帰るべき場所
月の明るい夜だった。私は彼女を、彼女は私を誘ってテラスに出た。紅茶の香りが胸に入って深く染み込んだ。
彼女とお茶をするのはこれで三度目。初めてここに来た時、彼女は今と変わらないように月明かりの下でカップを傾けていた。そしていつかと同じように、私に座るように勧めた。
何を話したのか。よく覚えてはいない。ただ胸がいっぱいだった。心が溶けていってしまいそうだった。涙が流れた。
彼女はそんな私を静かに、優しく見守っていた。近づいては来なかった。それが彼女の優しさであり、この街の掟だった。
時間が来た。月が傾く前に、私は席を立った。そして、約束したのだ。
「あれから、時が流れたのですね」
「ここは変わらない街よ」
「でも、あなたは変わった」
黒髪の少女が変化を恐れぬ若さのままでいるように。安らぎを求める眼鏡の女性が大人の落ち着きを得ているように。消費された魂はあるべき姿でそこにある。
だが、私が向こうで過ごした時間で三年の時を成長したように、彼女もこの街で三年の時を魂に課した。
「私が年下では格好がつかないから」
「帰って来なかったら?」
彼女は顔を上げた。月明かりであっても霧は晴らせない。広がる森はやがて霞に消える。私はその先にあるものを知っている。
ここは全てが帰るべき場所。
「扉が開くわ」
「はい」
「戻るのだと思ってた」
「戻りません」
そして、何処へも行けない場所。
彼女はカップを置いて、静かに息をこぼした。
「そう」
表情は読めない。二人のカップは空になっていた。月は傾き始めている。私たちはただ夜空を見上げていた。
「やりたいことは見つかった?」
「まだ。ただ」
「ただ?」
「変わっていこうと思います」
彼女は首を振った。
「変わらないわ」
「いいえ、変わります。あなたが私との約束のため時を課したように」
少女と一緒に物語を書くのもいいかもしれない。眼鏡の女性についていって街を切り取るのもいいかもしれない。エプロンの女性に料理を教わるのはとても幸せなことのように思える。
街や周りに何か変化があるとは思えない。変わらない時間が流れていくだけだろう。私はそれを認められるようになっていた。
「私たちは生きているんです」
女性が私を見つめる。真っ直ぐに見つめ返す。長い髪と同じ色の瞳が私の心を貫く。震えることはない。ただ静かに許しを待った。
私たちの間には時があった。それが私たちをこの形で巡りあわせた。そして、きっとこれからも。
小さく息が漏れ、微笑んだ。言葉はない。それで十分だった。
二人で席を立つ。今日はこれで終幕。また明日。
館の中に入り、扉を閉める前、外を眺める。それはいつか見た風景。そして、これからもきっと変わらない蜜柑の景色。
月の明るい夜は。
「小説」を書くのをやめた私が書いた最初の「話」。描写を軽くし、表現よりも音楽的なテンポを重視するようになり、内容では「あえて書かないこと」を意識するようになった。
C’s ware 「蜜柑」や「灰羽連盟」に影響されているが、最初の発想は私が子供の頃見た夢である。これ以降の話では「彼女」と呼ばれる女性が度々登場するようになる。
なお、タイトルが後出しなのは「輪るピングドラム」の真似である。