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数日の夢物語

作者: 安居島 真衣
掲載日:2026/05/29

高校生活というものは、振り返ってみると案外曖昧だ。


どんな授業を受けて、どんな問題を解いたのかはほとんど覚えていない。


けれど、不思議なことに。


夏の匂いや、夕方のグラウンドの色。誰かにかけられた何気ない一言。胸が少しだけ高鳴った瞬間だけは、いつまでも記憶に残り続ける。


これは、そんな夏の話だ。


人生最後の体育祭。


ただそれだけの、ありふれた一日。


けれど私にとっては、世界が少しだけ変わった日だった。

私はここ数日、毎日が楽しい。


楽しくて仕方がない。


胸の奥が、夏に溺れる蝉のように、幸福でいっぱいだった。


けれど、幸福すぎると人は少し怖くなる。


このまま幸せが続いたら、自分の中の何かが壊れてしまうんじゃないか。


ある日の通学路、信号無視の車に轢かれて死ぬかもしれない――そんな馬鹿げた想像までしてしまう。


人間は、予想もしていなかった幸せを手にすると、不安になる生き物なのだろうか。


きっと今の私は、宝くじで数億円を当てた人間と同じ感覚なのだと思う。


恋愛をお金に例えるなんて変かもしれない。でも、それ以外に言い表しようがなかった。


それくらい、今の私は幸福だった。




七月九日。


私は毎年恒例の学校行事――体育祭一日目を楽しんでいた。


高校三年生。おそらく人生最後になる体育祭。


だから私は、小さな決意をしていた。


自分から、いろんな人に声をかけて写真を撮ること。


七月の太陽は容赦がなかった。


焼けたグラウンドから立ち上る熱気が、足元からじわじわと身体を炙ってくる。


生ぬるい風が吹くたび、土埃と汗の匂いが混ざって鼻を掠めた。


スピーカー越しの割れた放送音。遠くで鳴り続ける歓声。水筒の氷が揺れる音。


体育祭独特の騒がしさが、学校全体を包み込んでいる。


その決意の通り、私は友人たちに片っ端から話しかけ、一緒に写真を撮った。


三年間で、一番楽しい体育祭だった。


そんな時だった。


同じクラスの女の子が、ひどくしんどそうにしているのが目に入った。


口元をタオルで押さえ、今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪い。


額に張り付いた前髪は汗で濡れている。


肩が小さく上下するたび、タオルの端がかすかに揺れた。


近づくと、熱を持った空気が伝わってくる気がした。


気づけば私は、彼女に声をかけていた。


「……大丈夫?」


「うん……」


「無理せんときや」


「ありがとう……」


短いやり取りだった。けれど、彼女がかなり弱っていることだけは分かった。




それから二種目ほど終わり、昼休みの放送が流れる。


『昼食の時間です。各自教室へ戻って休憩してください』


私は友人二人と一緒に教室へ戻った。


いつものように弁当を持って友人の席へ向かい、近くの椅子を借りて食べ始める。


昼休みの教室には、弁当の匂いが広がっていた。


からあげの油の香り。焼きそばソースの匂い。汗をかいた体操服の湿った空気。


窓際では、熱を含んだ風がカーテンをゆらゆら揺らしている。


ふと、何気なく教室を見回した。


すると、例の女の子が机に突っ伏していた。


机の上にはタオルが敷かれている。


周囲の笑い声から切り離されたみたいに、彼女だけが静かだった。


私は彼女のことが気になって仕方なかった。


もし熱中症だったら。もし脱水症状を起こしていたら。


最悪の場合、命に関わる。


そう思うと、弁当の味なんて分からなくなった。


私は箸を置き、彼女の席へ向かう。


席が前後なので、自分の席に腰掛けたまま声をかけた。


「ほんまに大丈夫?」


「……疲れた」


「全然大丈夫そうに見えへんで。保健室行った方がええって」


「大丈夫……」


「ほんまにヤバかったら行きや」


「ありがとう……」


やっぱり、無理をしている。


自分のしんどさを隠している。


もし私が同じ立場でも、きっと同じように答えると思う。


でも、それでも私は、本音を言ってほしかった。


命に関わるかもしれないのだから。




夕方、太陽が沈み始める頃、私は帰宅した。


結局、一日中どこか落ち着かないまま終わってしまった。


家に帰るとすぐベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまう。




翌朝。


部屋の大きな窓から朝日が差し込み、スマホのアラームが鳴り響く。


「ふぁぁ……」


いつものように起き上がり、スマホを見る。


その瞬間、完全に目が覚めた。


「やばっ!!」


寝坊した。


今日は体育祭二日目。いつもより登校時間が早かったのを、完全に忘れていたのだ。


私は慌てて朝食をかき込み、髪を整える。


こんな時に『どこでもドア』でもあればいいのに――なんて、ありがちな妄想をしながら、数分で準備を終わらせた。


「よし、まだ間に合う!」


家を飛び出し、自転車を全力で漕ぐ。


湿った朝の風が顔にぶつかる。


ペダルを踏むたび、チェーンが軋む音が耳に響いた。


すると前方に、同じように急いでいる生徒たちの姿が見えた。


少し安心する。


自分だけじゃない。


「おはよう!」


「お、おう!」


その中にいた友人へ声をかけながら、私は西門へ飛び込んだ。


急いで自転車を止め、校舎の時計を見る。


まだ三分ある。


私は全力で廊下を走った。


上履きが床を叩く音が、静かな校舎に響く。


肺が焼けるように熱い。


喉の奥が乾いて、呼吸するたび鉄っぽい味がした。


汗が首筋を伝い、体操服の背中に張り付く。


それでも私は走った。


