第4話:聖女エレオノーラの誤算
――静寂が欲しい。
私は、洗濯物が乾くのを眺めながら、深く、深ーく溜息をついた。
あの騒がしい騎士たちが去ってから、数日が経った。
彼らが置いていった金貨の山は、怖くて触れないので、とりあえず布を被せて隠してある。宝石は、キラキラして目がチカチカするので、床下に埋めた。
(……なんで、ただ静かに暮らしたいだけなのに、こんなに物が溢れてるんだ)
私は、脇に抱えていた「丈夫な棒(伝説の鞘)」を地面に突き刺し、そこに濡れたシャツを干した。
この棒は、確かに便利だ。どれだけ風が吹いても、シャツが落ちない。……気のせいか、シャツが心なしか神々しい光を放っている気がするが、きっと気のせいだろう。
(……よし。これで、今日の家事は終わりだ。あとは、誰にも見つからないように、穴の中で寝るだけ……)
その時だった。
森の入り口の方から、先日の騎士たちとは比べ物にならないほど、荘厳で、清らかな空気が流れてきた。
(……え? なに、この綺麗な感じ。……花の匂い?)
私は、嫌な予感がして振り返った。
そこには、白いドレスに身を包んだ、この世のものとは思えないほど美しい女性が、大勢の神官たちを従えて立っていた。
黄金色の髪、透き通るような肌、そして、すべてを見透かすような、深く澄んだ蒼い瞳。
彼女が歩くたびに、足元から本物の花が咲き誇り、周囲の魔素が陽だまりのように温かくなる。
(……うわ。終わった。今度こそ終わった。あの、テレビとかで見る、すごい偉い人だ。宗教のトップとか、そういうレベルの人だ!)
アルスの豆腐メンタルは、一瞬で粉砕された。
恐怖のあまり、顔が引きつり、表情が完全に凍りつく。
手足がガタガタと震え出し、制御できない魔力が、箒を掃いた時以上に大気を震わせ始めた。
(どうしよう、どうしよう! なんでこんな偉い人が!? 不法占拠だけじゃなくて、教皇なんて勝手に名乗ってるから(名乗ってない)、神罰を下しに来たんだ! 殺される! 火あぶりにされる!)
アルスは、とっさに「丈夫な棒(鞘)」にしがみついた。
本当は、その場に平伏して謝りたかったのだが、怖すぎて腰が抜けてしまい、棒に捕まって立っているのが精一杯だったのだ。
†
(……あれが、噂の『救世主』……?)
王国聖女、エレオノーラは、眼前の光景に微かな眉をひそめた。
彼女は、国王やゼノンからの「死の森に神が降臨した」という報告を、当初は疑っていた。
古龍を倒し、山を穿ち、魔力脈を掘り当てた? ……そんな荒唐無稽な話、信じられるはずがない。
きっと、強力な魔法使いが、田舎者を騙して担ぎ上げられているだけだ。
私がその「化けの皮」を剥いでやる。
そう思って、彼女はこの『アルス直轄聖域』へと足を踏み入れた。
だが。
森に入った瞬間、彼女は自分の過ちに気づいた。
この森を形成している魔素の、あまりの純度。あまりの濃密さ。
それは、彼女が一生を捧げてきた神殿の、どの聖域よりも神聖で、清らかだった。
(……信じられない。この地は……本当に、神の庭だわ)
そして、彼女はその中央に立つ青年、アルスを見た。
彼は、粗末な小屋の前で、薄汚れたシャツが干された『終焉の鞘』にしがみついていた。
その姿は、一見すれば、奇妙で、情けない。
だが、エレオノーラの目は、彼の真実の姿を捉えていた。
(……な、なんていう魔圧……!? 溢れ出る力が、大気を概念ごと圧縮している……! 私が近づいただけで、彼の周囲の世界が、拒絶反応を起こして震えている……!)
エレオノーラは、自分の「探知」スキルが、あまりのプレッシャーに悲鳴を上げているのを感じた。
彼が鞘にしがみついているのではない。
彼は、その強大すぎる力で、暴走しかけている『鞘』の呪いを、肉体一つで押さえ込んでいるのだ!
(……それに、あの瞳……。なんて、深く、哀しい瞳なの……)
アルスは、エレオノーラを睨みつけていた(怖くて顔が凍りついているだけ)。
その瞳には、威厳も、怒りも、喜びもなかった。
ただ、この世のすべてを見通し、その醜さに絶望したような、深淵なる「孤独」だけがあった。
(あ、ああ……! 私は、なんという非礼を……! この御方は、神としての力を持ちながら、そのあまりの強さゆえに、誰とも分かり合えず、この森で一人、世界の罪を背負って生きてこられたのだわ……!)
