本の紹介31『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー/著
何も起こらないけど鮮烈な印象を残す、彷徨える人間の記録
印象深いタイトルで、読んだことはなくても多くの人が一度は目にしたことがある作品ではないでしょうか。後続の様々な作品で引用されたり、元ネタにされたりと世界有数の二次創作的に利用されている文学作品だと思います。
ティーンエイジャーの抱える等身大の悩みや苛立ちを描いた作品として紹介されているのをよく見かけますが、より深く本作の良さが分かってくるのは歳を重ねてからのように感じます。
高校生というまさしくティーンエイジャーど真ん中の時期に初めて本作を読んだのですが、正直に言って当時は何が面白いのか理解できませんでした。思うに、本作が描かれているティーンエイジャーの葛藤というのは、その年代真っ最中の当人にはしっかりと認識が出来ず、正体の掴めない焦燥感として存在しているのではないでしょうか。そのため、それを物語の中で示されてもイマイチ飲み込めないのかなと。単に私が鈍ちんだったというだけかもしれませんが。
学生時代に悩み苦しんでいたことの正体を、社会人になってから気がつくという経験はないでしょうか。振り返ってみれば、あの頃の自分はこういう理由で悩んでいたのかと気付くタイミングが不意に訪れると言いますか。なので、一度読んだけどよく分からなかったという人は少し時間をおいて再読するとまた違った景色が見えてくるかもしれません。本作は決して若い人のためだけの作品ではないと思うのです。
物語は主人公ホールデンの一人称で語られ、学校を退学することになったホールデンが恩師のもとを訪ねたり、夜の街を放浪したりする話なのですが、最終的に何かを成し遂げるという展開になっていないところがすごいです。何がすごいかというと、主人公が目的を持って何かに挑戦し、その結果を描くという物語の基本型に全く当てはまっていないにも関わらず、一つの物語として成立しているところです。ホールデンというキャラクターがしっかりと立っていることと、文体の巧みさがそれを成功させているのだと感じます。
ホールデンの語り口は達者で、どこかカラッとして雰囲気があるのですが、それとは対照的にナイーブな視線を持っているのが魅力的です。それは学校、もっと広く言えば社会から取りこぼされた人間のことを気にかける優しさのようなものです。人生を競技=競争として捉えることに否定的な彼の心情は、その競技で振り落とされる人間に寄り添っているものです。
我々が競争で成り立っている社会を初めて自覚するのは学生時代だと思います。それはテストの点数や、運動能力、芸術的才能によって隔てられる自分と他者の比較という形で現れます。もっと幼い頃からそういったフィールドに身を置く場合もあるでしょうが、大多数は学校に入ってから直面する問題かと思います。
競争の渦中にいる人間は、往々にして自分のことで手一杯で、競争で振り落とされる者にまで気を配ることが難しいというのが実情だと思います。年齢を重ね、周りを眺める余裕が生まれてくると、広い視線を持つ人が増えてくる印象があります。何歳になっても自分が得をすることしか考えない困った人もいますが。
ホールデンは学生の身でありながら、自分たちを取り巻く世界を一足早く認識しており、その上で、多くの人間が仕方のないものとして受け入れざるを得ない価値観に対して反抗をしているのだと受け止めました。ある意味では多くの人間が諦めてしまったことを眼前に突きつけてくる形になっており、そのことを疎ましいものと感じる人もいると思いますが、そうであればこそ長く読み継がれる作品としての強度を備えているのだとも言えそうです。終わり




