第七章 三宝荒神 2
「では、まず、娘御が亡くなられたという離れを拝見できるか?」
櫻花が申し出ると、マサの父親は一瞬だけ表情を強張らせたものの、すぐに平静な顔に戻って頷いた。
離れは母屋の裏手の橡の木立の手前に建っていた。
亭主の話では元は老母の隠居所だったのだという。
「久々の宿下がりだというのに、おマサさんが母屋で休まなかった理由は何かございますの?」
真葛が訊ねると、前を歩くマサの父親の黒紋付の肩がわずかに強張るのが分かった。
「娘は死んだ母に――あれの祖母によう懐いておりましたもので。幼いころからばあ様の懐に抱かれるようにして育ったものですから、この裏の離れが好きだったのです」
訥々と語る父親の声からは紛れもなく本物の悲哀が感じられた。
「こちらでございます。どうぞお入りくださいませ」
父親が離れの引き戸を開けて促す。
入ればすぐに狭い土間があり、囲炉裏のある板の間の向こうに障子が建てられている。
左側の小部屋の向こうの明かり障子を透かして淡い陽光が射しこんで、天井から垂れる自在鉤を飾る魚の鋳物を淡く白く輝かせている。
その淡く輝く魚の背中に小さな人影のようなものが――おそらくは櫻花の目にだけ――見えた。
掌ほどの大きさの漆黒の膚の矮人だ。
三面の顔と六本の腕。
小さな眸は鮮やかな赤で、口元から金色の牙が覗いている。
三宝荒神だ。
竈や囲炉裏を守護する火伏の神だ。
「……櫻花どの?」
真葛が小声で囁く。「何か見えますの?」
「ああ」
櫻花が頷くなり、真葛が不意に蹲り、
「あ、いたたたたた」
と、切なげな声をあげた。
「ご上臈様?」
斜め後ろに控えていたマサの父親が慌てた声をあげる。「いかがなさいました?」
「持病の癪でございますわ」と、真葛は切なそうに眉を寄せて応えた。「申し訳ありませんが、熱いお湯を少々いただけません?」
「湯でございますね、すぐにお持ちいたします」
マサの父親が大慌てで母屋へと駆け戻ってゆく。
真葛が蹲ったまま目だけで櫻花を見あげてニイっと笑う。
「さて、今のうちですわ」
言い置くなり、腹に抱えるようにして持っていた鴇色の縮緬の風呂敷包を解いて、「王子稲荷」の札の貼られた飴色の竹筒を取り出す。
「疾風、顕れなさい。人に見えない姿で」
竹筒の栓を抜きながら真葛が命じるなり、筒の口から淡い白銀色の靄のようなものが流れ出して真葛の細い首の周りにふわりと巻きついた。
今は櫻花の目にだけ見えている白毛赤眼の管狐である。
真葛は見えない使い魔の頭を白い手で軽く撫でながら命じた。「この屋敷の敷地内をくまなく捜して、何か呪術に関わる品があるかどうかを確かめなさい」
言葉が終わるなり、管狐はするりと真葛の首から離れ、まさしく疾風のような素早さで母屋の方角へと飛翔していった。
櫻花はその様を見届けてから、草履を脱いで板の間へとあがり、改めて自在鉤の上の三宝荒神へと向き直った。
「火伏の翁よ、斎庭に変わりはないか?」
声に出しながら心の中でも訊ねる。
すると櫻花の脳裏にだけ聞こえる音のない声が返ってきた。
――変わりは何もない……
「ご上臈様、お湯でございます! どうぞ母屋でお休みくださいませ!」
ほどなくして湯の盆を携えて駆けつけてきたのはマサの母親のほうだった。
真葛はことさらに弱弱しく微笑みながら、今は管狐を欠いている竹筒に口をつけて何かを飲むフリをし、
「それではお言葉に甘えて」
と、母屋へと去っていった。
後には櫻花と藤七郎だけが残る。
「あ――墨染どの?」
足音が遠ざかり切ったところで、それまでずっと無言のまま案山子みたいに控えていた若い邏卒が心許なそうに訊ねてくる。
