第一章 駿河台の座敷童
明治初頭が舞台のファンタジックなミステリーです。
「案ずるな。座敷童だ」
新築の妾宅を一間ずつめぐって上段の間の襖を開けるなり、能面みたいな美貌の巫女は能面みたいな無表情のまま淡々と宣言した。
新橋から落籍したばかりの可愛い妾のために駿河台に別邸を建てたばかりの唐物屋《*輸入商》は、その宣言を耳にするなり、
「ああん?」
と、柄悪く凄んだ。
時は明治五年――
日本の怪異を扱って後世きわめて有名になるラフカディオ・ハーンの『怪談』も柳田国男の『遠野物語』もまだ存在しない時代である。
奥多摩生まれの成金唐物屋の田宮寅吉は遠い東北の物の怪のことなんか全く知らなかった。
「なんでえそのザシキワラシってえのは。そいつがウチのお駒に悪さしやがるってえのか?」
「座敷童は悪さはしない。陸奥のほうの大家によくいる物の怪で、これが憑いている家はよく栄えると言われている」
巫女はちっとも動じずに淡々と説明した。
この巫女の風貌は大層人目に立つ。
白い小袖に緋の切袴を合わせ、白い紗に黒で九曜紋を刺繍した千早を重ねて、魔除けの小弓を収めているのであろう黒漆塗りの葛籠を背負っている。
そこまではまあまあ巫女らしい装束なのだが、右手にはなぜか薙刀を握り、青光りのするような黒々と豊かな髪を鮮やかな緋色の組紐で旧幕時代の男みたいな総髪に結っている。
それがまたよく似合うのだ。
黒髪のよく映える真っ白い膚と目尻の吊り上がった大きくも涼しげな目元。
手足の長いすらりとした細身ながら、背丈は並みの男より一、二寸は高かろう。
男装した美女なんだが女装した美男なんだが今一つよく分からない、しかし、だれが見てもはっと見返すような鮮烈な美形である。
現に、寅吉の後ろに張り付いて初めはオドオドびくびくしていた小柄な妾が、今は完全にうっとりと、二枚目役者を見あげる表情で見惚れている。
「悪さはしないっていうけど墨染さまぁ」
と、妾が甘ったれた声で口を挟む。
途端、寅吉が舌打ちをする。「おいお駒、たかだか巫女なんぞに『様』をつけるんじゃねえよ」
「そんなこと言ったって旦那様ぁ、墨染さまは御一新前には静寛院宮さま《*和宮》にお仕えしていた御殿女中だってお話ですよう? 大奥の宇治の間ってとこにお詰めなさって、お祓いだのお清めだののお勤めなさっていたって。世が世ならわっちなんかお目にかかるのもおこがましいご上臈ですよぅ!」
「そうはいったってお前よう」
「お内儀、ご亭主の言う通りだ」と、当の『墨染さま』が口を挟む。「もとの身上が何であれ今は一介の巫女の身だ。どうか気安く呼んでほしい」
「そんなぁ気安くだなんて」と、お駒はクネクネと照れてから、すぐにまた泣きそうな顔に戻って訴えてきた。「だけどね、だけどね墨染さま、そのザシキワラシ、絶対毎晩悪さをしているのよう。夜になるといつもこのお部屋からガタガタガタガタ音がするの! 何だろうってのぞくとピタッと止んで、閉めるとまたガタガタガタガタ! それが毎晩、毎晩なのよう! わっちは怖くて眠れません。このまんまここに住むんだったら新橋に帰っちまいたい!」
お駒が紅梅色の袖で顔を覆ってわっと泣き伏す。
寅吉が途端におろおろとする。
額に白い古傷のある強面の男前ながら、可愛い若い妾にはとんと弱い男だ。
「お駒、お駒、泣くんじゃねえよ。お前が高えところに住みたいっていうから誂えた折角の新宅ン家なんだぞ? 新橋に帰るなんて冗談でも言うんじゃねえ。お祓いでもなんでもしてやっから、な? おい元御殿女中!」
「墨染櫻花だ」
「そうか墨染櫻花、そのザシキワラシってえのは陸奥のほうの物の怪なんだな? それがなんだってご府中に出るんだ? 御一新からこのかた物の怪の勢力も代わったってえのか?」
「むう」
御殿女中あがりの梓巫女は曖昧に唸り、いきなり虚空の一点を猫みたいにじっと見つめ始めた。
「ほう。ほう。ほほう」
ときおりそんな声音を漏らしながら断続的に頷いている。
寅吉とお駒は不気味そうに顔を見合わせた。
「ええと、墨染さま?」
お駒がおどおどと呼ぶ。
「なんだ?」
「ええとね、その、な、何とお話なすっているんですかあ?」
「だから座敷童だ。そこに浮遊している」
櫻花は当たり前のように答え、おもむろに寅吉に向き直った。
