第34話 木陰に腰掛け休息時間
それは、鬱蒼と茂る林の中に身を置いていた夕刻だった。
ゴーリ村の出立前に、僕はダイデムから数冊の古本を購入していた。手持ち無沙汰になったら読もうと、それらを馬車の中に積んでいたのである。しかしまさか、こんな場所で読む羽目になろうとは思わなかったが。
雑木を背もたれに、水筒の中身をちびちびと舐めながら、古臭い歴史小説をぼーっと流し見していた僕に、クラウンは神妙な声音で訊ねてきた。
「なあ、覗きって何故いけないんだ?」
「……何言ってんだ、アンタ。それは──」
理解不能なぼやきに思わず砕けた口調で返してしまったのは、仕方のないことだったと思う。
およそ10歳以上は離れているであろう年長者が発したとは思えない、ある意味では純朴な子供がする様な質問に、僕は思わず冊子をめくる手を止めて。
僕と同様に黒いフードを目深に被り、樹木に寄りかかるクラウンを見、首を捻った。
「…………いや、でも。いざ説明するとなると難しいですね、これは」
「そうだろう?」
返事に窮する僕と同様、やはりクラウンも真剣に悩んでいたらしく、深く首肯した。
※※※
クラウンの引く馬車の旅が始まってから、早いもので1日目が終わろうとしていた。
結果から言うと、僕らの旅は順調に──行くはずもなかった。
10分おきにティールが吐くので、その都度馬車を停めざるを得ない。どれだけ馬力のある怪物であろうと、腹に刺し傷抱えたままでは、実力の断片も発揮する事はできないという事か。
あの後すぐに、僕とティールは御者台から降りて目的地まで徒歩で向かい始めたのだが、そんな事をすればどうなるかは想像に及ばなかった。
クラウンの脚であれば、本来は半日と掛からぬ道のりだったはずが、日没になっても未だ目的地には到着しなかった。
といっても、もう数刻も進めば目的地が見えていてもおかしくないのだが、その頃には時計の針は天辺を指していただろう。
それだけは、『何が何でも』避けたかった。
故に、僕らは道中で通りがかった水場付近で野宿する事にしたのである。
水場をぐるりと囲む雑木林に馬車を置き、就寝の準備を終えた辺りで、ティールがおずおずと挙手をした。
──ちょっと、身体を洗ってきても良いかな。
頬を僅かに朱色に染め、眉を下げるティールの顔には困惑の色が濃く出ていた。
我ながら痛恨事ではあったが、一日中歩き詰めだったからか。その表情を一見するまで、僕はその事をすっかり忘れてしまっていた。
その事とはつまり、そう──彼女がクラウン送迎により、吐瀉物の臭い漂わせる様になっていた事をだ。
※※※
「言っとくけど、お前のせいだからな。リドリー君よ。出発前に聞いとけよな……」
「……すみませんでした」
「……………ったく。調子狂うぜ」
ティールが水浴びしている間、僕とクラウンは2人それぞれ木々に背を預け、座していた。
例によって、僕の方は読書で時間を潰していたのだが、クラウンは違うのか。見張りと言えば格好は付くけれども、要は鼻つまみ者として追い出されていると言えなくもないのだから。
その上、出鼻を挫かれた事も相まって、彼は舌打ちを抑える気配もなく、ガリガリと頭を掻いていた。
しかし、彼の大袈裟ともいえるそれらの仕草は、却って僕から緊張を取り去ってくれた。彼の悪態を聞くに、本気で苛立っていたのではなく、ポーズである事は既に知っていた。
恐らく、これから説明するのに必要な建前なのだろう。僕はそう推測し、彼の御高説に耳を傾ける心算であった。
そして、そんな僕の予想通りに、彼は若干やテンション高めに切り出していた。
「俺の魔術は『変身』──名の通り、自分が想像できる動物に変身できる魔術だ。想像力さえあれば、基本的に全ての動物に変身できる……いいか、もう一度だけ言うぞ。変身できない動物はいねえんだ。何を言いたいか分かるか?」
彼は嘘を吐くのが下手だ。それは、この短い期間会話をしただけでも明らかだった。
いや、下手という訳じゃあないか。
