第四章 猪口の若様 1
屋内は入るとすぐに狭い土間で、幅三尺半《*約105㎝》ほどの上がり框の右端によく使い込まれた風情の黒光りする化粧箱と、陽に焼けた緋縮緬の覆いをかけた鏡台と、藍色の座布団が一山、きちんと並べて片付けてある。
返事のぬしはその奥の横長の六畳間にいた。
まだ髷をそのままにした四十がらみの小柄な男である。
浅く平たい木箱の前に膝をきちんと揃えて坐って、ところどころに赤い爛れのある手で色鮮やかな造花を櫛に括りつけている。
男は忙しく動かす手を止めないまま顔だけを入口へ向け、櫻花と真葛の姿を見とめるなり軽く目を瞠った。
「ええと、明神下の御殿女中さまがたで?」
「ええ」と、真葛が如才ない笑顔を浮かべて頷く。「茅野と墨染と申します。律さまのお兄様ですか?」
「お兄様なんて立派なもんでもございませんが」と、小男はようやくに手を止め、照れくさそうに額を掻きながら立ち上がった。「お察しの通り、お律の兄の平吉と申します。むさくるしいところでございますが、どうぞお上がりなすって。猪口の若様ももうじきお見えになるでしょう。今お茶を差し上げますので」
「や、茶は結構だ」
「どうぞお気遣いなく。こちらで待たせていただきますから、お仕事を続けてくださいな」
「そうですか? それじゃ御免なすって」
平吉はさらりとした気質らしく、上がり框に座布団を二枚並べて勧めると、また奥の間に戻って手仕事を再開した。
どうやら飾り櫛を作っているようだ。
櫛は普通の柘植に見えるが、糊と針金で器用に括りつけられる造花はどれも異様なほど色鮮やかだった。
とりわけ鮮やかなのは葉や茎の緑だ。鮮やかすぎて本物の植物のように見える。
「その造花はみな舶来品ですの? ずいぶんみごとな緑色ですねえ」
着道楽の真葛が興味深そうに訊ねる。
平吉が顔をあげて得意そうに頷く。「そうでございましょう? この緑は花緑青と申しましてね、横浜の開港場でだけ手に入るんでございますよ。異人の女はこういう造り花を束にして帯に飾ったり、冠みたいに編んだのをそのまま被るようです。ここにあるのは束から外れて落ちちまったものでしてね、そういうのを買い集めて、こうして櫛や簪を拵えているのです。束ですとずいぶん値が張りますが、一輪、二輪なら安く拵えらますからね」
「それはよい商いですこと! きっと大流行りしますわ」
「そうであってほしいものです。どうです、茅野様もおひとつ髪挿してみては」
平吉がところどころに赤い爛れのある手で緑の葉を添えた淡紅色の造花を摘みあげる。
真葛がキラキラと目を輝かせて奥へと膝を進めかけたとき、不意に引き戸が外から開いて、溢れんばかりの光とともに歯切れの良い男の声が響いた。
「平吉、遅くなってすまない! 御女中がたはすでにお着きかな?」
光と共に土間へと入ってきたのは、紺色の羅紗の詰襟服に平たい紺色の帽子を被った背の高い若い男だった。
羅紗服の袖は白い筋。
帽子にも縦に白い筋。
腰には刀の代わりに棍棒をさげ、「東京府」の文字の入った赤い腕章を左腕に巻き付けている。
邏卒の制服である。
どうやらこの人物が猪口藤七郎らしい。
櫻花は意外の念に打たれた。
目も鼻も口も大ぶりでよく陽に焼けた肉厚の顔は、役者のような美い男とまで呼べるかどうかは微妙な線だが、確かによく整ってはいる。
しかし、全く文弱にも優柔不断にも見えない。
この人物が本当に御役目に困って昔馴染みの岡っ引きに泣きついたのだろうか?
見れば真葛も同じように戸惑い顔を浮かべていた。
当の猪口藤七郎――おそらく猪口藤七郎なのだろう――は、二人の戸惑いを気にも留めず、ただでさえ大きな目をまん丸く見開いて感嘆の声をあげた。
「おお御女中がた! 花やかな装いだな、旧幕時代の御殿の花見の錦絵でも見るようだ!」
「若様、いきなりそんな大声をお出しになっちゃ女の方々は肝をつぶされますよ」と、平吉が笑顔で窘め、改めて櫻花と真葛へと向き直った。
「茅野さま、墨染さま、そちらが猪口の藤七郎さまでございます。若様、こちらのお二人が件の御殿女中さまがたで」
「うむ! 見れば一目で分かるぞ!」
猪口藤七郎は元気な大声で答え、健やかそのものの真っ白い歯を見せて笑った。
「御女中がた、某が猪口藤七郎だ。もとは八丁堀の与力の家の生まれで、今は東京府の邏卒を務めている」
「そのように伺った。薩長土肥が栄達を恣にする今の世で旧幕臣からのご士官とは実にご立派だ」
櫻花が率直に褒めると、藤七郎は一瞬驚いたように目を見開き、はにかんだ少年みたいな笑みを浮かべた。「かたじけない。あなたが墨染どのか?」
「ああ。墨染櫻花だ」
「すると、そちらが茅野どの?」
「ええ。茅野真葛と申します」
「ささ、皆さまおあがりなさって。むさくるしいところでございますが、いまお茶を運びますから」
平吉はなんとしても茶を運びたいようだった。
「お小夜はどうしたのだ?」と、藤七郎が身内みたいな気安さで訊ねる。
小男はしょんぼりと肩を落として応えた。「今日は一六のどんたくですからね。子供ら連れて浅草に遊びにいっちまいましたよ」
どんたくとは休日の意味である。
オランダ語の日曜日がもとになっているらしい。
ちなみに今日の本当の曜日は土曜日である。
開化間もない明治初頭はあらゆる概念が錯綜しきっている。