「ご亭主、御当家に憑いている座敷童は分社のようなものだ」
「分社?」
「そうだ。暖簾分けと言ってもいい」
「物の怪に暖簾があるんでえ?」
「物の喩えだ。そこの床柱--」と、床の間を顎で示す。
巧いのか下手のかよく分からない荒々しい筆致で「和魂洋才」と横書きした額の架かった床の間には、派手な伊万里の花壺に早咲きの赤い牡丹が活けてあった。
右横に、これだけは妙に品のいい、真ん中に大きな節のある飴色の床柱が伸びている。
その柱の真ん中にべったりと御札が張り付けてあった。
下半分には横向きの黒い犬が描かれ、上半分には、
武蔵国
大口真神
御嶽山
の三行が分かち書かれて、四角い朱印が押してある。
「ああん?」と、寅吉が再び凄む。「ウチの床柱になんか文句あんのか? ありゃ陸奥のさるご大家の床の間に使われていたのを――」
寅吉はそこまで口にしたところでハッとしたように目を瞠った。
「……ここの床柱が陸奥の産って、あんたぁどうして知っていたんだ?」
「知ってはいない。今聞いただけだ。座敷童は家に憑くからな。元の邸が壊されたあとには主だった柱や梁ごとに分かれて新しい家々に移ってきたらしい」
「それがつまり、暖簾分けってか?」
「そういうことだ」
説明が終わると沈黙が落ちた。
寅吉がややあって心許なげに訊ねる。
「それで、そのザシキワラシってえのが本当だとして、そいつは何で悪さをするんだ? 御一新でお家が潰れたことを怨んでいるのか?」
「怨みは何もないそうだ。ただ、その御札を剥がして欲しいのだそうだ」
「御札って、御嶽のか?」
「そうだ。御嶽の黒狼さまはおおらかなお犬でお山の外の縄張にはそう喧しくないのだが、陸奥の産の座敷童としては、東国の犬神に見張られているようで落ち着かぬらしい。決して悪さはしないから、どこか他のところに貼ってほしいと言っている。丁寧に三つ指をついているぞ?」
櫻花が床の間の前に視線を落とす。
かなり低い位置だ。
寅吉とお駒はまた顔を見合わせた。
「あのう墨染さま」
「何であろうか?」
「ザシキワラシっていうのは、やっぱり子供の姿をしているのですか?」
「ああ。禿頭の六つ、七つの女の児のような姿だ。赤い着物をきている」
「その子が三つ指をついているの?」
「きちんとついている。いずれにしても本家はすでにない影のような身、もう長くは姿を保てないだろうから、今しばしおいて欲しいそうだ」
櫻花は淡々と説明した。
お駒はしばらく目を細めてじっと床柱の前を眺めていたが、じきにちょいと爪先立って大男の寅吉を見あげた。
「ねえ旦那様ぁ」
「なんでえ」
「御札、剥がしてやってくださいよう」
「お前がいいんなら、そりゃ俺は構わねぇが」
お駒に甘い寅吉は渋々ながらも女中を呼んで柱の札を剥がさせた。
反応は何もない。
成金男の表情はとたんに険しくなった。
「あのなあ巫女さんよう」
前庭に面した廊下を足音荒く歩きながら呼ばわる。
「墨染櫻花だ」
「そうか墨染櫻花さんよう、お駒の話じゃザシキワラシとやらが騒ぐのは夜のこったからな。お前さんの霊験が本当にあらたかだったのかは明日にならなけりゃ判らねえって寸法だ」
「ご亭主、私の力は霊験ではなく見鬼だ。霊験というのは神仏がひとにもたらす利益のことをいう。私はただ見えるだけだ。見えるから祓ったり封じたりもできるが」
「ああそうかい、じゃあお前さんのケンキな。そのケンキが本当かどうかは明日にならなけりゃ判らねえ。そうだな?」
「その通りだ」
「だからな、手間賃は明日の朝だ。いいな? 今日はまだ払えねえ。俺ぁなんでも支払いは仕上がりを見て後払いって決めてんだ。なんか文句あっか?」
玄関先で寅吉が腕を組んで凄む。
「そんなあ旦那様ぁ」と、お駒がオロオロする。
「うむ」
櫻花は能面みたいな無表情のまましばらく考えこみ、やがてそのままの表情で淡々と告げた。「手間賃は要らん。今日はただ見ただけだからな」
「え、そいつは本当かい? お前さん欲のない良い巫女だねえ。いやあさすがに元ご上臈は太っ腹だ! 商売仲間にも紹介しておくよ!」
寅吉は一転して上機嫌になって表門の外まで見送りにでてきた。
「ありがとうございます墨染さまぁーー!」
お駒が黄色い声で呼ばわる。
その声を背中に聞きながら櫻花は満足していた。
人助けとは気持ちのいいものだ。