性格的な理由からか、彼本人に隠し事をする気がないのだ。
例えば、正に今。
高圧的に、己の優位性と此方のミスをあげつらおうとしている様にも見えるが、間違いなくフリだ。それを裏付けるのは、ニヤついた彼の表情。
表情と声が、全く噛み合っていない。
「……知ってたら、馬車なんか引っ張ってこなかった。もっと小さくて軽い車両を選んでくれば良かった──ってのはもう、何遍も聞きましたよ」
僕は後頭部で腕を組み、木陰に身を預けながらそう言い返した。
旅が始まってから、この手の苦情は既に十や二十で利かない程度には承っている。すっかり慣れたものだ。
彼は別段怒っている訳ではない。こういう風に、冗談を言うタイプってだけだ。
「分かってるならいーけどよお。本当に悪いと思ってるなら、何か詫びがあって然るべきなんじゃあねえのかい」
「詫び?」
グヘヘって感じの笑い声が聞こえそうな底意地の悪い笑みと、膨らんだ鼻腔を見せびらかして、彼はそう要求した。
流石に現役の犯罪者か。性格の悪い表情には、随分と慣れていらっしゃる事で。
「詫びってのは、何をすれば?」
そう短く訊ねる僕に、クラウンは先刻までと異なり奮起した様に、「言うまでもなく、1つしかねぇだろーがッ!」と声を張り上げた。次いで、バッ!と擬音が聞こえそうな勢いで右の腕を振り上げる。
腕の向く先は、森林で囲まれた湖を指していた。更にその先には、1人の少女が居る……はずだ。
そして、それらが意味する事は、どれだけ鈍い僕であっても明白だった。
そう、湖には今、吐瀉物にまみれた全身を清める為に水浴びをしている少女が1人、いた。
「成程、覗きの手伝いをしろという訳ですか」
「あぁそうだ──って!」
得心行った事で掌をポンと叩く僕に、彼は繰り返し頷いて答えるも、すぐに取り乱した様に──。
「声がデカいんだよお前! 聞こえたらどうす」
その瞬間、一筋の閃光が僕たち2人の間を駆け抜けた。目にも留まらぬ速度の光は、湖の方角から迸った様に見えた。
打って変わって切迫したクラウンの悲鳴を遮り、その光の正体は近くの木の幹にめり込むと、ようやく視認できる程度にはなった。
けれども、まさかその正体が何の変哲もない小石でしかないとは、思わなかった。
次いで、鼓膜を響かせる心地よい美声が、やはり湖から飛んできた。
「聞こえてるからね……リードーリーくぅぅううん?」
美しく、不快感などあろうはずもないのに、何故だが不安になる様な澄み渡った呼び掛けが、耳を打っていた。
僕はたっぷり十秒、思考を練った末に、答えを出した。
「僕悪くないですよね、これは」
※※※
「ところでさぁ、どうやって倒したんだよ、頭領……いや、ザルバ・ド・ティーチを」
「何ですか。随分と急に──そういうの、藪から棒って言うんですよ」
「急なもんかね、あれからもう3週間近く経ってんだぞ。遅いくらいだ! つーか暇なんだよ!!」
「シーッ……声、抑えて下さい。また石をなげられますよ……まったく」
チラチラと視線を右往左往させて湖の方角を警戒しながら、僕はひそひそと声を潜めていた。
けれどもクラウンの方にその気は無い様で、というか先刻怒られたのも忘れたみたいに、いつも通りの軽薄な調子だった。
僕の方こそ、遠慮するのが馬鹿らしくなってくる程に。
「……別に、特別な事は何も。ただ近づいて殴っただけですよ」
嘘は吐いていない。単純に、それ以上でもそれ以下でもないのだが、クラウンはお気に召さなかったらしく、「いや、そういうんじゃあなくてだな……」と細目がちに此方を見ていた。
けれど、向こうの意図を僕が理解していないのが分かるとすぐに、彼は残念そうに肩を落としてみせた。
「あのな、今の俺が求めてるモンはな、暇つぶしの娯楽なんだよ。魔術を使えねぇ一般人が、どうやって一騎当千の魔術師を打破したのか。言うなれば、冒険譚の数ページを読み聞かせて貰おうって具合なのよ。
けんどもなぁ、その数ページを勝手に1行で纏められたら、どう思う? そうだな、つまらないよな?
