険であるのも間違いない話だ。
ザバは部屋の扉を開けて、外を覗き、廊下に居た部下らしき男になにやら耳打ちすると、戻ってきた。
「えー、龍って、どんぐらいのサイズの」
「巨大な、だ」
一口に龍と言っても、蛇に背びれが付いたようなものから、様々な大きさのものが居る。ザバにはぴんとこなかったのだろう。
「まあええわ。俺もニルティが危ない目に遭うのは困る。黙って出て行かはんのはええけど、杖の代金は?」
ザバは腕を組んだまま、イシャーナを馬鹿にするようにニコッと笑った。イシャーナはザバを鋭く睨みつけた。
「無い、が、魔術師にはそれを請求する権利がある」
魔術師は金も物も一切のものを所有できない。その代わり、任務先で現地の人々から現物で必要なものを要求する権利を持つ。しかし正当なその権利を、実際スムーズに行使できることはほとんど無い。
「そんなん言われても、魔術師なんか俺ら、力尽くでどうでもできるし、怖くないわ。お客も居ることやし」
ザバはへらりと、笑って部屋の外へ声を掛けた。
「おーい、入って」
部屋の扉がガチャリと開いて、イシャーナは不思議に思ってそれを見ていた。
「貴様ぁっ。魔術師、貴様、殺してやる!」
どうしてあの男が!
扉から入ってきた大男が、叫んで飛び掛ってこようとした。
イシャーナは慌てて立ち上がり、部屋の壁沿いまで駆けた。咄嗟に部屋から逃げ出せそうな窓を探す。窓に手をかけようとして、腕を掴まれた。
「おいおい冗談やって。落ち着いて、逃げんでいい」
大きなザバの手で腕を掴まれて、見れば大男は二人の冒険者に体を押さえられて、イシャーナのところまで来ることは出来なかった。
日に焼けた立派な体に、皮鎧を付けた大男は、アバックの山の狩人だった。
あの男だ。
イシャーナを殺そうとし、矢を放ったあの男。イシャーナを殺そうとし、もう少しで殺せるところだった男。あの時彼は、心の底から恐怖を感じた。
あの男は名を、ピナカと名乗った。
ザバの手を振り払い、今すぐここから逃げ出したかったが、実際はここから逃げ出すよりも冒険者達のすぐ近くに居た方が安全なのも分かっている。まさかザバも、本気で魔術師を、殺そうとしている人間に差し出したりはしないだろう。
「やっぱり、あのお客が言うてる魔術師っておまえらのことか?」
イシャーナは小さく頷いた。
「貴様。貴様のせいで、我が村は……。神々が、貴様に罰を下す。貴様を、殺してやる」
大男が叫んだ。イシャーナを殺すのは、神でも金翅雀でもなく、あの男だ。
むき出しの憎悪が、肌を泡立たせる。イシャーナはこれまで任務で何度も死にそうになったことがあるが、人の殺意と憎悪はどんな現実の危険よりも強い魔物よりも、彼を恐怖させる。
なぜ、あんなに憎まれなければならない。魔術師だというだけで。イシャーナたち魔術師は、人々のために滅私して力を尽くしているのに、どうして殺されそうにならねば。いけないのか。
理不尽さを感じながらも、イシャーナは分かっている。魔術師だからだ。
彼らは、魔術師だからだ。
イシャーナは力を込めて、体の震えを押し殺し、アバックの村人の男に向き直った。
「村が、どうしたんだい。君たちの村に、何が起こった」
ピナカは、壁を震わす大声で吠えた。
「貴様のせいで、神々が罰を与えにいらっしゃった。貴様ぁ」
金翅雀が、アバックの村までやって来たということだろうか。イシャーナが詳しく問いただそうとした時、ピナカが自分を押さえ込んでいる二人の冒険者を振り払って、彼に飛びかかってきた。
ザバが、イシャーナの前に出て、非力な魔術師を背中に庇おうとする。イシャーナが咄嗟に声も上げられないでいると、開いた扉の向こうから、赤い塊が部屋に駆け入った。
赤い塊は、イシャーナが何が起こっているのか理解できない間に、彼の目の前の大男を吹っ飛ばした。
ピナカは、軽く宙に浮いたかと思うと、背中から後方に倒れた。
赤い塊――赤い髪をなびかせたニルティは、倒れこんだ男を一発素手でぶん殴り、二回力強く踏みつけた。
彼女は、左手に布を巻いたままの剣を持ち、剣を抜いても居ない。彼女よりずっと大柄な男を、素手で吹っ飛ばしたのだった。
彼女は激しい怒気を身に纏っていた。細身でありながら、怒りのために体が倍に膨らんだように見え、赤茶の髪は燃え立つようだった。
イシャーナが背後から、落ち着くように声を掛けようとすると、彼女は低い、低いうなり声を上げた。
「金翅雀が罰を与えたんが、誰のせいやって?」
ニルティは低い声で尋ねた。ピナカは理解できないことを拒否するように、首をゆるゆると左右に振った。
「我らが悪いとおっしゃるのか」
ニルティは、小さく首を傾げた。
「誰が、悪いんやって?」
イシャーナはぞっとした。背後から、彼女の顔は見えない。この声は本当にニルティの声なのか、彼女が発している言葉なのか。
