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夜空を見上げて

 一室が私のために用意された。クローゼットや本棚はもちろん、浴室や洗面所まである。

 翌朝、私は一階の食堂で用意された食事をとっていた。彼女は長テーブルの向かいに座って同じものを食べている。

「あなたが?」

「まさか。彼女よ」

 そう言って食堂の奥を視線で示す。厨房へ続くであろう扉があり、その脇にエプロンを着けた女性が立っていた。彼女より少し年上だろうか。私が頭を下げるとにっこりと笑ってお辞儀をし、扉に消えていった。

「彼女は?」

「住人の一人。食事の用意とか洗濯とか掃除とか、そういう家の仕事を引き受けてくれてる。昔そういう生活をしてたみたい」

 昔というのは向こうにいた頃という意味だろう。

「彼女に任せておいて心配はないよ。分からないことは彼女に教えてもらうのね」

 彼女は自分の食器を持って扉に入り、すぐに出てきた。

「食器は彼女に渡して。その時にでも家のことを聞くといいわ。私がするより早い」

 ひらひらと手を振りながら彼女は食堂から出て行った。飄々としている。私が来たこと、館の住人が増えたことを気にしていないようだ。慣れているようにも見える。

 食器を持って厨房の扉を開けると、エプロンの女性は丁度食器を洗っているところだった。自分の食器を渡す。彼女は笑顔で頷いた。慣れているように見える。

「昨日からこの館でお世話になっています」

「ええ、存じております。彼女と古い縁がおありだとか」

「そんなことまで?」

「彼女が時々話してました。もっとも、詳しいことは話してくださらなかったけれど」

 少しほっとした。彼女は確かに私を待っていてくれたのだ。

「家のことは彼女にお聞きになりました?」

「いいえ、彼女はあなたから直接聞くようにと」

「分かりました。こちらへ」

 食器を片付け終えた女性は奥の扉へ向かう。片付けられた食器は少なくとも三人分以上はあった。私たち以外にも住人はいるのだろう。扉の脇で女性が待っている。

「あなたは食堂で食事しないのですか?」

「ええ、厨房で作ってすぐ食べた方が落ち着くのです」

 扉を開ける。女性に続く。

「元々食堂は大勢の人が集まった時に使うためのもので、本来はそれぞれの部屋へ食事を持って行くのがこの館の基本なのです」

「でも、彼女は」

「彼女ぐらいですね。私とは逆で、広い場所の方が心地良いと」

「なるほど……」

 女性は厨房を出ると館の奥へ向かう。途中幾つかの扉があるが、二階にあったものとは装飾や大きさが若干違う。

「一階には応接室やサロン、書庫があります。ですが、ほとんど使われていませんね」

「どうしてです?」

「一つに、使う方がいません。この館に今私たちを含めて五人住んでいますが、みんなかしこまった部屋の使い方をすることはほとんどありません」

 五人。自分、彼女、エプロンの女性以外に、あと二人。

「もう一つは、個人の部屋で十分足りてしまうからです。応接にせよ集まりにせよ本棚にせよ、各部屋で済ませられるように作られています」

「確かに私にはもったいないほど立派な部屋です。掃除などは、あなたが?」

「ええ、あなたが来る前に彼女に言われて。ただ、部屋は基本的に自分でされますね。どう致しますか?」

「私もそうしようと思います」

「分かりました。ところで」

 女性は廊下の突き当り、その横の扉を開いた。中には見慣れた、しかしこの館には少々不似合いな洗濯機が並んでいた。

「ここが洗濯室。誰でもいつでも使うことができます。無料のコインランドリーと考えていただければよろしいかと」

 確かに分かりやすいが、ますます違和感が強まる。部屋の壁には鍵付きの大きなロッカーが並んでいて、網かごが入っている。

「かごに洗濯物を入れて、バスタオルでも被せて、朝の内にロッカーに入れておいていただければ夕方までには洗濯して戻しておきます。もちろんご自分でされても構いませんし、忙しい時だけでも構いません。住人の方々に合わせますので」

 女性はロッカーの一つを閉じて鍵をかけると、私に手渡した。鍵には私の名前が書かれていた。顔を上げると女性はいたずらっぽく微笑んでいた。

「お話は伺っておりましたので」

 部屋に戻ろうと階段を上ると、廊下で見たことのない女性に会った。眼鏡を掛けている。エプロンの女性よりも更に少し年上だろうか。

「丁度良かった。ちょっと来て」

 私の手を取ると、眼鏡の女性は私を引っ張って廊下を進む。一つの部屋の前へ来ると扉をノックする。声を掛ける前に扉は中から開かれた。

 出てきたのは少女。さらさらの黒髪を肩まで伸ばしている。私よりも年齢も背も少し低いか。

「今、大丈夫? 顔合わせはまとめてしたほうがお互い楽かと思ってね」

 少女は小さく頷くと扉を開けて私達を迎え入れた。初めて入る他人の部屋だったが、自分の部屋と内装はほとんど変わらない。部屋の中央に丸テーブルがあるのが家具としては一番大きな違い。

 ただ、物が多い。本棚には見たことのある漫画や文庫などの本がきっちり並んでいるし、テレビもあればデスクの上にパソコンのモニタも乗っている。テレビ台にはゲーム機まで。

