二 水番所の邏卒たち 一
四日後の水無月一日《*グレゴリオ暦7月6日》の朝五つ頃《*午前9時》である。
櫻花と真葛は連れ立って明神下の借家を出て、神田川沿いの土手を西へ歩いて内藤新宿へと向かうことにした。
櫻花の今日の服装は藍と灰色の太い縦縞の麻の単衣に黒い半幅帯で、いつもの総髪をわざわざ丸髷に結い直している。
真葛はいつもの鴇色の格子の余所行きだが、檜皮色の無地の半幅帯を合わせて、髪飾りは珊瑚の簪だけと、普段の花やかな上方風の装いとは違ったあっさりと粋な風情だ。
そんな身なりで薄化粧を施した二人連れは、それぞれ系統は異なるながら垢ぬけた美貌と相成って、知らない者の目からすれば、明神下にはよくいる自持の芸者が休みに散歩しているように見える。
二人が今日こんな装いを選んだのは、藤七郎から聞かされた狐火騒動とやらの最初の目撃者が内藤新宿の添地に家を構える自持の芸者だったためだ。
「お名前はあぐりさん――でしたわよね?」
背の後ろから射す朝日に燦めく神田川沿いの土手をすたすたと西へ歩きながら真葛が小首を傾げて確認する。
「ああ」
櫻花は頷いた。
「猪口どのの旧友の大蔵省の省掌どのが、農業試験場のための測量を始める前日の夜に、臨時雇いの使部たちを集めて、昔日の四谷下屋敷の大木戸門の門屋敷で自腹の酒宴を開いたのだそうだ」
「気前がよろしいこと! いかにも猪口どのの御友人ですわね。酒宴は何月何日でしたっけ?」
「先月六日の官休日だ。昼頃始まって宵五つ半《*午後9時》ごろまで続いたらしい」
「あぐりさんは酒宴が果てたあと独りで添地へ帰ろうとして、途中通った荒れ寺で狐火を見たのですよね?」
「ああ」
「わたくしね、そこがちょっと疑問なんですのよ」
「何がだ?」
「つまりね、無住の荒れ寺におかしな燈が見えたら、普通はまず破落戸や無宿者でも住み着いていると思いません? あぐりさんはどうしてまずすぐ狐火と思ったのかしら?」
「そのあたりは当人によく聞くしかなかろう」
話しながら歩くうちにいつのまにか飯田橋に差し掛かっていた。
右手に燦めく水の流れが橋のすぐ先で二手に分かれている。
右の斜めに流れてゆくのが、ここからは江戸川と名を変える神田川の本流だ。
左手からぐっと横手に伸びてゆくよく凪いだ幅広い碧緑の流れは、昔日の江戸城を二重に巡る水の護りの外側たる外濠の水面である。
江都の雅称の通り、江戸は江の都だった。
東京府と名を変えて五年になる今でもその事実は変わらない。
願わくばこのまま変わらずにいて欲しいものだ――と、櫻花は何かに祈るように思った。
傍らで真葛が眩しそうに水面の燦めきに目を細めている。
飯田橋を過ぎた二人は、水の分岐点を左へ向かって外濠沿いを南西へと歩いた。
今は門を配されて枡形の石垣と橋だけが残る牛込御門と市谷御門を過ぎ、四谷御門の橋で外濠を渡って麹町へと出る。
町屋のあいだをまっすぐに伸びる幅広い道は甲州街道だ。
この道を西へと十町《*約1㎞》も進めば、江都の西の玄関口たる四谷の大木戸へと出る。
慣わしで大木戸と呼ばれてはいるものの、この場所による閉じる本物の木戸があったのは寛政の昔のこと。
今あるのは道の左右のどっしりとした石垣と、そのあいだを抜けた先の路面にきれいに敷き詰められた滑らかな石畳だけだ。
一対の石垣のあいだを抜けてその石畳の路上へ出たところで、櫻花は左手に意外なものを認めた。
道沿いに伸びる長く低い石垣の切れ目に設けられた柵状の門の前に、紺の詰襟服と平たい紺の帽子を被って腰に棍棒を吊るした男が二人並んでいる。
邏卒である。
どちらも黒光りするほど日に焼けたがっしりとした若者だ。
鼻梁が太く眼窩の深い顔立ちがどことなく似通ってみえる。
「薩摩の芋侍あがりですわね!」と、真葛が小声で吐き捨てる。「水番所の前で何をしているのかしら?」
邏卒二人が並んで警備しているのは水番所の表門だった。
羽村から取水してここ四谷大木戸まで流れてくる玉川上水が地中の暗渠へと入る手前に設けられた水質管理のための番所だ。
「……まさか狐火騒動のための警邏じゃありませんわよね?」
「や、まさか」
櫻花は苦笑した。「もしそうなら猪口どのがそう話してくれているはずだ」




