テラスでお茶を
坂を下りる街灯が儚げに揺れている。
扉に背を向け、広場を出る。闇ばかりのこの世界でも、私の足は止まることなく進んでいく。
長くはない道を下り、その場所へ出た。
それは一つの境界だった。大きな門と、その先に広がる広い庭。門は開いている。私を招き入れるかのように両手を広げている。
私は足を進めた。
門を越える。私が通るのを待っていたかのように、ゆっくりと閉まっていく。数歩進んだ時、小さく錠のかかる音がした。
見えてきたのはやはり大きな洋館だった。真新しくも見え、また幾年もの歴史を刻んでいるかのようでもあった。
扉は体が通る程度開いていた。その先は見えない。だが、胸の奥に湧き上がる暖かい感情、懐古の情が、知らないはずの記憶を呼び覚ます。私はこの場所を知っている。
扉に手をかけ、体を滑り込ませる。いつかの中の私もこんな風にここへ入った。
玄関ホール。薄暗く、奥は闇に沈んでいる。ただ、壁に沿って上る階段は燭台によって照らされていた。私は迷うことなく階段を上っていた。
灯りは少ない。浮かび上がる燭台に導かれるように廊下を進んでいく。突き当たりに、再び扉。門や玄関と違い、小さな扉は完全に閉じている。
私が開けるのを待っている。
取っ手に手をかけて、少しだけ考える。昔のことを。そして、少しだけ前のことを。
ああ、きっとあの時もこんな気持ちだったに違いない。そう思うと巡り合わせのおかしさに笑みがこぼれる。
さあ扉を開こう。彼女が待っている。
これは、いつか見た風景。
月明かりに照らされたテラス。真っ白な丸テーブル。彼女はその側に立ってカップにお茶を注いでいた。私はゆっくりと歩いて彼女の元へ向かう。
彼女に手が届くほどになって足を止める。彼女は既に席に着いている。その視線は目の前に置かれたカップに向けられている。
彼女の座る反対側にはもう一つのカップ。何を言えばいいのか分からない。
数瞬はそのまま止まっていた。ただカップから上がる白い湯気だけがゆらゆらと揺れていた。
「座ったら」
沈黙を破ったのは今回もまた彼女だった。彼女は一度も私を見ていない。だが、少なくとも今すぐ追い出されることはなさそうだ。
彼女の前に座る。私が座ると彼女はようやくといった風に紅茶に口をつけた。私もそれにならう。味は分からないが、暖かい。
彼女は怒っているだろうか。一口飲んだカップから手を離し、俯いたまま。記憶の中の彼女はもっと明るかったように思う。あるいは、変わってしまったのだろうか。
話したいことはあるはずなのに、何を言えばいいのか分からない。伝えたいことはあるのに言葉が出てこない。まるで恋する乙女のようなもどかしい思いが私の中に渦巻いていた。
無言の時が流れた。気がつけばお互いのカップが空になっていた。ただ胸に落ちる熱だけが残っていた。少しだけのどが軽くなった気がした。
「お久しぶりです」
ただ一言だけ、しかしようやく口に出せた。彼女を見て、はっきりと。彼女は聞いているのかいないのか、相変わらず顔を伏せたままだ。まつげがわずかに揺れたように見えた。
「三年ぶりでしょうか。あの約束を覚えていますか。ようやく果たすことができました。あれから変わりありませんか」
努めて明るい声で話しかける。一度話し始めれば言葉は止めどなくあふれてくる。ただ、謝罪だけはしてはいけないと分かっていた。それはきっと、彼女を何よりも裏切ることになる。
「私は、少しだけ変わったかもしれません。あなたは昔と変わらず綺麗ですね」
「そんなお世辞も言えるようになったのね。あんな小さかった子が」
彼女はくすりと息をこぼすと、ようやく顔を上げ、私に向かって微笑んだ。
ああ――変わっていない。だってこんなにも私を虜にして離さないのだから。
「あの時でも十五ですよ。それにあなたと一つしか違わない」
「十分よ。何より、中身が違う」
「確かに」
私たちは二人で笑った。月夜に二人の声が澄んで通る。ここに来るまではあんなに闇が深かったのに、今は遠くまで広がる森が見渡せる。
「お互い、大人というやつになったのかもしれないわね」
「そう願いたいですね」
「今度はずっとここにいられるの?」
「もちろん、そのつもりで来たのです」
「そう……」
彼女は一瞬表情を陰らせたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「部屋を用意しなければならないわね。色々教えなければいけないことも」
「お手数おかけします」
「来る前に連絡が欲しかったわね」
そう言って彼女はカップの取っ手を掴み上げ揺らした。二人分用意されていた紅茶について、私はあえて聞かなかった。
彼女は席を立って私が入ってきた扉へ向かった。それに続く。
「昔話やこれからのことは落ち着いてから、ね」
「これから……」
「不安?」
彼女は足を止め私を振り向く。私は首を振って、微笑もうとした。
「ただ、これからというのがなんだか不思議で」
「あなたはここへ来た。向こうではなく。それは変化なのよ」
「私……」
ふいに、私は柔らかいものに包まれた。彼女が私を抱きしめたのだと気づくまで少しだけ掛かった。
「安心なさい。これからは私が側にいるわ。あなたが望む限り」
更に強く抱きしめられる。私は抵抗せず、彼女の胸に顔を埋めるようにして身をゆだねる。優しい香りがした。
「嬉しかったわ、来てくれて。約束、守ってくれると信じてた」
「そんな、私こそ……」
私も彼女の背中に腕を回した。そして、ぎゅっと力を込める。
言いたいことはたくさんあった。伝えたいことはまだまだ残っていた。その中で、一番最後になるはずだった言葉が、心からあふれ出す。
「ごめんなさい……私、こんな」
「いいの。みんな、きっと許してくれるわ」
私は彼女の胸で泣いた。悲しいとか苦しいとか、今まで感じたことのある感情とは何かが違っていた。初めて経験する涙だった。
そう――全て分かっていたはずなのに。
もはや言葉はなく、ただ涙を流す。