二 水番所の邏卒たち ③
「そのことでお聞きしたいのですけれど」
と、今度は真葛が口を挟む。
「な、なんでございましょうか?」
柏木が耳まで赤くなりながらもなんとか真葛を直視する。
「あぐりさんという方は、荒れ寺でみた燈をどうしてすぐ狐火と思ったのでしょう? 御一新以来の廃仏毀釈でお寺はどこも荒れ放題でございましょう? 荒れた無住のお寺に火の気が見えたら、まずは誰か人が住み着いているのではないかと考えません?」
真葛が小首を傾げて訊ねると、柏木は目を泳がせた。
しばらく無言で考えこんでから、肩を落として情けなさそうに答える。
「も、申し訳ありません。それがしそこまで考え及ばす、あぐりが狐火を見たというのをそのまま受け取っていました」
「では、あぐりどのは狐火を見たことをあなたに報せたのか?」
「いえ、あぐりから知らされたのではなく、それがしの耳には噂で届きました。門番の為助という年寄が、内藤新宿でこのごろ噂になっていると伝えてきたのです。荒れ寺の狐火は不吉だという評判になって、この内藤様のお屋敷を畑に造り直すから罰が当たったのではないかと噂になりかけていると」
「なんだか飛躍した噂ですわね!」と、真葛が首を傾げる。
「うむ」
櫻花も同感だった。
荒れ寺の狐火からいきなり内藤様のお屋敷へと繋がる理由がよく分からない。
何となく、誰かがどこかで作為的に手を加えていそうな噂だ。
「それで、その噂の結果、測量のための人足が集まらなくなったのか?」
「そ、その通りです」
柏木が項垂れる。
「みな身体の具合が優れないの、遠方で親戚が死んだだのと言って、出てくるのを渋るようになったのです。某はそこであぐりに確かめてから、自分の目でその狐火とやらを確かめてみようと、三日ほど、重宝院の本堂に泊まりこんで張り番をすることにしたのです。――もしかしたら、このお屋敷の測量に反対している昔日の内藤さまの仕え人か何かの悪戯かと思いましたゆえ」
柏木はそこで言葉を切り、何とも不安そうな様子で口元を掌で抑えた。
「――どうなされた?」
櫻花は心配になった。
色白の顔から血の気が引いている。
「どこかお具合でも?」
真葛も気づかわしそうに訊ねる。
柏木は口を手で覆ったまま癇性に首を横に振った。
「いいえ、いいえ。大丈夫です。こ、これから話すことをお聞きになると、それがしの正気を御疑いになるやもしれませんが――」
と、ようやくに口から手を放し、畳に両手を突いて吐き出すような早口で続ける。
「それがしも見たのです。狐火を。まぎれもない狐火を!」
「――あなた様は、なぜ紛れもなく狐火だとご確信を?」
真葛が慎重に訊ねる。
柏木は怯えたように左右に目を走らせ、見えない何かを警戒でもするかのようにしばらく虚空を睨んでから、諦めたように話をつづけた。
「いきなり現れていきなり消えたためです。――某は先月十一日の宵五つ《*午後8時》ごろから毎日、重宝院の本堂で張り番をしておりました
「測量のお勤めを終えたあと連日一夜中? あまりご無理をなさるな」
櫻花が思わず案じると、柏木は照れくさそうに散切り頭を掻いた。
「い、いえ、一夜中というほどでは。あぐりが狐火を見たというのは亥の刻《*午後10時》の前後という話でしたから、そこまで見張りを務めたあとにはこの番小屋に戻っておりました。十一日、十二日はことなく過ぎたのですが、三晩めの十三日の夜に、今宵もやはり何もないかと本堂を出たところで、境内にある古い稲荷の社の鳥居のあいだに、ふっと大きな赤い火が浮かんだかと思うと、まるで何かを捜すかのようにふらふらと動き回り始めたのです。某は曲者の提灯かと思い、駆け寄りながら『何やつだ』と誰何致しました。するとその瞬間、虚空に浮かぶ大きな火がぱっと消えてしまったのです」
「……境内に稲荷があるのですね?」
真葛が考えこみながら訊ねる。
「え、ええ。寺が無住になって以来、稲荷の社も荒れてしまい、今では碌に詣でる者もないようですが」
「その稲荷の社のなかに人の気配は?」
「人の入れるような大きさの社ではございません。ほんの小さな祠のようなものです」
柏木はそこまで説明して、またがくりと項垂れた。
「――正直、某は己の正気が疑わしいのです。某はこの通り、猪口のような豪傑とは違って肝の細い男ゆえ、迷妄に惑って気を病んだ末にありもしない幻を見たのではないかと」
「何を仰せになるのか」
櫻花は失笑した。「肝の細い御仁は狐火の出る荒れ寺で独り張り番をなさるような無茶をするものか!」
「全くですわ! 軽挙妄動、猪突猛進。あなた様に何か欠点があるとすれば無用に勇気がありすぎるところです」
真葛も断言する。
柏木は呆気にとられたように目を見開いていたが、二人が完全に真剣な顔をしているのを見てとると、顔をくしゃりと歪めて照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。では、お二人は、某が正気を失ったわけではないとお考えなのですね?」
「無論」
「当然ですわ」
櫻花と真葛が相次いで断言すると、柏木はぐすっと鼻を鳴らし、丸眼鏡をはずして手の甲で目元を擦った。
「失敬、埃が入ったようで」
「ときに柏木どの」
相手が茶を飲んで落ち着くのを待って櫻花は切り出した。
「な、なんでございましょう?」
「その狐火の出た荒れ寺と、添地のあぐりどのの家と、為助なる門番の家の分かる地図を書いてくださるか?」
「地図など! もしご足労いただくなら某がご案内いたします」
「かたじけないが遠慮する」
「聞き込みは一人ひとり別々にというのが捜査の基本なんですのよ」
真葛が澄まして応える。
柏木はしばらく不服そうに黙り込んでいたが、じきに諦めたように頷いた。
「そ、それでは少々お待ちを。今すぐ絵図を描きますゆえ」
測量の専門家の描く絵図は簡略ながらも分かりやすかった。
「で、ではお二方ともお気をつけて。ご足労いただいて本当にありがたい」
「や、お気になさるな」
「こちらもこちらの事情がありますからね」
柏木は玉川上水に架かる橋の手前まで二人を見送りに出てきた。
目の前に燦めくまっすぐな上水の水面を目にしたとき、櫻花はふと、来るときに目にしたあの意外な光景を思い出した。
「ときに柏木どの」
「な、なんでありましょうか?」
「そこの水番所の前に邏卒が並んでいたようだが、この頃何か警戒するような事件があったのか?」
訊ねるなり柏木は表情を曇らせた。
「……何かありましたの?」
真葛が心配そうに訊ねる。
「い、いえ。事件はないのですが。――彼奴等は御上水に舟を出す輩がいないか取り締まっているのです」
「あら、でも玉川上水に舟を出すことは明治に入ってすぐに新政府が認可したのでは?」
「そうです。江戸の事情を何もしらない輩が乞われるまま訳も分からず認めてしまったのですが、櫂が御上水を掻きまわしますと水が濁るという当たり前のことにようやく気付いたようで、先月からまた禁じるようになったのです」
柏木はそこで言葉を切り、
「朝令暮改とはこのことです! 全く」
と、心底忌々しそうに吐き捨てた。




