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墨染櫻花の怪異事件簿 ――開化東京妖怪譚  作者: 真魚
第二話 新宿狐火騒動
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二 水番所の邏卒たち ②

 通り過ぎざまちらりと横目で確かめたかぎり、水番所前の邏卒ふたりはそう真剣に警備をしているようには見えなかった。

 番所の前を過ぎ、町屋のあいだをしばらく行くと丁字路にさしかかる。


 左手の小路へと折れると突き当りは石段だった。


 登り切ると眼前に堂々たる旧大名屋敷の表門が現れる。


 矢間の並ぶ黒壁に瓦屋根を備えた壁の前を濠のようによぎる水面は玉川上水だ。

 門の前からこちらへと橋が架かっている。

 いかにも官休日らしく閉ざされた門扉の左右に白壁の番小屋が備わっている。


 橋を渡り、門前まで足を進めると、壁の向こうに突き出す火の見櫓の影が足元まで伸びていた。

 本当に大きな屋敷だ。


「在りし日の四谷下屋敷か!」

 櫻花が哀惜を籠めて呟いたとき、右手の番小屋の扉が内側から開いて、黒紋付に黒い袴で襟を正した散切り頭の背の高い男が現れた。


 背こそ高いがひょろりと痩せた頼りなげな体格の男である。

 幅の狭い色白の顔に丸眼鏡をかけている。


 門前の声を聞きつけて顔を出したらしい男は、休日の芸者の散歩姿みたいな元・奥女中二人を見とめるなり、カッと耳朶まで赤く染めてどもりながら訊ねてきた。


「あ、あ、あ、あぐりの朋輩かね? 済まないんだが、今日は大事なお客人があるのだ。何か用があるなら――」


「ご案じなさらず、柏木さま――ですわよね?」

 と、真葛が小首をかしげる。


 男は首まで真っ赤になりながら頷いた。

「あ、ああ。それがし柏木(かしわぎ)(まもる)と申す」


 櫻花は意外に思った。

 あの藤七郎の友人で、雇人のために自腹で宴を催す若い官人となると、もっと豪胆で磊落な人柄を想像していたのだが――これはまた随分と内気なはにかみ屋のようだ。

 おそらくは同じような意外さを感じたのだろう真葛がコロコロと声を立てて好意的に笑う。


「それじゃ、きっとわたくしたちがその大事な客人ですわ」


「え、えええ?」

 丸眼鏡の男――柏木護が頓狂な声をあげる。「で、では、あなたがたが猪口の言っていた狐火に詳しい元の奥女中がたで?」


「まさしく」

 櫻花は淡々と頷いた。


「御殿女中式の拵えだと、このあたりでは悪目立ちしましょう? 改めて、はじめまして柏木さま。わたくしは茅野真葛と申します。こちらが墨染櫻花。旧幕時代には静寛院宮さまの小姓として仕え、あとには宇治の間に詰めていたものです」

「そ、そ、そ、そのように伺っております」

 柏木護は背中に尺でも入れたように鯱張って答え、

「ど、ど、どうぞお上がりくだされ」

 と、ぎくしゃくした物腰で元・奥女中二人を番小屋へ招き入れた。


 柏木は明らかに真葛から不自然に目を逸らしていた。

 花やかすぎて直視できないらしい。




 勇壮かつ壮大すぎる表門の隣にあると犬小屋みたいに手狭に見えた番小屋だが、入ってみると、櫻花と真葛のささやかな借家の一階分くらいの広さは優にあった。番小屋を犬小屋みたいだと思ってしまった自分が櫻花は哀しくなった。


「ど、どうぞお座りくだされ。いま粗茶をさしあげますゆえ」

 柏木は二人に上等の紫の絹の座布団を進め、土間の七輪にかけてある鉄瓶の湯を急須に注いでてきぱきと茶を淹れてくれた。

「まずはご一服」

 茶に添えて上等そうな練り羊羹まで出てくる。

 皿も上等の漆器だ。

 今日の元・奥女中二人の来訪のために柏木は相当気合を入れた支度を調えていたようだ。


「御多忙のおりに色々とかたじけない」

「と、とんでもないことでございます!」

「それでは早速、柏木さまのご存じの範囲で、今回の狐火騒ぎについて話していただけます?」

 真葛が羊羹の椿皿を受け取りながら促す。

 柏木はなんとなく眩しいものでも見るように目を細めてから、自らの喉を茶で潤し、おもむろに口を切った。


「あ、あれは先月六日の官休日のことでございました。猪口から聞いていらっしゃいましょうが、某は今大蔵省から扶持を得て、この内藤様の昔のお屋敷に農業試験場を設けるための測量に携わっております。そのために、旧幕時代に水番を出していた家々の者たちを臨時の使部として雇うことになったゆえ、測量はじめの前日の官休日に、この番小屋で酒宴を開いたのでございます」


「失礼ながら柏木どの」

 櫻花は思わず口を挟んだ。

「な、なんでありましょうか、ええと――」


「墨染だ。墨染櫻花。その酒宴というのは柏木どのの御一存で? それともどなたかにそのようにせよと勧められたのか?」

 対面してからずっと気になっていた点を訊ねるなり、柏木は目を瞬かせた。

「よ、よくお分かりですね!」


「ではどなたかに勧められましたの?」

「は、は、はい」と、真葛から目を逸らしながら頷く。「これも猪口から聞いておりましょうが、某の家は代々水方で、御上水の見回りに携わってきました。その元の水方であった某の父が、村々から普請役の人を出させるなら振る舞い酒のひとつもせんと家の名折れになると旧弊なことを申しまして、必ず酒宴に使うようにと祝い金を寄越したものですから、某としても致し方なく」

 と、身内の恥でも打ち明けるようにしおしおと項垂れる。


 櫻花は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。

「御子息が普請の官職を得たこと、お父上はさぞお喜びなのであろうな」

「え、ええ。老いぼれが恥ずかしいほど舞い上がってしまいまして」

 柏木は誇らしさと照れくささの入り混じった様子で親しげに身内を腐し、そのあとですぐ表情を曇らせた。

「その酒宴に、内藤新宿の添地に家を構えている自持(じまえ)の芸者のあぐりという(おんな)を呼んだのでございます。そのあぐりが、酒宴からの帰り、上町の重宝院という荒れ寺の敷地で狐火を見たのでございます」



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