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墨染櫻花の怪異事件簿 ――開化東京妖怪譚  作者: 真魚
第二話 新宿狐火騒動
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一 兎と万年青 ②

「それじゃ墨染様、兎の商売を始めたくなったらいつでも報せてくださいねえ。いい周旋屋を紹介しますから!」

 お駒は元気に言い置いて、虎の子の子兎を大事そうに抱いて幽霊坂を上へと戻っていった。

 その背をしばらく見送ってから櫻花も坂の下へと向かった。


 小暗い幽霊坂を抜け、何本もの路が交差する広々と明るい八ツ小路に出る。

 右手に見えるの神田川の土手をのぼり、今は相生橋と名を変えたかつての昌平橋を渡れば明神下は目と鼻の先だ。


 表通りを一本入ると、二軒目の借家の前に思いがけない姿があった。


 袖に白い線の入った紺サージの詰襟服と平らな紺帽子。

 腰には刀の代わりのように棍棒を吊るし、左上腕に「東京府」の文字の入った赤い腕章を巻いている。


 邏卒(ポリス)である。

 園芸好きの櫻花が日々丹精している万年青(おもと)の鉢が三つ並んだささやかな借家の前で偉そうに腕を組んでいる。


 日に焼けた若い肉厚の顔。

 凛々しく太く黒い眉と大きな黒い眸。

 長身の櫻花よりさらに二、三寸背の高い体格の良い若い男の姿を、櫻花はむろんよく見知っていた。


「猪口どの、どうかなされたか?」

 歩み寄りながら声をかけると、若い男――櫻花とは二か月前のちょっとした事件で知り合った邏卒の猪口藤七郎は、心底嬉しそうに白い歯を見せて笑いながら振り向き、

「久しいな墨染どの!」

 やたらとよく響く歯切れの良い声で挨拶しかけるなり硬直した。


「――失礼。墨染どの、だよな?」

「いかにも墨染櫻花だ」

「何というか、その――大変凛々しい形だな?」

 紳士的な若い邏卒はぎこちなく感想を述べてから、おもむろに眉をしかめて万年青の鉢を見やった。

「この鉢は気をつけられよ。このごろ万年青が大流行で、あちこちで盗難が出ている」

「そうなのか? さきほどそこで兎が流行りと聞いたが」

「兎もだ。品川の老芸妓が殺されて秘蔵していた黒更紗が奪われるなどという嘆かわしい事件まで起きているらしい」

「人死にが出るとな剣呑だな! して、猪口どのはわざわざ私の万年青のために忠告に来てくれたのか?」

「いや、さすがに俺もそこまで暇ではない。今日は相談事があってきた」

 藤七郎が珍しく少しばかり声を潜めて告げる。


 櫻花はピンときた。

「物の怪話か?」

「うむ」

 藤七郎が歯切れ悪く認める。

 櫻花は無造作に頷いた。

「立ち話もなんだ。上がられよ。粗茶のひとつも出そう」

 玄関の引き戸を開けながら促すと、邏卒は眉をしかめ、

「それはいかんぞ!」

 と、やたら大声で叫んだ。


 櫻花は訝った。

「何がいかんのだ?」

「何など、決まっていよう!」と、若い邏卒は憤った。「茅野どのは御留守なのだろう? 妙齢の女子(おなご)のひとり住まいにやすやすと男をあげてはいかん!」

 若々しい顔を真っ赤にして怒る。

 櫻花は一瞬虚を突かれ、そのあとで思わず声を立てて笑った。


「何を言い出すかと思えば! 真葛どのではあるまいし、私には無縁の用心だ」

「馬鹿いっちゃいけねえ、あんたにも必要に決まってんだろうが!」

 藤七郎はそれが素なのだろう町人風の巻き舌で怒り、何を思ったか踵を返して表通りへ歩き始めた。

 櫻花は少し焦った。

「相談はいいのか?」

「外で話そう。角に団子屋があった」




 団子屋は昔の木戸番小屋の隣にある。

 小半時後、櫻花は藤七郎と並んで軒下の縁台に腰をかけ、みたらし団子を頬張りながら相談事を聞かされることとなった。


「墨染どのは四谷下屋敷のこの頃の処遇についてご存じか?」

 わりと話の回りくどい藤七郎が唐突な話題を切り出す。

 櫻花は好物のみたらし団子をもちもち噛みながら顎だけで頷いた。


 四谷下屋敷――というのは、旧幕時代、信州高遠藩主の内藤家が、新宿の大木戸のすぐ外に構えていた広大な武家屋敷を指す通称である。周辺の「内藤新宿」という地名からしてこの屋敷の存在に由来する。


「御一新以後、内藤様は知藩事として御国許へ入られ、下屋敷は政府に上納なされたと聞く」

「正確には大蔵省が買い取ったのだ。今は外遊なさっている大久保卿の肝いりでな」

「ほう」

 櫻花はとりあえず相槌を打っておいた。

 明治新政府による旧武家屋敷の買い取りと物の怪話の繋がりがちっとも見えてこない。


「その昔日(むかし)の四谷下屋敷に、この頃、舶来の種子や家畜を育てる実験をするための農業試験場を設けるという話が進んでいる」

「主導は大蔵省か?」

「そうだ。で、俺の昔の剣術仲間に柏木護(かしわぎまもる)という男がいてな、旧幕時代には代々の普請方の家の生まれで、玉川上水の管理に関わっていたらしい」

「水方か」

 櫻花は諦めの心境で相槌をうった。

 藤七郎の話が回りくどいのはいつものことだ。

 きっといつかは物の怪話に繋がってくれるのだろう。


「そうだ」

 若い邏卒は櫻花の諦観にはちっとも気づかず、元気よくみたらし団子を頬張りながら頷いた。

「その元水方の家の柏木というのが、剣術はからっきしだが大層な秀才でな、開成学校で洋式の測量を学んで、大蔵省の省掌として採用されたのだ!」

 藤七郎がみたらしのたれで煌めく団子の串を槍みたいに振りかざして、我がことさながらに誇らしげに言う。

 櫻花は胸がほっこりと暖かくなるのを感じた。

「大事な朋友(とも)なのだな」

「ああ」

 藤七郎はてらいなく宜ったが、すぐに顔を曇らせた。

 櫻花も心配になる。


「……その朋友になにかあったのか?」

「あったといえばあった。柏木はこの頃測量のために昔日の四谷下屋敷の大木戸門の門屋敷に泊まりこんでいるのだが、その近くの荒れ寺に夜な夜な狐火が出るというのだ」

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― 新着の感想 ―
 明治の謎の兎ブームですね。昔、何かの本で拝見したことがありますが、どういう楽しみ方をしていたのだろうか、と思っておりました。江戸期の変化朝顔の流行に何となく似ていますね。  猪口殿も江戸っ子らしく気…
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