第27話 朝から夕
それは、もうそろ1日が終わろうとしていた、とある夕刻のこと。
本来なら、何の予定もなかったのなら、とっくに夕食を用意している時間だったが。
どういうわけか、その日はそういう訳にはいかなかったのである。
灯りの1つも付いていない、ぼんやりとした薄闇の中。
窓際のベッドに腰掛ける青年が1人と、その向かいの床に座る少女が1人。
一方は僕、リドリーであった。
幽々たる室内にて目の前に座る輪郭だけの少女を、僕は何するでもなく見下ろしていた。
もう一方の少女に、僕は言った。
「……僕が怒っている理由、分かりますよね?」
「…………はい」
その暗さ故、少女の顔は判然としなかったが、その声は遠慮がちに発した様に感じられた。
かつ、普段と同様にお調子者が多用するリズムではなかった。
心から反省しているのか、それとも怒髪天の僕に遠慮してか。
少女は珍しく素直だった。
室内には、肉が焼けた様な臭いが充満していた。
鼻孔に炭を突っ込まれたかと勘違いしてしまう程の異臭、その発生源は、目の前の少女からであった。
見れば、少女の髪や皮膚にはまだ焦げ跡が存在するし、少女が身じろぎする都度、パラパラと何かが落ちる。
フケの様でもあるその塵芥は、全て粉末状に細分化された炭だった。
服は綺麗なものだが……着替えただけだろう。朝方とは、違う服を着用している。
見た事は無いが、火事場泥棒とはこの様な恰好をするものではないだろうか。
一見したところ、火の取り扱いを誤っただけにも見えなくはないが──そうではない事を、僕は知っている。
何故、こんな事になってしまったのか。
話は半日前に遡る──。
※※※
午前中、自宅のリビングにて。
僕はティールに勉強を教えていた。
勉強と言っても、文字の読み書きや算術に関するものではない。
魔術の基礎知識についてだ。
ほんの3日前、僕はティールを弟子に取った。
話を聞いて、彼女は魔術方面の知識をほぼ持たない事が分かった。それこそ、面と向かって魔術を放たれた経験も、ザルバと遭遇するまではただの一度も無かったらしい。
良い風に解釈すれば、それだけ安全な環境で過ごしてきたということだ。
けれど、悪く言えば、それだけ興味・関心が無かったとも言える。
ティールの家には傍付きの魔術師が居たと聞く。名前は確か……メディアだったか。聞く限りでは、随分と優秀な魔術師の様だったが。
なにせ、貴族の家に護衛として雇われる程の逸材である。戦闘力は申し分無いだろうし、その上回復魔術においては、瀕死のティールの治療を確実に成功させる程の腕前である。
一般的な回復魔術では、骨折程度の治療しかできない事を鑑みれば、やはり魔術師としては一級品に違いない。
正直、僕なんぞが寝る間を惜しんで教え方を練るよりも、メディアとやらが護衛の片手間に教える方が、遥かに効率的だろう。
もちろん、弟子に取ったその日の内に、彼女には直接そう告げたのだが、当の本人はと言えば。
『私、あの人苦手なんだよな。無口で何考えているか分からないし。かと思ってだらけきっていると、いきなりしかめ面浮かべてきて怖いんだもの』
──という具合に、欠伸を噛み殺した様な詰まらなそうな顔をして、ぶつくさ文句を言う始末だった。
前半は兎も角、後半はあんた自身のせいだろう、とは面と向けては言わなかったが。
閑話休題、そんな訳でティールに授業をする事になった僕が、まずは基本的な座学から始めたのは、至極自然な流れだった。
ティールを弟子と認めてから今日に至るまで、僕は懐かしの学習教材を持ち出し、授業を行っていた。
その日も普段通り座学を執り行い、僕自身もようやく他人への教え方を思い出していた。
そろそろ良い時間になってきた事もあり、僕は教科書をパタリと閉じた。
「──と、こんな所ですかね」
「……ほうほう」
この日は、魔物についての授業を行った。
授業と言っても、教科書に書いてある基礎的な内容を頭に染み込ませるだけだが。
