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墨染櫻花の怪異事件簿 ――開化東京妖怪譚  作者: 真魚
第二話 新宿狐火騒動
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三 荒れ寺の怪 ③

 あぐりは先月七日の昼前、内藤新宿上町の扇屋という飯盛り旅籠へ赴いて、旅籠の女将の(のぶ)相手に、前夜荒れ寺で遭遇した胡乱な燈火のことをまくしたてたのだという。


「さっきも言った通り、わっちはこの見目にそぐわずてんで意気地がなくてねえ。怖気づくとすぐ誰かに話したくなっちまうんですよ。そしたらお延さんは意地が悪くてねえ、そいつは大ごとだ、水辺には気をつけろと、怖い顔をしてそう言うんですよ!」

 あぐりがすらりとした腕で自分の胸を抱きしめるようにして身を震わせて見せる。


 櫻花は眉をあげた

「水辺に気をつけろとはどういうことだ?」


「いえね、お延さんの言うには、旧幕時代におんなじように重宝院で狐火を見た芸者があって、その(おんな)は狐火を見た次の日に水に落ちて死んじまったんですと! だからわっちも気を付けてしばらく水には寄るなと、こういうんですよ。わっちはそれから井戸の傍に寄るのも怖くてねえ――墨染さんだっけ? あんたぁ巫女(いちこ)なんだろ? どうだい、(うち)には狐が憑いているかい? 何か祟っているかねえ?」

 あぐりが心底不安そうに言う。


 櫻花は声を立てて笑った。

「案じなさるな。この家には何も憑いていない。不吉なものも何も見えない。もしどうしても不安なら王子稲荷を詣でるといい。王子の神狐(しんこ)さまは開化の世にも御健在だ。東京府内での野狐の跋扈をお許しになるはずがない」

 櫻花が心からの確信を籠めて断言すると、あぐりは目に見えてほっとした表情を浮かべた。



 

「それじゃ墨染さん、気をつけなすってね。柏木さまによろしく」

「承った」


 添地を抜けて追分から内藤新宿の上町へ戻ると、茫々と荒れた森さながらの重宝院へつづく門の前に真葛の姿があった。

 その姿を見た瞬間、櫻花は自分でも思いがけないほどの安堵を感じた。


「真葛どの」

 声をかけると真葛が顔をあげ、いつものように小首を傾げて笑った。

「あら櫻花どの、意外とお早いですわね。どうでした、そちらの首尾は?」

「まずまずだ。時間もないし、境内を検分しながら話すのはどうだろうか?」

「いいですわね。――どうです、外から何か見えます?」

「や、特に何も」


 話しながら門を抜け、疎らに夏草の生える参道へと足を進める。

 左右に奔放に木々の茂る参道は深い緑陰に包まれていた。

 わんわんと響く蝉の声に目眩がするようだ。


「わたくしのほうの聞き取りの首尾もまずまずでしたわ。門番の為助さんが言うには、重宝院に狐火が出たという噂は、あぐりさんからではなく、上町の扇屋という飯盛り旅籠の下女をしている姪御さんから聞いたのだそうです。あぐりさんは二、三年前までその扇屋で働いていたのだとか。その点はお聞きになりました?」

「ああ」

 櫻花は頷いた。「あぐりどのは先月七日、この荒れ寺で妙な燈火を見た翌日に、昔馴染みの扇屋の女将にそのことを話に言ったのだそうだ。すると狐火だと言われたらしい。ときに真葛どの」

「何でしょう?」

「旧幕時代にこの辺りで狐火を見た芸者が翌日水に落ちて死んだという事件をご存じか?」

「旧幕時代といっても長うございますからねえ。私の知る限り、聞いたことはありませんけれど。そんな事件があったのですか?」

「あった――と、扇屋の女将があぐりどのに話したらしい。あぐりどのは気の毒にすっかり怯えてしまっていた」

「狐が人を水に引き込むなんて、そんな悪戯は聞いたことがありませんわよ、河童じゃあるまいし」

 管狐使いの真葛が身内を謗られたかのように憤る。

 ちょうどそのあたりで参道が終わって広々とした境内へと出た。


 奔放に夏草の茂る方形の境内の正面に入母屋屋根の本堂が建っている。

 右手の奥に庫裏らしき白壁の建物が見える。


 左側には朱の剥げかけた鳥居があった。

 蕺の蔓の絡みつく苔むした一対の台座の上に狐の像がある。


「あらまあ、本当に稲荷のお社だわ」と、真葛が嬉しそうに言う。「お使い様はきっとお眠りでしょうけれど、ご挨拶しておかないと」

 まるで親しい縁戚の家でも見つけたかのようにいそいそと鳥居へ向かう。


 真葛が鳥居をくぐった瞬間、彼女が腕に抱いている風呂敷包が鳴動したかと思うと、風船みたいに膨らんで内側から結び目がほどけ、紫色の組紐をかけた竹筒が飛び出すようにあられた。


「きゃあ!」


「真葛どの!」

 櫻花は慌てて駆け寄った。


 殆ど同時に、虚空に浮いた竹筒の栓が内側からポンっと弾け、濃密な白い雲のような塊が噴き出してきた。


「は、疾風!?」

 櫻花は思わず叫んだ。


 雲みたいな塊はほんの数秒でさらに密度と質感を増し、たちまちのうちに大きな犬ほどもある真っ白い獣の姿に凝って地面へと着地した。


 間髪入れずに落ちてくる竹筒を真葛が慌てて受け止める。


 櫻花は自分の目が信じられなかった。


 目の前に出現しているのは雪のように白い毛並みと赤い目を備えた大きな狐だった。

 真葛が使役する管狐の疾風だ。


 それが自分から出現したのだ。

 使役者の真葛が呼んでいないのに!


「真葛どの――」

 櫻花は震える声で訊ねた。

「何が起こっているのだ?」


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