ザバや冒険者たちも含め、部屋中の人間が彼女を凝視していた。彼女の言葉は、この言葉は。
ピナカは痛みではなく、恐怖か緊張かで震えながら、ニルティから顔を背けることも出来ずに、跪いて姿勢を正した。
「我らが悪うございました。どうか怒りをお納めください。どうか我が村をお許しください。どうか、神様」
彼女の低い声は、ピナカには神の声に聞こえたことだろう。イシャーナもまた不安で仕方ない。彼女が彼女のままなのか。
ニルティは、左手で剣に巻いた布を解いた。
「ニルティ!」
イシャーナが制止するように叫ぶと、彼女は左手の布をぽいと捨て、こちらを見ずにイシャーナの頭をぽんぽん、と撫でた。イシャーナは何も言えず、黙った。
「何を持ってるねん」
ニルティは剣の先をピナカに向けると、低く尋ねた。ピナカは何のことを問われたのか分からない様子で、慌てて体を探っていたが、はっと気付いて皮袋の中に入れていた四角い箱を差し出した。
「これは、金翅雀を呼ぶ……」
強烈に臭い何かが入れられた箱だ。どういう仕組みになっているのか、今は完全ににおいが封じ込められている。それでもニルティはそのにおいが分かるらしく、手の甲で鼻を押さえた。
彼女の剣を持つ腕が、何かに堪えるように震える。
「これでどこが、おまえらが悪くないねん。
あたしの獲物をどこにやった。どこもかしこも良いにおいがすんのに、実際の獲物はどこにも居らへん。それをやっと見付けたと思ったら、あんなに、あんなに酷いことを、あたしの龍にあんなに酷いことを!」
ズガンッ。彼女は剣を床に突き立てた。
「それ、俺の執務室の床やぞ」
ザバが進み出た。ニルティが冷たい無表情でザバをちらりと見やる。
「あたしの合形、危ない目に合わせといて、偉そうやな。役立たずが」
「おいおい、偉そうなんはどっちや。まだ一銭も払わんと。金持ってない奴なんか、客と違う、叩き出すで」
ザバは腰から剣を抜いた。なんだか話が可笑しくなって来た、とイシャーナは思う。剣を抜いて叩き出すと言うのは、荒っぽ過ぎるのではないか。
ニルティは床からするりと剣を引き抜くと、右手でくるん、と回した。
「まあ、いいで」
凪いだ口調でニルティは答えたが、その瞳はギラリと光っている。
「やっぱ、イシャーナの言う通りや。ちょっとあかんわ。
どうも、血が猛って仕方ないねん。そこの男を一人八つ裂きにして血を鎮めようかとも思ったけど、無抵抗な男殺して血が鎮まるともおもわん。それよりかは、顔見知りの男の一人でも殺したほうが、ショックで気持ちも落ち着くやろ」
「ニ、ニルティ、馬鹿な冗談を言うんじゃない」
物騒な彼女なりの冗談だと思って、イシャーナは笑い飛ばそうとしたが、声が緊張して全く冗談にならなかった。
ニルティはまた剣をくるりと回し、ザバはにんまりと笑った。
「そうかい。まあ俺も、同じ釜のメシを食ったおまえを斬ることができたら、剣士として一つ、新しいステップに登ることができるかもしれへん」
ニルティは平然とし、ザバはへらへら笑っていたが、二人の目は血走り、互いに相手の隙を見逃さないようにギラギラしている。
これだからイシャーナには、剣士と言う人種は分からない。二人は敵なのか友なのか、冗談なのか、本気なのか。
「っおらぁぁぁ」
「っせい」
二人が飛び出した瞬間、イシャーナはしゃがみ込んで掌を床に付けた。
両手の五指から十個の魔術の円が生まれた。十の円は干渉し合い一瞬で数十になり。
部屋の中に一瞬だけ雨を降らせた。
ザバー。ぴしょん、ぴしょん。
「いい加減にするんだ! 話が進まないだろう。アバックの村がどうしたって? ニルティはその剣を離すんだ」
ニルティは驚いた顔でイシャーナを振り返ると、決まり悪そうな顔で剣をぽいと投げ捨てた。
「あー、地区長からの手紙がー!
ああっ俺も濡れてるから」
ザバは雨が降った室内の様子に大変なショックを受けている。君たちは室内で斬り合いを始めようとしていたのではないかと、イシャーナは思うが、とんでもないことをしてしまったと思っても居る。
ニルティに引きずられて、一時的に愚かになっている気がする。
「ザバ、メシ」
室内の惨状に落ち込んでいるザバに、凪いだ声がかかる。
「なんやて」
ニルティは濡れた髪を掻き上げながら、ザバのショックなど無視して話す。
「後で話があるねん。よく寝たし、着替えて、飯喰って、それから相談や。ちょっと荷物も揃え直して欲しい」
「金」
ザバは不機嫌そうに吐き捨てた。
「あと、最高の杖も用意しといてや。金は無いけど、あんたが喉から手が出るほど欲しいもんがある」
そういって彼女は、先程彼女が放り捨てた剣を、コンと爪先で蹴った。
「伝説の、獣化の剣や。あんたが値段つけていいで。出せるだけの金で、買えよ」