「あまりじろじろ見ないで」

 少女が私の袖を引く。照れくさそうに顔を伏せる様が可愛らしい。思わず抱きしめそうになって慌てて手を引っ込めた。

「物があるのがおかしいかい?」

 女性はベッドに腰掛ける。少女は私にクッションを渡すと、ポットのお湯でお茶を煎れた。緑茶だった。

 三人にお茶が行き渡った頃、眼鏡の女性が口を開いた。

「もっとも、私たちも始めは似たようなもんだったか。気にすることはない、すぐ慣れる。ここはそういう街なんだってね」

「どういう意味です?」

「どうって、そうだな……」

 女性は腕を組んで言葉を探しているようだったが、上手い表現が浮かばないのか私には今ひとつ掴めなかった。ただ、少女が口にした言葉だけは印象に残った。

「ここは消費された街」

「消費?」

「そう。この街に生産はない。ただ、消費された残りかすだけが積もっていく」

 抑揚のない声で語る少女の言葉が、私に奇妙な感覚を覚えさせた。不思議と、忘れたはずの何かを思い出させる、そんな気がした。

「なんにせよ、ここに住むのならいずれ分かるさ」

「また、そのうち」

 自分の部屋に戻ると、タイミングを見計らったかのようにドアがノックされた。扉の外には彼女が立っていた。

「必要な物を貰いに行こう。ちょっとした街の案内も兼ねて」

 二人で階段を降りる。玄関ホールの脇にロッカーがあり、そこに個人の靴やスリッパ、傘などを入れておくのだという。土足で上がったことを怒られはしなかったが、エプロンの女性に余計な仕事をさせてしまったかもしれない。

 靴を履き替え外に出る。そこに闇はなく、しかし明るい日差しもない。頭上には薄暗い空が広がっている。

 せっかくの広い庭は長く手入れされた様子がない。掃除をし、花でも植えればさぞ華やかだろうと思われたが、この空の下ではむしろ正しい姿とも思えた。

 門を出ると石畳の道が伸びている。通りに沿って、洋風の建物が寄り添うように並んでいる。想像される西洋の街並みが広がっていた。その中を彼女と並んで歩く。

 街を歩く人はいない。空気がひっそりと静まっていて、まるで私たち以外に誰もいないかのよう。時折見かける店のような建物の中を覗いても、店員がいるようには見えない。

「気になる?」

 少なくとも彼女は気にしていないように見える。私もできるだけ平静を装ったが、この街と比べられては隠しようがなかった。

「人はいる。でも少ないし、こんな天気じゃ用もなく外を歩く気にもならないから」

「いつもこんな?」

「天気はね。晴れるのはほとんど夜。そして何かがある日」

 昨日は月が見える綺麗な夜だった。

 通りに面した一件の店へ入る。狭い店内に所狭しと洋服が並んでいる。昔こんな店を商店街で見た覚えがある。だが違うのは、全て若い女性用のカジュアルであること、そして何より会計がないこと。壁は入り口以外全て服で埋まっていた。

 大切なことを忘れていた。私はこの街へ完全に着の身着のままでやって来たのだ。

「代金はどうすればいいのでしょう」

 彼女は彼女で、私に構わず服を漁っていた。当たり前というように、こちらも見ずに。

「いらないよ」

「いらないって……」

 通路に立っている姿見で確認しながら彼女は続ける。

「この街に生産はない。全てが消費されてやって来る」

「どういう意味です?」

 少女と同じ言葉を繰り返した。服を探しながら聞く。意外にも、服の質はよく新しい。私の趣味に合うものも多い。値段を確認しようとして、札が付いていないことに気がついた。

「物の価値は消費されていてゼロなの。でも心配はいらない、中古というわけではないから」

「消費されたのに、新品?」

「ものの魂と呼ばれるようなものだけがこちらに来るの。本質、実体、真実、言葉で言えば色々な言い方ができるけど、同じことよ」

 彼女は数着の服を選ぶと入り口横に積み重ねてある紙袋に詰め、そのまま店を出てしまった。それを咎める人はいない。私も同じように服を詰めて店を出た。扉が小さく鳴って閉まった。振り返ると、店内の電気がふっと消えた。

 その後も衣類、日用品、薬品の類まで全て同じように集めて回った。ふと代金を払わない店は店と呼べるのかと疑問に思った。なるほど確かに、これは買うではなく貰うと表現するべきだろう。

 私と彼女の手が埋まる頃には大方のものは揃い、同時にこの街の物流も大方理解した。一度貰い忘れがあり元の店に戻ったことがあったが、既に在庫が補充されていた。いつ、誰がとはもはや思わない。それがこの街の姿なのだ。

 途中でパン屋に寄った。向こう側と同じように、壁に沿って焼きたてのパンが並んでいる。手をかざす。

「あたたかい」

「それがそのパンのあるべき姿ということだよ」

「作る人も処分する人もいないのに、悪くなったりしないのでしょうか」

「魂は劣化しない。少なくとも、自然にはね。だから、私たちが焼きたてのパンがあたたかいと知っている以上、ここにあるパンはあたたかくて、美味しいのよ」

 昨日下った坂道を上り、広場を更に上へ。街を見下ろせる高台でベンチに座りパンを食べた。美味しい。

 眼下には灰色に染められた洋風の街並みが広がっている。遠くは霧のようなもので覆われていてはっきりとは見えない。相変わらずの曇り空。

「あの霧の向こうはどうなっているのでしょう」

「街の端?」

「それと、外」

「そのうち歩いてみればいい。それが一番分かるよ」

 彼女の目は遠くを見ていた。霧よりも、街よりも。彼女はあれからずっと、この景色を見て過ごしてきたのだ。人のいない、静寂の世界で。

「これが私たちの暮らす街」

「名前はなんというのでしょう」

「ないよ、そんなものは。ただ」

「ただ?」

「いや、今は止めておきましょう。いずれ」

 言葉を切り、彼女は立ち上がった。私もそれに続く。下げた紙袋が揺れている。

 坂を下りる。ふと視線を上げた目に映るのは。

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