第6話 僕が決めた日 その2
少女の記憶は――血だまりの底から始まっていた。
それ以前の記憶は無いんだ、と少女は無表情のまま、どうでも良さそうに呟いた。
気が付いた時には、むせ返るような鉄の臭いが鼻腔に充満していたという。
視界が朱に染まっていて、世界は夕暮れのようで。
母親の胎の中にいるようなものだったと、少女は自嘲するように小さく笑った。
際限ない赤の中に、彼女は横たわっていた。
指先一つすらも、自分の意思では動かせずに。
徐々に薄れてゆく意識、狭まりつつある視界。
少女が恐怖を覚えたのも、仕方のないことだった。
やがて、目に映る全てが鮮血から、黒一色に塗りつぶされた。
景色は消え去り、恐怖に喉を震わそうにもそれすら叶わず、1人の少女のちっぽけな自我が意識の底に沈みかけた――その寸前。
「うわあああぁああ!!」
今際の際に上げるような、ある男の慟哭が聞こえた。
何も分からぬ状態ではあったが、その声がこれまでの自分以上に怯えていることは明らかであった。
それを聞いた彼女は「よかった」と思ったらしい。
自分は孤独ではないと分かり、少しだけ安心できた、と。
その直後、少女の意識は完全に途絶え、次に目覚めた時には見知らぬ天井を眺めていた──。
そこまで説明した途端に、少女は僕の方を向き直り、姿勢を正した。
透き通るような水色の瞳が、此方をじっと見据えていた。
僕が思わず目線を外したことを気にする素振りもなく、まるで母が子にそうするように、彼女は穏やかに微笑んで言った。
「あの声は、君だったんだろう? ありがとうな」
※※※
その後、彼女としばらく他愛のない話をした。
それで明確になった──彼女が殆どの記憶を失っていることが。
驚くべきことに、彼女は自分の年齢や出身地すら覚えていなかった。
一瞥した限りでは、僕より5、6歳は年下に見えるが、それを確かめる術すら、僕達は持ち得なかった。
彼女が憶えているのは、生活を営むのに必要な最低限の知識と──自分の名前だけ。
──ティール。
それが少女の名前だった。
「ティール──ティールさん、か」
眼前に座る少女の名を、その響きを確かめるように独り言ちて、僕はある疑問を抱いた。
家名は無いのか。そう質問する僕に、彼女――ティールは首を横に振ってこう答えた。
──その有無すら憶えてないなぁ。君はどう思う?
ティールはそう言ってから、正直に、思ったままを答えてくれれば良いよ、と付け加えた。
僕は数秒頭を捻った。
そして、言われた通り正直に、どうでも良いと答えた。
ティールは一瞬だけ狐につままれたような表情をして、それから軽く吹き出した。
※※※
僕はティールのいる病室から出て、廊下を歩いていた。水や軽食を取りに行くためだ。
すっかり忘れていたが、僕も彼女も全く食事をしていない。
僕が最後に食べたのは昨日の昼食だし、ティールに関しては論外だ。
ふらつく足取りで、僕は歩き続けていた。
職業柄、ここの医務室には度々世話になっている。
獲物を狩りに行ったはずが、むしろ自分が狩られかけることも珍しくない。
故に、この建物のどこに何が置いてあるかは、完璧に把握していた。
僕の身体は、常にどこかが壊れている。
ある日は頭に包帯を巻き、またある日は腹に大きな切り傷を残し、また別の日には足首に大火傷を負っていた――なんてことは日常茶飯事だ。
自然の過酷さは言わずもがな、僕の注意不足も理由の1つかもしれないが。
なんにせよ、僕は生傷の絶えない男だった。
そして、いつからか、先生は僕の手当てをサボるようになった。
かすり傷程度ならしょっちゅうだし、その程度の簡単な手当てなら、自分でやった方が早い。
……時折、本当に重症を負っていても、相手にされないことすらある。