「何とお話しなさっていたのだ?」
「三宝荒神だ」
櫻花は簡潔に答えた。
「竈神か? 何を訊いていたのだ?」
「この囲炉裏で昨今何か変事がなかったかと。翁が言うには「ない」ということだ。もう月が一巡りするほどのあいだ、この囲炉裏には火が入っていないそうだ」
「そうか」
藤七郎は何となく釈然としなさそうな声で応えた。
櫻花が何を調べているのかよく分かっていないのだろう。
念のため離れのまわりをぐるりと見回ってから母屋へ戻ると、真葛は座敷で熱い茶を飲みながら背を丸めて寛いでいた。
竹筒をすでにきちんと包み直しているところを見ると、疾風はもう探索を終えて管に収まっているらしい。
「真葛どの、具合はどうだ?」
「ええ、もうだいぶ良くなりました。こちらの敷地内で呪術に関わる品も見つかりませんでした。そしらの首尾はいかが?」
「こちらも幸い何もなかった。御亭主、御内儀、娘御のご不幸の原因は蝦蟇の祟りではなさそうだ。松崎どのにもそのように御知らせする」
「左様でございますか」
そう答えたとき、マサの父親の顔に一瞬だけ微かな失望のようなものがよぎった。
櫻花は確信した。
この夫婦は娘の変死を松崎邸の蝦蟇の祟りのためだと思われたいのだ。
噂の源は、もしかしたらこの二人なのかもしれない。
「御三方は、これから松崎様のお邸へお戻りに?」
マサの母親が何かを探るように訊いてくる。
「ああ」
櫻花は無造作に頷いてから、最後の切札を投げつけるような気分で訊ねた。
「ところで御内儀――」
「なんでございましょう?」
「娘御の亡くなられたあの離れの囲炉裏、あそこに最後に火が入ったのはいつ頃だっただろうか?」
そう訊ねた瞬間――
マサの母親のふくよかな丸顔が恐怖に強張るのが分かった。
「火はもう長いこと入れておりません。古い隠居所ですから」
傍らからマサの父親が口早に答える。
朴訥そうな面長の顔からも焦りと恐怖が感じられる。
櫻花は無表情のまま頷いた。「そうか」
「では我々はそろそろ失礼する」
「喪中にお騒がせ致しました」
藤七郎と真葛が愛想よく挨拶すると、青木マサの両親はすぐに落ち着きを取り戻して礼儀正しい挨拶を返してきた。
「ねえ櫻花どの」
敷地の外へ出るなり真葛が待ちかねたように訊ねてくる。
「囲炉裏の火がどうかしましたの?」
「俺もそれが知りたい。あの質問にはどういう意味があったのだ?」
藤七郎まで語気強く訊ねてくる。
結論がすっかりまとまるまで推理を人に話したくない性質の櫻花は面倒さを感じたものの、好奇心一杯の二匹の猫みたいな同行者たちの視線に圧され、諦めて口を開いた。
「あの夫婦は嘘をついている」
答えるなり沈黙が落ちる。
「……どういう意味ですの?」
「そのままだ。――離れの囲炉裏には三宝荒神が宿っていてな、囲炉裏に最後に火が入ったのは一月前で、変事は何もないと言った」
「――つまり、おマサはあの離れでは死んではいないと言うことか?」
藤七郎が語気強く詰め寄ってくる。
櫻花は首を横に振った。
「や、人から火伏を祈念されている三宝荒神にとっての変事とは火事や失火のことだ。たとえ囲炉裏端で人が死んだとて、火で死んだのでなければ変事とは言わない。嘘はもっと単純なことだ。おマサどのがあの離れに宿った夜、囲炉裏には火が入っていたはずだ。しかし、青木夫妻はずっと火は入れていないと答えた」
「要するに、あの二人はおマサさんの死んだ夜に囲炉裏に火を入れていたことを隠している、ということ?」
「そうなるな」
「それは一体、何のために?」
藤七郎が眉間にしわをよせて訊ねる。
「そこを今考えている」
櫻花は慎重に答えた。