よし、それを踏まえてもう一度、やり直しだ」
「やり直しって……まあ、別に良いですけど。……ザルバにどうやって勝利したか、でしたっけ。本当に、難しい事じゃあないんですがね」
偉業などでは断じてないと、まるで自戒でもする様に、僕は至って平静にそれからの言葉を述べ始めた。
「覚えてますか、ザルバの魔術──植物の葉っぱを操作するってヤツですけど」
「お前、馬鹿にしてんのか? 葉を弾丸みてーに飛ばして、遠距離攻撃に使ってただろ」舐められているとでも思ったのか、クラウンは吐き捨てる様に言う。
「ええ、そうです。そうなんですけれど、そいつには致命的ともいえる欠点があったんです。ひとえに、火力の低さ。
当然と言えば当然ですが、葉っぱですから。軽いし切れ味も低い。耐久性も──」
「成程な。葉っぱを魔力で補強すれば多少はマシになるけど、そんな事するなら、単純に魔力を球状にして飛ばしても良いもんな。早い話が、あの使い方には無駄が多い、と」
僕は深く首肯して、同意した。
クラウンの言った通り、ザルバの魔術は無駄が多かったのだ。
遠距離攻撃として使う為には、そもそも葉の攻撃力を上げなければいけない。そして、その為には、葉っぱを魔力でコーティングした上で、対象に命中させるまで、そのコーティングを維持する必要がある。しかしそんな事をするくらいなら、最初から固い弾丸等を選べば良いだけの話だ。
何よりも、魔力でコーティングした葉やその射線には魔力が走る為、射出前に察知する事も可能である。無論、魔術に精通した人間にしか察知できないが、裏を返せば、魔術を知る者にとって、回避は容易となるのだ。
隠し玉程度にしておくのが、丁度いい塩梅だろう。
……否、それ以前に、魔術で操作した葉を相手に貼り付けたり、あるいは周囲に舞わせておき、目くらましとして使う方が余程有効だっただろう。
相手の視界を奪ったり、経皮性の毒物を仕込むとか。
使い方には事欠かなかったはずなのだ。
あの魔術は、使い手に恵まれなかった。
「最後まで、ザルバはあの魔術を攻撃手段として用いていた──せめて、目くらましや搦め手に使えば変わっていたんでしょうけど……」
仮に、ザルバがあの魔術を使いこなし、身体能力や武芸にも秀でていたとしたら──僕は負けていたかもしれない。
間違いなく、潜在能力はあったのだ、と。
「だから、でしょうね。ザルバ・ド・ティーチは一般的な魔術師よりも、遥かに弱かった。僕の育ててきた弟子達の誰よりも──当然、クラウンさん。あなたよりもね」
「……何の事やら、さっぱりだな」
クラウン──あの村に居たもう1人の魔術師は肩を竦めて、そう返事をした。
そして、自分で言っておいて何だが、ここまで来ると訊ねずにはいられない疑問があった。聞くなら、今しかないなと直感した。
自然と、その疑問は口を吐いて出ていた。
「クラウンさん、どうしてザルバの下に付いていたんですか。それも、魔術を隠していた理由は何ですか。貴方が本気を出せば、ザルバなんて瞬殺だったはずです。自分より弱い相手に、それも無条件で付き従うなんて──あり得ない」
「……あり得ない、ときたか。まったく、質問が多くて困っちまうな」
矢継ぎ早な僕からの質問に、クラウンは一瞬だけ目を丸くして驚いた風に見えた。
困った様にポリポリと後頭部を掻くと、彼は数秒閉眼し、悩む素振りをした。
暫くして、「さっきお前が言った事と被るんだけどよ」と前置きしてから、話してくれた。
「別に、大した理由じゃねーよ。面倒事はゴメンだった、それだけさ」
「面倒事は嫌い…………ですか」
──じゃあ、どうして僕達の旅には文句を言いつつも、付き合ってくれるんだ。
