第五章 黄金の蝦蟇 2
太鼓橋を渡り、玉砂利を敷き詰めた狭い前庭をよぎって母屋の表玄関の前へと至る。
老家令が引き戸を開けると、板の間に立てた竜虎を描いた派手な屏風の前で、利休鼠の小袖を着流した散切り頭の男が懐手で待ち受けていた。
短躰ながらがっしりとした体つきをした三十がらみの男だ。
頬骨が高く目の細いごつごつとした痘痕面は極めて不器量だが、全体に堂々とした落ち着きがあって、どんな状況でも必ず道を探し出しそうな抜け目のなさと強烈な精力を感じさせる。
醜さが独特の魅力になっている男だ。
櫻花は意外に感じた。
これが本当に《松の蛆虫》なのだろうか?
いかにも傲慢そうではあるが、卑屈そうにだけは見えない。
「旦那様、猪口どのと奥女中がたがお見えです」
「ああ」
旦那様は喉の奥で唸るように答え、細い目をますます細めて、まずは真葛を、つぎに櫻花を、上から下まで舐めるように眺めまわしてから、思いがけないほど丁寧に頭を低めた。
「お二方、ようこそおいでくださった。僕が松崎甚五だ。時分時だ。まずは昼餉を馳走しよう。猪口君、君もあがれ。ご婦人方と僕だけで同席しては風聞が悪いからな」
藤七郎に対しては雑駁に促して屏風の後ろへと向かう。
ご婦人がたの名前を尋ねる様子はない。
僕と君という人称のあたりにだけ、開明的な旧幕時代の幕臣の名残を感じさせる。
松崎邸の廊下は鏡のように磨き抜かれていた。
足袋の色が白く映るほど滑らかな廊下を進んで通されたのは坪庭に面する六畳間だった。
黒漆塗りの床の間に青磁の一輪挿しが据えられ、すらりとした黄水仙が活けてある。
軸に描かれているのは晩春らしい小川に山吹の花の画で、山吹を詠んだ鎌倉右大臣の歌が添えられている。
「良い趣のお部屋ですわね」
真葛が意外そうに褒める。「お噂に聞く松崎様のお屋敷はもっと異国風かと思っておりました」
「西洋趣味は商売ですよ。好んでやっているわけではない。好むと好まざるに関わらず、我々は欧化せねばならん。好きに支配してよい蛮人と看做されないためにはね」
松崎甚五は苦虫を嚙み潰したような顔で応じ、表情を引き締めて続けた。
「ご婦人がた、猪口君から話は聞いていようが、当家に奉公していた女中の変死事件について、この頃無知蒙昧の輩が戯けた噂を流している。蛇だの蝦蟇だのを神として祀るなど、そんな蛮習のあることが西洋人に知られたら、本朝は未開の野蛮国と看做される。この事件は何としても解決してもらいたい。女の奉公人たちへの尋問は、なるほど地位あるご婦人が適任だろう」
「あら、では、わたくしどもはご家中の女奉公人たちへの尋問のためだけに呼ばれましたの?」
真葛が不本意そうに言い返す。
「他に何のお仕事が?」と、甚五が慇懃無礼に切り返す。
ちょうどそのとき、坪庭に面する明かり障子の向こうから控えめな女の声が聞こえた。
「もうし旦那様、昼餉の支度が整いましてございます」
細く控えめな女の声が聞こえるなり、甚五は慌てて立ち上がり、手ずから明かり障子を開いた。
柔らかな陽光を背にして膝をついていたのは、薄紫色の着物を纏った小柄な婦人だった。
小さな頭と細い首、ほっそりとした体つき。
目鼻立ちもとにかく小ぶりで、茎の細い桔梗の花のような嫋々とした風情がある。
婦人は後ろに三人の女中を連れていた。
全員が膝の前に朱塗りの膳を置いている。
「御新造さまですか?」
真葛が小首を傾げて愛想よく訊ねる。
「ああ」と、婦人ではなく甚五が答える。
「彦乃、この人たちは昔の奥女中がただ。名前は、ああ――猪口君?」
「墨染どのと茅野どのです」
「墨染どのと茅野どのだそうだ。奥女中というのは新時代に相応しい開明的な聡明さを備えた婦人だったと渋沢先生も言っている。君にはそういう朋友が必要だ。仲良くしてもらいなさい」
「はい旦那様、御仰せのままに。――墨染さま、茅野さま、ようこそおいでくださいました。御用があれば何なりと御申しつけを」
「それではお言葉に甘えて。昼餉をいただきましたら、こちらのお屋敷を隅から隅まで案内していただけません?」
「承りました。昼餉がすみましたらすぐそのように」
彦乃はうつむいたままか細い声で応え、自ら携えてきた膳をまず藤七郎の前に据えた。
それから、はっと気づいたように目を見開き、おずおずと甚五に訊ねる。
「旦那様の御書斎までお目にかけても?」
「かまわない。良人に対してそんなに畏まるな。君がこの家の女主人なんだから、何だって好きにすればいいんだ」
甚五が苛立ちと愛しさの入り混じった声で言うと、彦乃は細い肩をすぼめてますます畏まった。「御心に沿えずに申し訳ありません」
「だから謝るなと」
甚五がますます苛立つと彦乃はさらに畏まる。
どこまでもかみ合わない夫婦のやり取りに、櫻花はそこはかとない憐憫を感じた。
獅子が怯える兎に向かって怖がるなと咆哮しているようだ。
昼餉はさほどかからずに終わった。
甚五は仕事があるという。
藤七郎も近所の他の家へ聞き込みに向かうらしい。
櫻花と真葛は彦乃の案内で、まずは母屋を見て回ることになった。
「御新造さま、良いお屋敷でございますねえ」
影が映るほど磨きのよい廊下を歩きながら、真葛が如才なく持ち上げる。「もともとはあなた様のご生家であったとか。お母さまと弟さんもご一緒にお暮しなのですよね?」
「はい」
「弟御は今は何を?」
「三田の義塾に通っております」
彦乃は口数が少なかった。
訊ねたことには答えるが、それ以上は何も話さない。
母屋をざっと見回って台所に至ったところで、真葛が、
「お座敷巡りは櫻花どのだけで充分ですわね。わたくしは女中部屋を覗きたいのですけれど」
と、申し出ると、ほんの一瞬逡巡したあとで、
「はい」
と、頷いた。
自分の見ていないところで奉公人たちに何を訊かれても構わないらしい。
真葛を欠いてしまうと、屋敷廻りの道中はいきなり静まり返った。
彦乃は何か尋ねないかぎり決して口を開かない性質であるらしい。
口下手を自覚している櫻花は迂闊な口は利かず、ひたすら怪しい何かが見えないかどうかに集中することにした。




