第三章 松の蛆虫 2
「―-それじゃあ、一服したところで、改めてお話を致しますが」
可愛いお駒に威張って茶ぁ出せと命じたためか、短い間に急速に落ち着きを取り戻した寅吉が煙管をポンと叩いて切り出す。
「お訊ねの松崎甚五ですが、元々がれっきとした御旗本の次男坊だってぇ話はご存じですか?」
「ええ。刀剣を扱う腰本同心の家の生まれだと聞きました」
「それが慶応のころ別手組として英国領事館の警護にあたり、その頃の縁故をもとにして旧幕時代に密かに上海に渡って、そこで富裕な英国人たちと知り合って古物商を始めたと聞く」
真葛と櫻花が代わる代わる、昨日律から聞かされたことを話すと、寅吉は鼻白んだ。
「なんでえ、そこまでご存じですかい! そんなら手前には一体何をお訊きにいらしたんで?」
「だから、その松崎甚五の同業者のあいだでの評判だ」
櫻花もわずかに苛立ちながら繰り返す。「先ほどの話では、あまりいい評判はとっていないようだが、よほど阿漕な商売をしているのか?」
「なにせ商売の畑が違いますから、阿漕かどうかは知りませんがね」と、寅吉が眉間にしわを刻む。「士族の御仲間内から嫌われるのは仕方がねえとは思いますよ」
「なにゆえに?」
「異人どもにペコペコしすぎるんですよ! 俺ぁ横浜開港地で何度か見かけただけですが、ざんきり頭をペコペコさげて、似合わねえ異人の古着をきて、まるで自分は異人でございって面で肩で風切って歩いて、本物の異人の前だとペコペコして。そいで、ご府中じゅうの質屋から御大名家のご家宝を買い漁っちゃぁ異国に売り払うときちゃぁね!」
寅吉は心底忌々しそうにいい、煙管を外して鋭く煙を吐いた。
櫻花にしか見えない座敷童が赤い袖をヒラヒラさせながら天井へ逃げてゆく。
「《松の蛆虫》に何があったんですかい?」と、寅吉が探るように訊ねてくる。「あっちの新宅にも物の怪話が?」
「うむ」
櫻花は頷いた。「蝦蟇の祟りに悩まされているらしい」
「へえ蝦蟇ねえ。文明開化の時代だってのに、あっちでもこっちでも物の怪話ばかしですねえ! そいじゃ、ご上臈さんがたはこれから麻布まで?」
「いや、その前に紺屋町へ向かう。そこで人と落ち合う用があってな」
「わたくしども、今回の件は東京府から助太刀を頼まれているのですよ」と、真葛が笑顔で言い添える。
途端、お上の権威に敏感な成金男は目の色を変えた。
「ほほう東京府から! さすがぁ静寛院宮様にお仕えなすった奥女中さまだ。新時代になったとはいえ、今もさぞいろんな伝手があるんでしょうなあ。あ、紺屋町ならお待ちなさい。すぐ人力車を呼んであげるから」
人力車は明治三年に現れた最新流行の風俗だ。
寅吉は人力車を待つ間にどら焼きとかりんとうを山盛り振る舞い、表門まで見送りに出たてきた挙句に、
「ご上臈様がた、由利さまによろしゅう」と、これ以上ないほど平たくなりながら、だれとも知れない誰かへの挨拶を言付けてきた。
「真葛どの――」
人力車が裏猿楽町を抜けたあたりで櫻花は一応苦言を呈した。
「我々は猪口どのから内々に相談を受けるだけだ。東京府からの依頼というのはさすがに言い過ぎでは?」
「嘘ではないでしょう? 邏卒隊は東京府の配下なんですから」
「人数は三〇〇〇人いるそうだが。ところでユリさまとはどなただろう」
「今の東京府知事じゃありません? 確か由利公正といったはず」
真葛はさらっと答えた。
駿河台から神田紺屋町まではせいぜい五町《約550m》ばかりだ。
人力車はたちまち坂を下って目的地へとついた。
町のちょうど入り口の角に位置する髪結床は、見たところ昔ながらの拵えのままのようだった。
引き戸の上半分が明かり障子になっていて、「さよ床」と大きく墨書きしてある。
「こちらでよろしいので?」
「ああ」
「ご苦労さま」
「お帰りは?」
「結構」
「用があればまた呼びますよ」
下手をするとそのまま忠犬みたいに軒先で待っていそうな車夫に四文銭を与えて丁重に追っ払ったあとで「さよ」の側の障子をあける。
「亭主はいるか?」
櫻花がよく徹る声で呼ばわる。
するとすぐ物柔らかな男の声が答えた。
「ハイおりますよ! しかし、御免なすって、髪結のほうは今日はお休みでしてねえ」




