一 兎と万年青 ①
駿河台から東へ下る幽霊坂は昼でも薄暗い。
左右に伸びる石垣の上の昔の武家屋敷の白壁の向こうに屋敷林が茫々と茂って、幅の狭い路に深い影を落としている。
明治五年皐月二十八日《グレゴリオ暦7月3日》――
巳の刻《*午前10時頃》である。
墨染櫻花は愛用の薙刀を携えてその坂を東へ下っていた。
弟子が暑気あたりを起こしたとかで、予定されていた通い稽古が急に中止になってしまったのだ。
左右から油蝉の声が降るように響く坂路を抜けて広々とした八ツ小路へ出る手前で、不意に背の後ろから甲高い女の声が響いてきた。
「ちょいとそこの兄さん、そのコロ捕まえとくれ――!」
兄さん、という呼びかけが自分を指していることは櫻花には即座に分かった。
何しろ今日の服装は、夏の薙刀の稽古着にしている白地に藍の矢絣の帷子に何度も洗いざらした浅葱色の義経袴である。
そのうえ頭は総髪で、背丈は並みの男より一、二寸は高いとなれば、後ろからどころか正面から見たって姐さんよりは兄さんと呼ばれるに違いない。
と、そこまで一、二秒で判断した櫻花が、武芸者らしい機敏さで足を止めて振り向いた途端、坂の上からこちらへと疾風のごとく駆け下りてくる白っぽい何かが目に入った。
櫻花は一瞬、すわ管狐か? と思いかけた。
「兄さん、兄さん捕まえとくれってばあ!」
坂の上から甲高い声が響く。
櫻花は咄嗟に身を低めると、凄まじい速さで跳ねるように疾駆してくる白い小さい何かの進路に向けて腕を広げた。
間髪入れずに胸にボスっと柔らかい何かが衝突してくる。
櫻花は右手で衝突物の躰を抑え、左手で長い耳を掴んだ。
掌の下で温かな肉の塊がぴるぴると震える。
兎である。
耳にだけ黒い斑の散った小さな白兎だ。
「あああ、ありがとう――!」
坂の上の女が泣き声混じりに礼を言いながら駆け寄ってくる。
薄紅色の麻ノ葉紋様の振袖に黒い半幅帯を締め、黒髪をつぶし島田に結った十八、九に見える娘だ。
こっくりとした小麦色の膚とキラキラ光る大きな黒い眸。
身なりも貌も一見初心な素人娘みたいに見えるが、うっすらと汗を浮かべた膚に産毛の一本も見えないあたり、明らかに玄人筋だ。
その顔には明らかに見覚えがあった。
駿河台に別邸を構える唐物商の若い妾だ。
「お駒どのか?」
耳を掴んだ兎を差し出しながら訊ねると、娘――お駒は目をぱちくりさせ、つくづくしみじみと櫻花を見あげてから、ぎょっとしたように叫んだ。
「え、えええ、墨染どのぉ!?」
「いかにも墨染櫻花だ」
櫻花は堂々と名乗った。
「うわあ、吃驚しました。どこの芝居の若衆かと思いましたよ。子兎、捕まえてくだすってありがとうございます。旦那様に大枚叩いて買ってもらった虎の子なんですよ、兎ですけどね!」、
お駒が心底大事そうに兎をぎゅっと抱きしめる。
その仕草に櫻花はわずかな不憫さを感じた。
若い娘の妾商売で、旦那の通いが遠のいて淋しい思いをしているのかもしれない。
「お駒どのは兎が好きなのか?」
何となく労わるような気持ちで声をかけると、お駒がきょとんとし、そのあとでまた声を立てて笑った。
「いやですよう墨染様、好きとか嫌いとか、そういう話じゃありません。このごろ兎は毎日毎日値が上がっているんですよう。好事家の旦那衆が珍しい柄の兎を集めちゃ待合茶屋で兎会ってのをやっているらしくてね、黒更紗っていって黒い斑のある白兎なんか種付けだけで三円、売れば二〇〇円にはなるっていうんですから剛毅な話でございましょう?」
「あ、ああ。それは確かに剛毅だ」
怒涛の勢いで説明されて櫻花は少々怯んだ。「すると、お駒どのは高値で売るために兎の交配を?」
「そうなんですよ!」と、お駒は白兎を抱きしめながら力強く頷いた。「旦那様に膏薬みたいにベッタリじゃ妾商売はやっていられないって姐さんたちにさんざっぱら言われてきましたからね。嫌ンなったらいつだって出てってやるって気概があればこその生業だって皆に言われましたから。あたしはこの兎で一財産拵えようと思っているんです!」
そう宣言するお駒の顔は野心に燃えていた。
「そ、そうか。ぜひ尽力してくれ」
金銭的な世事に疎い櫻花はタジタジとなりながら激励するほかなかった。




