第9話:戦略的撤退(という名の進撃)
――もう、耐えられない。
私は、震える手で「逃走用のリュックサック(実は古代の『無限収納袋』)」に、身の回りのものを詰め込んでいた。
窓の外を見てほしい。
そこには、聖女エレオノーラが率いる数千人の巡礼者が、私の小屋に向かって合唱を捧げている。
さらに、昨日私が「洗濯してあげた」はずの鎧を着た騎士たちが、「浄化の儀を終えた聖騎士」として、勝手に門番を始めている。
(……うるさい! 眩しい! 怖すぎる!!)
ここはもう、私の知っている『死の森』じゃない。
私の静かな隠居生活は、彼女たちの熱狂によって無惨に踏みにじられたのだ。
(……逃げるんだ。もっと奥へ。誰も来られない、本当の地獄のような深部へ……!)
私は、深夜、みんなが祈り疲れて眠りについた隙を突き、裏口からこっそりと抜け出した。
行き先なんて決めていない。とにかく、人の気配がしない方へ、ただひたすらに。
(……ひぃ、暗い! 怖い! でも、あそこに留まるよりはマシだ!)
私は、パニックで涙目になりながら、深い藪をかき分けて走った。
恐怖のあまり、私の体からは制御不能な魔力が奔流となって噴き出し、行く手を阻む樹齢千年の大樹たちが「ひれ伏すように」次々と倒れていく。
だが、必死すぎる私はそれに気づかない。
「あー、最近の木は脆いなぁ」と、理不尽な感想を抱くだけだった。
†
(……始まった。ついに、この時が……!)
闇に潜むシルヴィアは、その光景を目の当たりにして、震えが止まらなかった。
主が、ついに動いた。
それも、ただの移動ではない。
彼が歩くたびに、森の地形そのものが「道」として再構築され、立ち塞がる魔物や大樹が、神の威光に耐えかねて霧散していく。
(……あのお方は、今夜、すべてを終わらせるつもりなのね)
アルスが進む先。そこには、隣国スピア王国が極秘裏に築き上げた、難攻不落の要塞――『黒鋼の牙』がある。
将軍バイロンも、騎士団長も、そこを拠点に再起を狙っていたはずだ。
だが、主はそれを完全に予見していた。
(……あのお方の歩みには、一切の迷いがない。……見て、あの速度! 空間を跳躍しているわ!)
実際には、アルスが「怖すぎて全力疾走」しているだけなのだが、漏れ出た魔力が空間を圧縮し、傍目には「縮地」を超えた神速の進撃に見えていた。
†
(……はぁ、はぁ、はぁ……! もう、限界……!)
私は、肺が焼けるような痛みを感じながら、ようやく足を止めた。
目の前には、なぜか森の中に場違いな「黒い壁」が立ちはだかっていた。
(……なに、これ。崖? ……にしては、やけに平らだな)
私は、暗闇でよく見えないまま、その壁に手を触れた。
本当は、少し寄りかかって休みたかっただけなのだが、私の手にはまだ、護身用の「重い鉄の棒(神代の魔杖)」が握られていた。
(……あ。手が滑った)
疲労で握力が限界に達していた私は、その鉄の棒を壁に向かって「ガシャン!」とぶつけてしまった。
――その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ!!!!!
鉄の棒が壁に触れた一点から、蜘蛛の巣状に真っ赤な亀裂が走り、要塞全体が悲鳴を上げた。
私が「接着剤」として壁に塗り込んでいた機密文書の燃えカス――そこに残っていた魔力が、本体である要塞の防衛術式と共鳴し、内部から大爆発を引き起こしたのだ。
「……え?」
ドォォォォォォォォォォォォン!!!
爆風で吹き飛ばされそうになりながら、私は見た。
難攻不落と言われた要塞の城門が、私の「ちょっとぶつけた棒」のせいで、紙細工のように粉々に砕け散る様を。
†
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
要塞内部では、将軍バイロンが椅子から転げ落ちていた。
最強の結界。最新の魔導砲。それらが、たった一つの「衝撃」で無効化され、城門が消失したのだ。
土煙の中から現れたのは、一人の青年。
銀髪を月光に輝かせ、右手に無造作に『黒鋼の杖』を下げた、あの「死神」だ。
「……あ、アルス……!!」
バイロンは絶叫した。
なぜだ。なぜ、ここが分かった。
ここは地図にも載っていない、王国の最高機密のはずだ。
だが、アルスは何も答えない。
ただ、肩で息をしながら(全力疾走のせい)、冷徹な……あまりにも冷徹な瞳でバイロンを見据えている(怖くて表情が死んでいるだけ)。
「……ま、待て! 命だけは! 命だけは助けてくれ!」
「……はぁ、はぁ……(=もう、疲れすぎて声が出ない)」
「な、何を言っている……? 『無駄だ』……だと!? 私に、ここで死ねというのか!?」
バイロンは、アルスの「荒い呼吸」を、自分への処刑宣告だと勘違いした。
彼は恐怖のあまり、隠し持っていた「降伏の白い旗」を全力で振り回した。
「わ、分かった! 降伏だ! 王国は貴方の軍門に下る! だから、その杖を振らないでくれぇぇ!!」
†
(……え? なんでまた将軍がいるの? ここ、彼の家だったの!?)
アルスは、自分が逃げてきた場所が「敵の本拠地」だったことに、ようやく気づいて絶望した。
(……最悪だ。逃げた先が、一番会いたくない人の家だったなんて。しかも、私、また彼の家を壊しちゃった……。これ、絶対許されない。今度こそ、国際問題になる!)
私は、慌てて逃げ出そうとした。
だが、その時、背後から「おぉぉぉぉー!!」という凄まじい歓声が上がった。
振り返ると、そこには私を追いかけてきたらしい聖女エレオノーラと、数千人の信者たち。
そして、影から現れたシルヴィアが、要塞の頂上に「アルスの紋章(ただの家のマーク)」を掲げていた。
「見なさい! 主は、一晩で悪の根源を断たれました!!」
「これぞ神の進撃! 救世主アルス様に、永遠の栄光あれ!!」
……違う。
私は、ただ逃げたかっただけだ。
静かな場所で、一人になりたかっただけなんだ。
それなのに。
私の足元には、隣国の将軍が跪き、背後には狂信的な軍勢が控え、目の前には完全に陥落した要塞が転がっている。
私は、砕け散った城門を見上げながら、ポツリと呟いた。
「……もう、帰りたい(=どこにも逃げ場がないなら、自分の穴に帰るしかない……)」
その言葉は、聖女によってこう翻訳された。
『――この世界すべてを、私の家(領土)とする』
こうして、一人のビビりな青年による「ただの夜逃げ」は、歴史書において『暗黒要塞の戦い――一夜にして国境を消滅させた神罰』として記されることになった。
アルスの平穏な隠居生活は、宇宙の塵となって消え去った。
逃げた先が敵の本拠地。なろうコメディの様式美ですね!
アルスの「帰りたい」が、まさかの「世界征服宣言」に化けました。
これにて第1ブロック「黎明編」、完結です!
次話からは第2ブロック「建国編」。アルス、ついに王様になります(笑)。
「アルスの勘違いが世界を滅ぼすw」「聖女の翻訳能力が高すぎる」と思った方は、
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