僕がそう訊ねるより先んじて、それを読んでいたかの様に、間髪入れずに彼は言った。
「だって、監獄暮らしよりは、何処行ったってマシだろう? 小旅行みたいなもんさ」
清々しい笑みを浮かべ、答えを教えてくれたクラウンに、僕は「そういうものですか」と訊ねようとした。
僕は刑務所に服役した事はない。けれど、彼にはあるのかもしれない。
もし、そうなら聞いてみようと、口を開いたその時だった。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!??」
その金切り声が彼女のものだと理解するより先に、僕は跳び出していた。
クラウンが「あ、何だ?」と遅れて立ち上がろうとする気配を、背中で感じていた。
僕は『この森に入る前から』着用していた黒フードを目深に被ると、背後のクラウンに吠えた。
「外套着て待機! 5分待って僕達が戻らなければ、息を潜めて! 完全に日が没するまで、誰にも見つからないで下さいよ!!」
「──へ? お、おう!!」
未だに理解が追いつかないながらも、指示に従って木陰に身を潜め始めたクラウンに、内心で安堵すると、僕はより力強く踏み込んだ。
直後、踏み込んだ地面が爆ぜ、砂埃が舞った。同時に僕の身体が前方に浮いた様に直進する。
瞬間的に、馬化したクラウンをも上回る速度で、僕は駆け出していた。
「……あれ、俺でも勝てるか怪しいんじゃね?」
※※※
態々言うまでもない事だが、水場にはすぐに到着した。
元々、十数メートルしか離れていないのだ。こんな事もあろうかと、何かあれば数秒で駆け付けられる様に準備していた。
「え、あ、え!? ……リド君? なな、なんで!?」
そう、そして──僕は眼前の光景を目撃した瞬間、恐れていたその何かが起こっていた事実に、気付いてしまった。
僕の到着に顔を赤面させ、瞳をあらん限りに見開いた全裸の少女より、余程重篤な問題に。
「あ、あぁあ…………」
一糸まとわぬ姿のティールは、当然パンツも履いていない。肌白の細脚が、無防備に露出していた。
普段の僕であれば反射的に視線を逸らしていたはずなのに、今この時に限ってはそんな気は欠片も存在しなかった。
むしろ、その健脚付近に転がっている小岩から目を離してはいけないと、誰かが頭の中で警鐘を鳴り響かせている様な気がした。
「に、に…………にげ…………」舌が乾き、上手く回らない。呼吸がうまく、酸素が全く吸えない。
「…………え? ど、どうしたの……リド君?」
いつの間にか、ティールが此方を心配そうに眺めていた。羞恥はあるはずだが、それどころではない危機にある事を、僕の尋常ではない様子から察してくれたらしい。
次いで、僕の視線の先にある小岩の方を、彼女も見やった。
「え、もしかして、これ……本当に?」その表情が、驚愕から恐怖に変わっていく様は、見るまでもなく明らかだった。
「…………残念ながら、本当でしょう」恐らく、僕も似た様な表情をしていただろう。
血の気が引いた真っ青な面に、今にもへたり込みそうな程に力の抜けた足腰で。
それでも、最低限やるべき事はやらねばと、僕は彼女の手を取り、言った。
「今すぐここから逃げますよ……メデューサはッ! 『奴ら』は今、人間を襲ってるんですから!!」
水面にその身を横たえる──ヒトの、少年の様な形状をした小岩。
否、少年の様な、ではなく。それは紛れもない、元人間で。
『他者を石化させる能力』を持つ、魔物の被害者だった。
全身を石に変質してしまった、哀れな人間の成れの果てが投棄された、その水場から逃げ去るべく、僕は予備の黒外套をティールに着せた。