エレオノーラは、自分の傲慢さが恥ずかしくてならなかった。
神を試そうなどと、なんと罰当たりな。
「……う、あ……」
アルスが、何かを言おうとして、口をモゴモゴと動かした(怖くて声が出ない)。
エレオノーラは、カッと目を見開いた。
(……今、口を動かされた! 言葉ではない。これは……『神託』だわ! 私の魂に直接、語りかけておられる……! 『傲慢な女よ、主の御前で、己の無力を知れ』……と!)
「ひ、ああっ……!」
エレオノーラは、圧倒的な「神の意志(勘違い)」に、精神が耐えきれず、その場に崩れ落ちた。
彼女の澄んだ瞳から、涙が溢れ出す。
それは恐怖ではなく、自分の無知への悔恨と、神の慈悲への、深い感動の涙だった。
「主よ……! このエレオノーラ、生涯を賭けて、貴方様の御心を、この世界に広めることを誓います……!!」
†
(……え? なんで泣いてるの? 殺される、殺されるって! 火あぶりじゃなくて、泣かせるほど酷い拷問にかけられるんだ!)
アルスは、聖女が泣き崩れたのを見て、絶望のどん底に叩きつけられた。
彼女の後ろの神官たちも、聖女が跪いたのを見て、一斉に平伏し、祈りを捧げ始めている。
(嫌だ、嫌だ! 謝るから! この棒も返すから! 穴掘って埋まるから、許して!)
アルスは、パニックで真っ白になった頭で、唯一できる「最大限の謝罪」を口にした。
彼は、自分が干していたシャツ(心なしか神々しい光を放っている)を竿からひっぺがし、震える手で聖女の前に差し出した。
「……こ、これを……(=ごめんなさい、このシャツしか持ってないけど、許してください。これで顔を拭いてください)」
極度の緊張で、声は裏返り、地響きのように低く響いた。
†
(……え?)
エレオノーラは、涙に濡れた顔を上げた。
目の前には、アルスが差し出した、薄汚れた(聖気で輝く)シャツ。
彼女は、そのシャツを受け取った瞬間、全身に衝撃が走るのを感じた。
(……あ、熱い……! シャツから、彼の、主の魔力が、莫大な『癒し』の力が溢れてくる……! 私が流した涙が、このシャツに触れた瞬間、聖水へと昇華されているわ……!)
それは、神が彼女の罪を許し、彼女を「神の代弁者」として認めたという、決定的な証拠(勘違い)だった。
(……主は、言葉ではなく、このシャツ(聖衣)を授けることで、私に『穢れた世界を、主の愛(魔力)で拭い去れ』……と、そうお命じになったのだわ……!)
「あ、ああ……! なんと、なんと慈悲深い……! この聖衣は、神殿の至宝として、永遠に祀らせていただきます!!」
エレオノーラは、そのシャツを顔に押し当て、再び号泣した。
神官たちも、その様子を見て、涙を流しながら賛美歌を歌い始める。
森の木々が、彼らの歌声に合わせて、黄金色の葉を揺らした。
†
(……なんで、シャツを顔に? ……あ、臭かったのかな? 嫌だ、嫌だ! 臭くて怒ってるんだ! だからみんなで、変な歌歌ってるんだ!)
アルスは、もう限界だった。
恐怖と混乱で、視界がチカチカしてきた。
「……もう、帰って……(=お願いだから、私を許して、ここから去って)」
彼は、自分の小屋のドアをバタンと閉め、中から鍵をかけた。
そして、そのまま床にへたり込み、頭を抱えた。
(……絶対に、絶対に穴から出ないぞ。もう、家賃払うから、許して……)
アルスの絶望をよそに。
外では、エレオノーラが神々しい顔で立ち上がっていた。
「主は、『私の力に頼らず、己の足で、この世界を変えてみせろ(=もう帰って)』とお命じになりました。……行くわよ、皆さん。主が、このエレオノーラを、真の『聖女』として認めてくださった。……この世界を、主の理想郷にするために、まずは神殿の腐敗を一掃するわ!」
「おぉぉぉぉー!!」
こうして、一人のビビりな青年による「ただのシャツの譲渡」は、神殿の歴史を塗り替える「宗教改革の始まり」へとすり替わった。
アルスの平穏な隠居生活は、また一歩、どころか、完全に不可能となったのだった。
聖女エレオノーラ、完全に勘違いの軍門に下りました。
アルスのシャツは、神殿の至宝(国宝級)になりました。
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