まだ間に合うと信じていたからだ。


汗だくになりながら教室へ飛び込む。


――だが。


「え?」


教室には、誰もいなかった。


黒板を見ると、一枚の紙が貼られている。


《今日は運動場点呼です》


「…………」


読み終えた瞬間。


キーンコーンカーンコーン――


無情にもチャイムが鳴り響いた。


遅刻確定。


「……まじか」


昨日のホームルームで先生が言っていた気もする。


完全に油断していた。


私は肩を落としながら運動場へ向かった。




その日の私の出番は、体育祭最大の目玉競技――棒引きだった。


七本の棒を奪い合い、自陣へ多く持ち込んだ方が勝ち。


単純なルールなのに、毎年異常なほど盛り上がる。


「棒引きに出るやつはすごい」


そんな空気が学校にはあった。


だから私は自分から立候補した。


決勝戦。


私たちの団は圧倒的に強かった。


開始の笛が鳴った瞬間、グラウンドの空気が爆発する。


「うおおお!!」


怒号みたいな歓声が飛び交う。


砂埃が舞い上がり、視界が白く霞む。


棒を握る手が痛い。


腕が軋む。


靴底が土を削る感覚が伝わってくる。


それでも誰も離さない。


熱狂の中心に、自分がいる。


その感覚だけで、胸が高鳴った。


結果は四対〇。


完勝だった。


競技を終え、私はテントへ戻ってお茶を飲む。


冷たいお茶が、火照った喉をゆっくり通っていく。


その時だった。


「なぁ、写真撮らへん?」


「……え?」


突然、女の子に声をかけられた。


周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。


心臓が跳ねる。


耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。


夏の湿った風が頬を撫でた。


夕日に照らされた彼女の笑顔が、少し眩しかった。


「いいよ?」


「やった!」


『はい、チーズ』


カシャッ――


写真を撮り終えたあとも、私はしばらく状況を理解できなかった。


え。


今、女の子から誘われた?


そんな経験、人生で一度もない。


高校三年間、教室の隅で静かに過ごしてきた私には、あまりにも衝撃的だった。


棒引きに出たからだろうか。


そういえば彼女も棒引きに出ていた気がする。


ここまで影響力があるなんて。


なぜ私なんかと。


理由は分からない。


でも、とにかく嬉しかった。


胸の奥が熱くなる。


世界が少しだけ輝いて見えた。




閉会式。


私は列に並びながら、ぼんやり夕焼けを見ていた。


沈みかけた夕日が、生徒たちの顔を茜色に染めている。


夕方の風は昼より少しだけ冷たくて、汗ばんだ肌を静かに撫でていった。


その時、前の女子の友人が突然話しかけてきた。


「場所、変わったろか?」


「え? なんで?」


「話したいやろ?」


そこで私は察した。


どうやら彼女は、私が前にいる女の子と付き合っていると思っているらしい。


そんなわけがない。


写真を撮っただけで舞い上がっているような人間なのに。


「いや、大丈夫やって」


「いいからいいから」


半ば強引に順番を変えられ、私は彼女の後ろに立つことになった。


「なんで前来たん?」


「いや、なんか……よく分からへん」


「?」


「なんでなんやろな(笑)」


早く終わってくれ。


私は心の底からそう願っていた。


けれど同時に、妙な期待をしている自分もいた。


もしかしたら。


ほんの少しくらい、相手も私を意識してくれているんじゃないか――と。


そんな都合のいい考えが頭をよぎるたび、私は自分で自分が恥ずかしくなる。


クラスの視線が気になった。


後ろで誰かが笑っているだけで、自分のことを話している気がした。


幸福は、時々、人を臆病にする。




『これで第九十五回体育祭を閉会します』


ようやく閉会式が終わる。


その頃には、クラスの一部で「私に彼女がいる」という噂まで流れ始めていた。


意味が分からない。


どうしてそうなった。


そんなことを考えながら帰る準備をしていた時だった。


「バイバイ!」


「お、おう! バイバイ!」


写真を撮ってくれたあの子だった。


その一言だけで、全身がふわりと軽くなる。


まるで温かい湯に溶けていくみたいに、幸福感が身体中を満たしていった。


さっきまで気にしていた噂のことなんて、どうでもよくなってしまうくらいに。


私はそのまま、上機嫌で家へ帰った。


駅から家までの夜道を、月が静かに照らしている。


アスファルトには昼間の熱がまだ残っていて、夜風だけがやさしく涼しかった。


遠くで電車の走る音が聞こえる。


そんな静かな夏の夜だった。


幸福すぎて怖い。


でも今は、この幸福が少しでも長く続けばいいと思った。


疲れていたのだろう。


その夜も、私はすぐ眠りに落ちた。





ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品では、「青春の幸福感」をできるだけ丁寧に描きたいと思いながら書きました。


特別な事件が起こるわけではありません。


誰かが世界を救うわけでもなければ、劇的な恋愛が始まるわけでもない。


ただ、体育祭で写真を撮った。少し話した。それだけです。


でも、高校生の頃というのは、その“それだけ”で世界が変わる瞬間が確かにあった気がします。


帰り道の月が綺麗に見えたり、翌日の学校が楽しみになったり。


きっと青春とは、そういう小さな幸福の積み重ねなのだと思います。


この物語のどこかに、皆さん自身の記憶と重なる瞬間があれば嬉しいです。

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