第5話 僕が決めた日 その1
ギイ、と低い音が鳴った。立て付けの悪い扉を、力任せにやや強引に開いた事による音だった。
装飾の無いシンプルな木製扉だ。扉の表面は白く色あせて、積み重ねてきた年月が一目で分かる程だった。
扉を開けて、僕は思わず鼻を摘んだ。部屋の内部には、カビや埃、人の垢等の混じり合った臭いが充満していたからだった。待合室よりも質の悪い空気だった。
……こんな調子だが、衛生面には何ら問題ないと、以前コールタール先生から聞いた事がある。
先生曰く、清潔な空気の中に身を置いていると、人の免疫力は低下し、結果的に心身の不調に繋がる──らしい。
単純に、先生が掃除嫌いなだけという説もあるが。
まあ、真偽のほどはどうでも良い。
僕はこの診療所で働いている訳ではない。あの人には日頃からお世話になっているが、結局は赤の他人。
僕が口を挟む筋合いなど無いのだ。
あるいは、今の僕にとっては、あの子が適切な処置を受けられるか否かが全てで、それ以外眼中にないだけかもしれないが。
……。
…………。
………………今、ほんの少し違和感があったような気がする。
ドアを開けたまま、僕は数秒静止した。
今しがた感じた違和感について、真剣に思案していた。
考え込んだ挙句、結局答えを出す事ならず。
僕は埃まみれの一室に足を踏み入れた。
──先程まで、コールタール先生が診断していた少女のいる部屋へ。
***
「やっと入って来たな、このシャイボーイめ!」
部屋に入るなり、嬉しそうな声が僕を出迎えた。
往年の親友に呼びかけるようなその声の主は──
「…………」
「無反応は流石に傷つくぞ? というか君、ボーイって年齢じゃあないな。20代前半……22歳とかかな?」
──1人の少女だった。
大口開けて欠伸をかます──色素の薄い金髪の少女が其処に居た。
蝋燭の火に照らされ、寝台の上で胡坐をかく姿がぼんやりと浮かび上がっていた。
口角を上げて、快活に笑う眼前の少女に、僕は質問した。
「……いつから起きてたの?」
思っていたよりも大きな声が出ていたようで、少女は両手で耳を塞ぎながら、顔を顰めた。
あるいは咎めるような声音だったのか。
どちらにせよ、少女は面白くなさそうに唇を尖らせていた。
「ついさっきだよ。5~6分前くらいかな」
少女の返答に、口にこそ出さなかったものの、僕は内心落胆した。
丁度そのくらいの時間帯と言えば、僕が先生と話していた頃だったからだ。
つまり、先生と少女は入れ違ったのだ。
先生が退室してからすぐに少女は目を覚まし、知らない天井を見上げていた、という話なのだ、これは。
僕は頭を抱えた。
「やっぱり、今からでも呼び戻した方が良いんじゃあ……」
「呼び戻すって、誰を?」
少女は上目遣いで、僕の顔を覗き込むように言った。
その目には、純粋な疑問の色が見てとれた。
確認の意味も込めて、僕はゆっくりと口を開いた。
「君を手当してくれた人とは、何か話さなかった? こう、白衣を着た白髪のおじいさんで、身長は僕より少し高いくらいなんだけど……」
「ああ、医者ね。なるほど、ここは病院、あるいは診療所か」
少女はポン、と手を叩いた。
周囲を見渡しながら、合点がいったように、深く頷く。
自然と、僕は胸を撫で下ろしていた。
「そうそう。先生とは何か話さなかったの?」
「いや、私が起きた時、この部屋には誰もいなかったぞ。状況確認も兼ねて、見知らぬ天井を眺めながら、如何したものかと呆けていたところ──」
少女は指を僕の顔に向けた。
「君が来た、のさ」
少女は何故か、ドヤ顔でそう言った。
鼻先を指で突かれながら、ひとまず僕は溜息を吐いた。
そして、内心でぼやいた。
先生、せめて患者が起きるまでは近くにいて欲しかったな、と。
でも、眠たかったろうし仕方ない、と責める気にもならなかった。
僕が一人で納得していると、唐突に、目の前の少女が「そういえば、気になっている事があるのだけれど」と切り出した。
その後、投げかけられた質問の意図が、僕には一瞬分からなかった。なんなら、揶揄っているのかと疑う始末だった。
けれど、この少女にとっては間違いなく、心の底から知りたいと希う事であった。
少女の声はそれだけ切実で、真剣みをおびていた。
これは後から分かる事なのだが、少女は──
「どこも痛くないのだが──私は何の病気でここにいるんだ?」
──少女は、記憶喪失だった。