第二章 明神下の御局さんがた 1
神田駿河台は旧幕時代には旗本屋敷が並んでいた高台だが、御一新の混乱を経て、しばらくは崖の上に茫々と藪ばかり繁る荒れ地になり果てていた。
その土地を新政府が二束三文で売りに出したために、成り上がり者の政商やら横浜の妓楼から一旗揚げた胡乱な輸入商やらの新宅が築かれつつある。
田宮寅吉の別邸もそうした邸のひとつだ。
明治五年弥生の今日この頃、お江戸あらため東京府は何処もかしこも普請中である。
左右に列なる塀の向こうからから槌音の響いてくる小袋町の通りを抜け、今は売り屋になってしまった昔の定火消し屋敷の前を通って幽霊坂を下り、このごろ相生橋と名を変えたかつての昌平橋を渡る。
櫻花は三年前からこのすぐ対岸の神田明神下の借家に住んでいる。
今日は弥生の十五日、未だ切り替えられていないグレゴリウス暦なら四月の二十二日だ。
春の彼岸からじき一月が過ぎるころで、だいぶ陽が長くなっている。
借家には日暮れの前に着けた。
路地を入って二軒目の間口二間半の二階屋である。
格子戸の玄関の前に櫻花が趣味で育てている万年青の鉢が三つ並んでいる。
よく磨かれた格子戸をあけると三尺の靴脱ぎ土間があり、上がり框と六畳の茶の間がつづいている。左の隅に古びているが上等の互い棚があって茶道具が並び、白磁の一輪挿しに雪柳が活けてある。
つつましいながらも趣味の良い、茶室めいた風情の住まいだ。
右手の障子の向こうから包丁の音がした。
黒光りするほど磨きこまれた上がり框に濡れ雑巾が用意されている。
同居人の茅野真葛がすでに活花の出稽古から戻っているらしい。
櫻花はほのぼのとした喜びを感じた。
家に帰って待つ人がいるというのは良いものだ。
「真葛どの、いろいろかたじけない!」
框に腰掛けて草鞋を脱ぎ、足の汚れをひんやりと心地よい雑巾で拭いながら呼ばわる。
すると包丁の音に重なって鈴を転がすような声が返ってきた。
「お気になさらず。今日は稽古が早く終わりましたからね。そちらの首尾はいかがでした?」
「大事なかった」
答えながら茶の間をよぎって奥の襖をあけ、寝場所にしている四畳半に入る。
猫の額みたいな坪庭に面する右側が明かり障子で、左側の置床に「明鏡止水」の軸が掛けてある。
毎朝よく拭き掃除をしている畳の目が素足に心地よい。
櫻花は巣穴に帰ってきた動物みたいな安堵と満足のため息をつくと、葛籠を下ろして押し入れに仕舞い、薙刀を置床に丁寧に立ててから、芝居がかった巫女装束をようやくに脱いで、春の普段着にしている何度も水を潜った青鈍色の信州紬の袷に着替えた。
身支度を済ませて茶の間に戻ると台所へ続く障子が開いていた。
包丁の音が止んでいる。
まつほどもなく箱膳を手にした真葛が入ってきた。
梅重色の会津木綿に白い前掛けを重ねた真葛の姿は、同年代の元同僚ながら、櫻花とは全く印象が違う。
なで肩で骨の細い体格と頬の柔らかな瓜実顔。
黒目がちの円らな目と小さな珊瑚色の唇を備えた、上方の雛人形みたいにはんなりと可憐な美女だ。
その可憐な美女は、櫻花の姿を見とめるなり、世にも愛らしい笑みを浮かべてつぶし島田の頭を軽く傾げた。
「結局何でしたの?」
「座敷童だ。床柱に憑いていた。御嶽の札を嫌がっていたから剥がさせた」
櫻花はきわめて簡潔に答えながら台所へ向かい、すでに整えてあった自分の分の箱膳を運んできた。
この家にあるすべての道具類と同じく、箱膳も椀も箸もみな上等だが古びている。
塗りの剥げかけた汁椀にとても実の少ない薄い味噌汁が半分ほど入っている。お菜は胡瓜の糠漬けと刻み生姜だけだ。
相変わらず魚の類はない。
ふんだんなのは米の飯だけだ。
櫻花は一瞬哀しくなったが、すぐに諦めて箸を手に取った。
幕府が瓦解したあとの御殿女中というのは男でいうなら無役のごくつぶしの身だ。
日々のお米に不自由しないだけでも感謝しなければならない。
「頂戴いたす」
「……その前に!」と、真葛が低く唸るような声で制止した。「とても大事な確認を忘れておりました」
「?」と、櫻花も小首を傾げた。「何だろう?」
「手間賃ですよ、当然。きちんといただきました?」
真葛がにっこりと笑みながら訊ねる。
口元は微笑んでいるものの、目は全く笑っていない。
櫻花は視線を逸らした。
途端、真葛のなだからな眉がぴくりと吊り上がる。「ねえ櫻花どの?」
「な、何であろうか?」
「まさかとは思いますけれど、あなたまた手間賃とらずに?」
「手間賃などとれぬよ。ただ見て話しただけなのだから」
「見鬼は見るのが商売です。他に何するっていうんです? ああもう、明治も五年になるっていうのに、この人はどうしてこういつまでもお姫さまなんでしょう? 私だってひと様の懐事情をとやかく云うような品の無い真似はしたくありませんけれどね、あなた本当に今月の家賃を半分払えますの? ここに棲めなくなったらお互い六十のヒヒ爺いの後妻にでも収まるしかないんですのよ? そのあたり分かっていますの?」
「あ、いや、真葛どのなら、その気になればもっといい嫁ぎ先がいくらでも」
「私にあるならあなたにもあります! 今はそういう話ではなくてですね!」
真葛が堪えかねたように声を荒げたとき、表の格子戸がいきなり開いて、呆れたような女の声が響いてきた。
「お邪魔しますよ御局さんがた。どうしたんだい真葛さん、そんなに大声出して。往来まで聞こえていたよ」
「え、あ、あら、そうでした?」と、真葛が慌てて猫を被る。櫻花はほっとした。
新来の客が声を立てて笑う。「おや、すまないねえ夕飯かい? ご上臈がたの御膳にしちゃ随分つつましいじゃないか」