あの先生が適当なのもあるが、包帯や消毒液の無断使用くらいなら黙認される程だ。
それはさておき、僕が先生から教えてもらったのは、手当用の道具や薬品の場所だけではない。
先生御用達の茶葉や葉巻、医学書の山でできた小さな書斎など。
現在、蝋燭片手に向かっている──台所もその1つだ。
蝋燭の火に引き寄せられて、僕の周囲にコバエが集る。
適当に虫を払い除けていると、やがて、廊下の突き当たりに1つの扉が現れる。
僕は預かっている鍵で扉を開き、無遠慮に足を踏み入れた。
蝋燭の灯りに照らされて、周囲の景色にぼんやりとだが、確かな輪郭が描かれていた。
目の前にあるのは、ガラス張りの戸棚に蛇口式の水道、そして流し台。
棚には果物を初めとした数日分の食料が備蓄されている。
僕は棚から一玉のリンゴと皿を取り出す。リンゴだけを手に取ると、つま先立ちになって背筋を伸ばして、上部に手を掲げる。
文字通り手探りで、僕はあるモノを探す。
探し物は、ものの数秒で見つかった。
掌の感触だけを頼りに、目当てのモノを握りしめる。掌の形状にフィットするよう、なだらかな曲線を引いた柄。蝋燭一本から成るささやかな灯りを反射して、銀色に鈍く輝く刃先。
手にした果物包丁をじっと見つめる。
よく手入れされた包丁だ。
僅かに傾けると、刃に僕の顔がちらりと反射する。
一瞬だけ見えたその顔は、今にも泣き出しそうな程に歪んでいた。
「……………………よかった」
ほとんど無意識に、その言葉を吐露していた。
目を閉じると、瞼の裏側が赤く染まった。
そして、その中心にいるのは、ティールと名乗った金髪の少女。
森の中で、僕が銃撃した少女の姿だった。
血まみれで地面に倒れ伏す少女の姿が、いつまでも網膜にこびり付いていた。
あの時、僕はティールを殺すつもりだった。
否――「あの時」とか「だった」などといった表現は適切ではないか。
今現在も同じ気持ちだからだ。
ティールが魔女であれば、何か起きる前に殺害せねばならない。
村を守るために。
僕の責任を果たすために。
あの少女が魔女やそれに連なる者であれば、いつでも殺せるように。
そう、決めている。
少女をこの村に連れてきたのは、僕なのだから。
※※※
扉を3回、軽く叩く。
やがて「どうぞ~~」と間延びした声が、扉を介して聞こえてきた。
返事の後で、僕はゆっくりと入室する。
部屋の中には、先刻と同様にベッドの上で体を丸めるティールがいた。
ティールは僕と僕が持ってきた盆を見た。
そして、盆に載せられたリンゴの存在に気が付くと、ぱあっと目を輝かせた。
「おいしそーっ!!」
初めて見せる年相応の少女の笑顔に内心動揺させられつつも、僕は何とか平静を装っていた。
この程度の些事で慌てふためいていたら、年上としてみっともないし、何よりも、僕にはまだ言わなければならない事があるのだ。
「……どうしたんだい、少年。そのリンゴ、早く食べようよ」
何も言わずに、木偶みたいに突っ立っているだけの僕に対して、ティールが訝しげに眉を顰めた。
その瞬間、止まっていた秒針が動き出したように、僕の心臓が早鐘を打ち始める。
手に汗が滲むせいで、盆を取り落としそうになった。
表情筋を引きつらせながら、僕は提言する。
「……これを食べたいなら、一つ条件があります」
「条件? 内容によるけど、何だい?」
緊張のピークにある僕と違い、ティールはまるで実家でくつろいでいるようだった。既に、僕が切り分けたリンゴを二切れは食べている。今に三切れ目を食べる頃だ。
その様子が妬ましくもあり、ほんの少し、羨ましくもあった。
僕は言った。
「これからは、僕の家に住んで下さい」
「……………………え?」
ティールの手から、リンゴが一切れ零れ落ちた。