第五章 黄金の蝦蟇 1
麻布は起伏の多い土地柄で、坂の上の高台には武家屋敷が、湿っぽい低地には町人地の広がる入り組んだ地形である。
藤七郎の言葉通り、本村町の松崎邸は、旧幕時代の旗本屋敷には珍しく低地にあった。
長いなまこ壁の真ん中に瓦屋根付きの表門が設けられている。
壁の向こうに鬱蒼たる木々が茂っているのが外からでも見てとれた。
「どうです櫻花どの?」と、真葛が小首を傾げて訊ねてくる。「何か見えます?」
「いや」
櫻花は首を横に振った。「外からは何も。地主神はつねに顕現しているとも限らない。しかし、邪な濁りもとくには見えない」
「そういったものも見えるのか? 大したものだな!」
藤七郎は過剰なほど快活に笑うと、扉を閉ざした表門の前に立ち、役者みたいによく響く大音声で呼ばわった。
「頼もう! 邏卒の猪口藤七郎である! 祓いや清めの作法に詳しい足弱がたをお連れ申し上げた! 開門をお願いする!」
足弱――とは、女性を意味する雅称である。
一里半をサクサク歩きとおした真葛が後ろでフンと鼻を鳴らす。
前後して内側から門が開いて、尻端折りに草鞋履きの旧幕時代の渡り中間みたいな若者が顔を出した。
「猪口の旦那ぁ、そんな大声出さんでも――」
にきびっ面の若者はそこまで口にしたところで絶句し、零れんばかりに目を見開いて、藤七郎の後ろに立つ煌びやかな装いの足弱二人を凝視しながら訊ねた。
「ええと、お連れの方々は?」
「昔の奥女中がただ。静寛院宮さまの小姓としてお仕えして、あとには宇治の間に詰めて祓いや清めといった勤めに携わっていたのだそうだ」
「はあなんと、セイカンインの宮様の」
分かっているのかいないのか、若者はやたら頭を低くしながら繰り返し、
「しばしお待ちを! すぐ奥へ取り次ぎますゆえ」
と、言い置いて奥へと駆けこんでいった。
待つほどもなく、若者はもう一人の人物を伴って戻ってきた。
白髪をきちんと髷に結い、白羽二重の小袖に銀鼠色の袴とこっくりとした黒い羽織を合わせたふくよかな老人である。色白で下膨れの品の良い顔立ちをしている。
「おお、伊賀良どの!」
藤七郎が人懐っこい驚きの声をあげる。「ご家令どのじきじきのお出迎えとはかたじけない」
「かつての奥女中がたのおいでと伺いましてはな」と、老人は風体に相応しい物柔らかな声音で応じ、櫻花と真葛に目を向けて恭しく白髪頭を低めた。
「御女中がた、ご足労かたじけない。某、当家の家令を務める伊賀良宗助と申す。どうぞお入りくだされ。すぐに主人に取り次ぎますゆえ」
「かたじけない」
「よろしくお願いいたします」
腰を低めてすり足で進む老家令に続いて屋敷地へと入る。
左右に茂る木々のあいだを抜けると、目の前に輝く水面があった。
ひょうたん型の大きな池だ。
真ん中のくびれに、まだ真新しそうな朱塗りの太鼓橋が架かっている。
向かい岸には瓦屋根の母屋が伸び、左の岸には築山と躑躅の植え込みと、細い朱塗りの柱を連ねて欄干を巡らせた唐風の四阿がある。
右の岸には風変わりな建物があった。
一見白壁の土蔵のようだが、屋根瓦が青く、黒い細かい格子窓を幾つも並べて、池へと張り出すようにしつらえた露台に白い欄干を連ねている。
築地の外国人居留地で目にする西洋人の邸のようだ。
「あちらは?」と、真葛が小首を傾げて訊ねる。
「離れの洋館でございます。横浜や築地からお客人がありますとあちらにお泊りに」
前を行く老家令が感情の読みにくい柔らかな声で応える。
「祠はどちらにあったのだ?」
「あちらの四阿の隣に」
「ほう」
櫻花は太鼓橋の真ん中で足を止め、目を細めて左の岸を見た。
すると、四阿の碧の瓦屋根の尖りの上に、まるで太陽の光が凝るかのように、しだいに濃さを増してゆく光の塊が見えた。
みるみるうちに密度を増し、トロリと濃い蜂蜜色になって輪郭を結び始める。
ずんぐりと丸くやや平たい、尖りを二つ並べた風変わりな擬宝珠のような輪郭――巨大な蝦蟇の形だ。
「櫻花どの」
真葛が囁くように訊ねる。「何か見えますの?」
「ああ」
櫻花も小声で応えた。「四阿の上に地主神が顕現なされている」
「荒魂?」
「見たところは違いそうだ」
「となると、このお屋敷のどなたかが、あの四阿を祠と見做して今も供御を続けている――ということになります?」
「おそらくは」
櫻花は目を逸らさないまま応えた。
光を透かした琥珀の彫像のような蝦蟇は、思いがけないほど長い肢を屈伸させて碧空へと跳躍し、水面に映る眩い日輪めがけて弧を描いて跳びこんできた。
巨大な塊が水面へ飲まれても水柱は立たなかった。
もとは現世で長い年月を経た生身の蝦蟇だったのかもしれないが、今はもう肉身から離れて胎蔵界に属する神格となっているのだろう。
池が界と界とを繋ぐ御門で、屋敷地全体が斎庭だとしたら、あの地主神が霊験を顕せるのは敷地内だけだということになる。
その一点だけをとっても、原宿村で生じた上女中の死に蝦蟇の祟りは関係ないように思われる。




