第六章 竹筒の怪 2
よく徹る声のぬしは勿論藤七郎だ。
真葛が少しばかり口惜しそうに答える。
「ええ問題なく済みましたわ。成果もありませんけれど」
「猪口どの、もし時間が許すなら、原宿村の青木家の方にも連れていってもらえるか?」
櫻花が単刀直入に頼むと、藤七郎は目を見張り、何となく困惑したように眉根を寄せてしまった。
「今日は無理か? ならば後日にまた」
「あ、いや」
藤七郎が慌てて遮る。「その――なんだ、あなた方のご尽力はまことにありがたかった。もう十分務めていただいたから、これにて一件落着ということで、お帰りになってはいただけまいか? 謝礼は勿論お届けする。御入用の額を言ってくだされば」
藤七郎がそこまで口にしたところで、真葛の眉がきっと吊り上がった。
「――猪口どの」
「な、なんであろうか?」
「憐れみは結構です! あなた、初めから私たちの力など何も信じていなかったのですね? ただ、大奥を追われて困窮している可哀そうなお局さん二人にお銭を恵んでやろうと、そういう心づもりで呼んだのですね?」
「憐れむなど、心外だ。俺はただ、同じく幕府に仕えた身、お困りなら少しでも力になれればと」
藤七郎が口ごもり気味に反論する。
その口調に櫻花も確信した。
この若い邏卒は我々に憐れみをかけていたのだ。
正直なところ、櫻花はその事実に屈辱は感じなかった。
自分自身も同じように、苦労している旧幕臣の若者を助けてやろうと思っていたためである。
しかし、真葛は傷ついている。
唇を噛みしめ、肩を震わせ、眦に屈辱の泪を浮かべている。
櫻花が今すぐこの場を立ち去ろうと決心する理由はそれだけで十分だった。
「真葛どの」
櫻花はそっと呼び、朋友の肩を軽く叩いた。「帰ろう。御新造さまにだけ挨拶をして」
「いいえ、帰りませんわ」
真葛は低く答え、おもむろに腰掛に坐り直すと、膝の上で筒状の風呂敷包を解きにかかった。
櫻花は眉をあげた。
「お使いになるのか?」
「ええ使いますとも」
「あまり無茶をなさるな。私の力と違って、あなたの力は体を疲れさせるのだろう?」
「多少の疲れなどかまいません。矜持の問題ですから」
真葛が有無を言わせぬ口調で応える。
藤七郎は呆気にとられた様子だ。
風呂敷包から現れたのは竹筒だった。
飴色に使い込まれた竹製の水筒だ。
栓から伸びる濃紫の組紐が上部に巻き付いている。
そして真ん中にべったりと御札が貼り付けてあった。
方形の朱印の上に「王子稲荷神社」と墨書した真新しい御札だ。
藤七郎が目をぱちくりさせる。
「茅野どの、それは――」
「見れば分かりません? 私の管ですわ」
真葛は澄ました顔で答え、ごく無造作な手つきで栓を引き抜きながら、大事な飼い猫でも呼ぶような甘い声で囁いた。
「疾風、顕れなさい。人にも見える姿で」
途端に竹筒の口から濃い白い霧のような煙が噴き出し、小さなつむじ風さながらに真葛の肩の周りで渦巻いたかと思うと、みるみる内に輪郭を結んで、ふさふさとした太い尾をもつ真っ白な獣の姿を顕した。
白狐である。
鬼灯のように赤い眸をしている。
藤七郎の目が零れんばかりに見開かれる。
見えているのだ。
「か、茅野どの」
震える声で呼ぶ。「それは、一体」
「言ったでしょう? 私の管です。管狐です。御存じありません? 日ごろは竹筒に封じて使役する物の怪です。この疾風はわが茅野一族に代々伝わる管狐ですけれど、幕府開闢以来使いこなせた人間は三人しかいないのだとか。なかなか大したものでしょう?」
真葛はツンと顎をそびやかして応え、舶来品の毛皮の襟巻みたいに首にまきついた白狐の尻尾を得意そうに撫でた。
藤七郎はあまりの驚きのためにか言葉を失っている。
「ところで真葛どの」
櫻花は念のため訊ねた。
「あなたの矜持のためだとして、管狐に何を命じるのだ?」
「あ」
真葛が小さ口を開ける。
どうやら何も考えていなかったらしい。
真葛はしばらく眉間に深い縦皴を刻んで考えこんでいたが、ややあって小さく頷くと、水面へ向けて腕を伸ばして掌を上向けながら命じた。
「見えない姿で小さくなって、あの白い邸を捜しなさい。なんでもいいから捜すのです、なにか変わったものを!」
白狐は真葛の肩の上を器用にくるっと一周するなり、小さくなって掌へ飛び移り、タンっと水面へ向かって飛び降りたかと思うと、風を切るようにして水面を走っていった。
櫻花以外の二人の目には、その姿は水面を吹く一陣の突風にしか見えない。
櫻花は内心で管狐に同情した。
今の命令はあまりにも大雑把すぎる。
「なんと、この世にはあのようなものが」
藤七郎が呆然と、もう風の静まった水面を見つめながら呟く。
真葛が得意そうに笑う。
「覚えておきなさい邏卒どの。私は管狐使いです。それから櫻花どのは見鬼。わたくしどもの力が必要ならいつでも報せなさい。謝礼次第で場合によっては引き受けてさしあげますから」
藤七郎は悔しそうに頷いた。
真葛はそれを見届けてから、額を掌で抑え、ため息をつきながら腰掛に座り込んだ。
案の定、目眩か頭痛でも感じているらしい。
櫻花は呆れながら茶碗を渡してやった。
「ありがとうございます」
「あまり無茶をなさるな」
「すぐ戻ってきますよ。きっと何もないもの」
「おお本当だ、もう戻ってくるぞ!」
意外と打たれ強かった藤七郎が欄干から身を乗り出さんばかりにして嬉しそうに水面を見つめる。
あちらの岸から、今は櫻花の目にだけ見える小さな白い狐が水面を駆けてくる。
「あら?」
真葛が小首を傾げる。
「何か咥えています。――疾風、見つけたものをここに!」
小さな白狐は風を纏いながら真葛の掌の上に飛び乗り、口にくわえていた小指の先ほどの緑色の木の葉を落とすなり、白い乳のような煙に変じて竹筒へと吸われていった。
真葛は慌てて左手で栓をすると、改めて右手を開いた。
鮮やかな小さな緑色の葉だ。
何も変わったところなどない。
「これは――」
櫻花と藤七郎も左右からのぞき込む。
「苺の葉、か?」
園芸好きの櫻花は心許なく訊ねた。
「いえ」
真葛が眉を寄せて否む。「造りものですわ、これ。紗でできた造花の葉です」




