蜜柑の景色
眼鏡の女性を捕まえた。食事で必ず顔を合わせる彼女とエプロンの女性、基本的に部屋に籠っている黒髪の少女と違い、女性は会う機会を捉えづらい。
昼食後に部屋を訪ねると丁度出掛けるところだった。
「一緒に行きたい?」
「お邪魔でなければ」
「面白いことなんてないけど」
玄関へ向かう女性についていく。靴へ履き替えると、女性は何も言わずに私を振り返った。私も急いで履き替える。
門を出ると女性は迷わず道を進んでいく。その隣に並んで歩く。
「何処へ?」
「絵の場所にね」
歩く女性は肩から小さなバッグを下げているだけ。とても絵を描く道具が入っているようには見えない。聞こうかと思ったが、止めておいた。
鈍色の空と橙色の建物が続く風景。サロンで見た女性の絵。女性は永遠に続くようなこの街の何処か一瞬を切り取って、絵に描いている。
ふいに女性が足を止めた。変わらない景色が広がっているように見える。女性はバッグから小さな手帳とペンを取り出すと、その風景を写し始めた。何でもないこの場所が彼女には絵に見えている。
無言。横で眺めている。女性の表情は真剣で、ペンは滑らかに手帳の上を滑っていく。正確な写生ではない。きっと、手帳に描かれた以上に、女性の記憶の中にこの風景が刻まれているのだ。
女性の手が止まった。
「どうして絵を描くのですか?」
「あの子はなんて言っていた?」
「やることがないから、と」
「私もそれだね」
手帳とペンをバッグにしまうと、女性は大きく伸びをした。
「でも、物語を書くのと絵を描くのは違います」
「あの子には物語が書けて、私には絵が描ける。そういうことじゃないんだよね」
再び歩き出した女性についていく。隣から半歩下がる。女性は遠くを見ていた。
「これは魂の風景なんだよ」
「彼女もそんなことを言っていました」
「そう。あの子の物語は読んだ?」
「少しだけ」
女性は角の店に入った。私は一人外で待つ。女性はすぐに出てきた。手には二つの紙コップ。一つを受け取って礼を言う。
「変化しない景色に変化を与える。あの子は物語でそれをやろうとしている」
「変化しない魂を変化させる」
「自然には、ね」
再び並んで歩く。道は女性任せだが、女性は私の考えが分かっているように思えた。女性の選択と私の選択は同じ。
「私はそれをやろうとは思わない」
「何故?」
「長い話になるよ。まあ年の功さ」
そう言われると口をつぐむしかない。女性は気にしてないというように軽く笑い、コップを煽った。
「私はこの景色が気に入ってるんだ」
「描きがいがないのではありませんか?」
「私にはそれがいい」
コップを潰して、街角のゴミ箱に捨てる。私もそれに倣う。あまり甘くない、しかし飲みやすいコーヒーだった。これが女性の味なのだ。
「落ち着くんだ」
「いつまでも、絶対に変わらない」
「だから安心して絵に描ける」
その声は私には出せない優しさと、大人びた落ち着きをはらんでいた。女性は館の誰よりも年上の姿をしている。自然には変化しない自分をあえてその姿にする理由がある。
きっと向こう側で経験してきたものが違うのだ。女性は私が知らないことを知っている。ここでは手に入らないものをもっている。
コーヒーの苦味が口の中に残って、少しだけ顔を歪めた。
女性は通りで足を止めて私に向き直った。
「右へ行くと、館へ真っ直ぐ」
今日の目的はまだ済んでいない。
「左は?」
「行ってみるのが一番、彼女はそう言わなかった?」
私の返事を待たずに、女性は歩き出した。私も一緒に左へ曲がる。変わらない街並みが続いている。何処までも、永遠に。そう思えるほどに。
言葉なく歩いた。あの日、彼女が言ったこと。その意味がこの道の先にある。ただ、私はもう分かっているような気がした。
どれほどの時間が経ったのか。私たちはそこへたどり着いた。街の果て、そして、始まりの場所。
私たちの住む館がそこにあった。
「これが私たちの街。霧の向こう。蜜柑の景色」
ただ頷いた。私が門を開け、二人で中へ入った。玄関まで数メートル。いつもの道のり。変わらぬ景色。
あの日、彼女が言わなかったこと。今はそれが分かる。
この街に名前はない。ただ、全てが。