第7話 Re:森にあるもの 前編
あれから、2週間の月日が流れた。
何事か為すには短く、何も為さずに待つには長すぎる期間。
良くも悪くも退屈のしない数晩を過ごし、僕は再び、あの時の森を訪れていた。
2週間前、彼女と出会った森に。
あの日と同じ、冷たい空気を肌に感じ取っていた。
庭も同然に慣れ親しんだ森中。
5感で受け取れる情報も普段通り、ほとんど何も変わらない。
ほとんどと言うからには、当然、最低でも1点以上は普段とは異なる点があらねばならない。
天気や気温、狩りの獲物に至るまで、全ての条件が等しい日なんて、ありはしない。
けれど、1つだけ、あえて大きな差異を挙げるとすれば──。
この日、この森には──僕の他にもう1人、招かれざる客がいた事か。
※※※
僕は横たわっている。
苔や雑草が敷き詰められた天然の寝具。その上にうつ伏せとなり、全身を投げ出している。
惰眠を貪っている訳ではない。むしろ逆だ。先程から猛烈な睡魔に襲われてはいるが、それに従う事は許されていない。
これは拷問か?
既に3時間以上も、僕は一歩たりとも動いていない。呼吸も最低限。時折、手の中にある小説の頁をめくる程度だ。
足元というか腹の下には、苔に覆われたふかふかの土が盛られている。
今、何もかもを投げ出して、その目を閉じてしまえば、心地よい夢の中へと旅立てるのだろう。
しかし、それはできない。
正に今、仕事中だからだ。
そう、仕事──目の前の状況を監視していた。
寝転がった僕からはどうやっても見えないが──僕の数メートル先、その地中には罠が張られている。
地中に仕込んだ罠──落とし穴である。
人間1人くらいならすっぽり入る深さの穴に、びっしりと木製の杭が敷き詰められている。
その気になれば、子供でも作れる簡素な仕掛けだ。
しかし、もしも人が落下すれば、重症を負うことは避けられないだろう。
言い訳がましくなるが、この手の罠は僕の趣味ではない。言うまでもないかもしれないが、人を傷つける恐れがあるからだ。
では、僕は何故この罠を用いるのか?
用いる理由というか、用いない理由が無かったというべきか。
断る理由が無かっただけだ。
もし、陥穽が法的に禁止されていたのなら、僕は如何なる状況だろうと、それを利用する事はなかったはずだ。
だが、僕の住む村、あるいは国にそんな規則は無い。
それ故に、僕はその手段をとってしまったのだ。
僕はじっと待っている。
小説の頁をめくりながら。
1頁めくる度に、小説の登場人物達はころころと新しい物語を作り出す。
彼らが紡ぐ言葉を頭の中で反芻していると、頭の中が冴えわたっていくようにすら感じる。
読み進めるほどに、不思議と眠気も引いていく。
その小説を半分ほど読破した頃だったか。
遠くから声が聞こえた。
小説の登場人物達が僕の脳内で繰り広げる会話ではなく、それが現実の声だと気づくまでには、数秒の遅れがあった。
「はははは」
指先が力み、めくっていた頁にうっすらと痕がついた。
額に載せていた本を除けて、上空を見上げた。
……まだ昼前か。
「ははははははーっ、遅い遅い! そんなに遅いと、私が喰ってしまうぞ、獣畜生があぁああ!!」
清流のように透き通る、高い声。
女性の声。
どこぞの女性の声が聞こえたのと同じ方向から、地響きまで聞こえる。
そして、それらの音は段々と大きくなりつつあった。
「時間通りといえば、そうなんだけど……ふぁあ」
僕は欠伸を噛み殺しつつ、本に栞を挟んだ。
閉じた本を鞄にしまい、立ち上がる。
次いで、音の発生源を目撃する。
其れは、分厚く黒い毛皮に覆われていた。
其れは、ビー玉のように小さい漆黒の瞳を携えていた。
其れは、四足歩行の獣であった。
そして其れとは、僕のよく知る奴だった。
遠目に眺めようと、僕がそいつを見間違うはずがなかった。
――1匹の猪。
身の危険から遠ざかるべく、全速力をもって爆走する獣の姿があった。
そして、その背後。
「ひゃっひゃっひゃああはははははっ、はははははああははは!!」
悪魔のように奇声を上げる──ある女性の姿も。
金の巻き毛に青い瞳、やや細身な体型。
ほんの2週間前に出会ったばかりの少女──ティールが前方を走る猪を追いかける光景が、僕の目の前に広がっていた。
ティールは瞳孔をかっ開き、口端を三日月状に変形させていた。
──狂喜乱舞。
逃げる猪を追い回す少女の姿は、その一言に尽きた。