三 荒れ寺の怪 二
あぐりの話の大筋は事前に柏木から聞いていたのと変わりなかった。
狐火に遭遇したのは先月六日の亥の刻《*夜10時前後》、かつての四谷下屋敷の大木戸門の番小屋で催された酒宴の帰りで、場所は内藤新宿上町の重宝院の境内だという。
街道から外れた荒れ寺の境内をわざわざよぎった理由は、単純に「そのほうが近いから」だそうだ。
「あの広い荒れ寺の境内を夜中にお独りでよぎるとは、あぐりどのは実に豪胆だな」
櫻花が思ったままのことを口にすると、あぐりは浅黒くキリリとした顔には不似合いな、はにかんだ少女みたいな表情を浮かべて照れた。
「いやあね、わっちはこういう伝法な見た目をしているからそりゃ気が強く見えますけど、実はからっきし意気地がなくてねえ、ちっと怖い話をされるとすぐに怖気づいちまうんですよ。初心な小娘ならひいひいたもれのあどけなさもいいけど、こんな年増が幽霊話にきゃあきゃあ言ったところで誰も喜びゃしない。だからこう、ひとつ勇ましいところを見せてやろうと、だれが見ているわけでもないのに勇んじまってねえ――」
と、すらっとした首をうなだれて情けなさそうにため息をつく。
「そしたらこの有様です。情けないったらありゃしない」
「や、荒れ寺に胡乱な火を見れば誰しも怯えるのは当然だ。しかし、ひとつ気になるのだが」
「なんでござんしょ?」
「あぐりどのは、荒れ寺で目にした燈火をなぜ狐火だと即断したのか?」
いわば狐の専門家たる真葛がずっと気にしていた点を問うと、あぐりはきょとんと眼を見開き、顎に手を当てて真剣に考えこんだ。
「なぜと言われましてもねえ――」
「それはどのような燈だったのだ? どのあたりにどのように出たのだ?」
「出たのは本堂の裏のほうです。赤い火がポッポっと一列になって、三つばかりも見えましたかねえ? それが本堂の裏手を下っていったかと思うと一つずつ消えていったんですよ! あっちは行き止まりで道もないんです。わっちはすっかり怖くなっちまって一目散に家へと逃げ帰りましてね、一晩ブルブル震えてから、次の日すぐに上町の扇屋に駆けこんだんです」
「扇屋とは?」
「わっちが二、三年前まで世話になっていた飯盛り旅籠ですよ。わっちはもともと品川の産でしてね、慶応の頃に旦那に落籍かれてこっちに妾宅を持たしてもらったんですけど、御一新のごたごたで旦那が死んじまいましてね。昔取った杵柄で扇屋の世話になることにしたんです」
あぐりはそこで言葉を切り、懐かしそうに眼を細めて続けた。
「旦那は八王子の千人同心でね、最後は日光で死んだんですよ。先祖代々守ってきた御廟を枕に討ち死にしたんですから、あの人も本望だったでしょうよ」
「そうか」
櫻花は反射的に相槌を打ったが、なぜか声が掠れてしまった。
日光で死んだ――という言葉を聞いた瞬間、頭の芯につきりと鋭い痛みが走ったのだ。
痛みに顔をしかめていると、あぐりがわずかに首をかしげて見あげてきた。
「――もしかして、あんたもですかい?」
「え?」
「あんたぁきっと元は良い家のお姫さんでしょう? それがそんな巫女商売に精を出しているとなると、戊辰の戦で親兄弟でも亡くしたんだろうとは思っていたけど、今の顔がさ。死んだのは旦那かい? 許婚かい?」
「や、私は特に誰も――」
そこまで口にしたところで、櫻花はハッとした。
――私は本当に誰も亡くしていないのだろうか?
慶応四年の初夏に生じた日光での戦いは、櫻花にとっても忘れがたい出来事である。
徳川家代々の墓所であり、坂東指折りの霊場でもあるあの霊山の荒ぶる神を呼び出そうとする歴々と陰ながら戦って辛うじて勝利したのだ。
――私はあのとき日光にいた。真葛どのも傍にいた。同輩たちも共にいた。私たちは密かに戦っていた。そして勝ったのだ。誰一人欠けることなく――……
「――ええと、墨染さん?」
あぐりが心配そうに呼ぶ。
「どうしたんだい、急に黙り込んじまって。――何かよっぽどよくないことでも訊いちまったかね?」
心底すまなそうに訊ねてくる。
櫻花は我に返って笑った。
「や、お気になさるな。幸い私は誰も亡くしてはいない。こちらこそ御辛いことを思い出させて悪かった。続きを聞かせていただけるか?」
「あ、ああ。ええと、どこまで話したんだっけ?」
「あぐりどのが荒れ寺で火の列を見た翌日、上町の扇屋に駆けこんだというところまでだ」
「ああそうだった、そうでした。さっきも話した通り、扇屋はわっちが前に世話になっていた飯盛り旅籠でね――」
かなりの話好きらしいあぐりは、説明を再開すると夢中になって言葉を続けた。
逐一頷きながらその話を聞く内に、櫻花は今しがたの奇妙な頭痛を夢のように忘れていった。