曰く、歴史上、この世界で最初に発見された魔物は、人型の魔物だったとか。
曰く、最初にこの世界に魔物を放ったのは初代の魔王だったとか。
曰く、魔物には生殖器官が無いのにも関わらず、何故か常に一定数存在するとか。
等々、魔物に関する周辺知識を入れた後、僕は授業を終える前に――あくまでも応用知識として、キメラについて説明する事にした。
「キメラ――合成獣の事ですね。複数の魔物を掛け合わせた、特殊な魔物の事を指します。……くどい様ですが、素材に使われる生物は魔物だけです。ですからあくまでも分類上、キメラは魔物だと言われています」
「なーるーほーどーねー」
「…………」
きっと、僕は驚くほどに詰まらない顔をしていたはずだ。
唇をへの字に曲げて、眼下で俯く少女を前に、しかしこれぐらいは指摘しても構わないだろう、と再び開口する。
「キメラの身体は複数の魔物から構成されています。その為、通常の魔物とは異なり、キメラが使用する魔術は1つでは──あのうティールさん、もう少しで終わるので、それまでは話を聞いて下さいよ」
「……うん? めっちゃ聞いてるよ。ホント、ホント……」
僕の指摘などつゆ知らずと言った様子で、ティールは視線を机の下に向けながら、生返事をする。
首を直角に曲げているので、端から見れば居眠りしている様でもあった。
しかし、そうではない。
先般より向けられているティールの視線の先からは、パラパラと小冊子をめくる音が聞こえるからだ。
「そうですか、すごいですね。僕ならきっと出来ないなあ──娯楽小説に目を通しながら、授業を受けるなんて。流石だなあ」
「え! ……いつからバレてた?」
「最初から気付いていたに決まって……まあ良いでしょう。僕もそろそろ休憩したかったので」
「いやあ、ホントにごめんね? あまりに面白すぎるものだからさ、この本」
バツが悪そうな表情をするティールだったが、その目は爛々としていた。
よっぽど面白い本なのだろう。僕の詰まらない講釈を聞いている時よりも、余程充実したひと時だった、と目が語っている。
……正直、少し興味が湧いていた。
「差し支えなければ教えて欲しいんですが、何の本を読んでるんです?」
「ん、これだよ」
そう言って、彼女が差し出してきた本の表紙には、しゃれこうべのイラストと共に『妖怪大百科』の文字が記されていた。
僕の本棚から引っ張ってきたのだろう。読んだ覚えがある。
内容は、確か──。
「東洋の……怪談話でしたっけ」
自分で言っておいてなんだが、不思議な感覚だった。
どうしても、ティールが能動的に本を読むイメージが湧かなかったのだ。
目を白黒させている僕に向けて、ティールは今しがたまで読んでいたであろう頁を見せると、子供の様に顔を輝かせて言った。
「凄いんだよ、これ! ユーレーっていうの。足が無いのに、あらゆる場所に神出鬼没する怪物さ! ……これも、魔物なの?」
「……魔物かどうかは知りませんが、ある意味ではティールさんと同族ですね。死なないし」
「なるほど。親近感というヤツかもねえ」
「あの、僕が言うのも変な話かもしれませんが……今みたいな物言いをされたら、普通は怒るものでは?」
「……そういうものかな?」
そう言うと、ティールは顎に手を当てて、考え込む様に唸り出した。
放っておく訳にもいかないので、僕は適当に流す様に言った。
「そういうものです。……そんな事より、授業はこれで終わります。何か質問は?」
「特には──あ、いや、待って。1つだけあった」
「何ですか」
「今しがた言っていただろう。キメラはあくまでも、「分類上」は魔物なんだって。何で、そういう言い方をしたのかなと思って」
これまた本人には言わなかったものの、僕はやはり驚いていた。
当然の問題として、つい今しがたまで小説を読んでいたはずのティールから、そんな質問が飛んでくるとは思わなかったからだ。
想像以上に、彼女は人の話を聞いていたという事だ。
「ああ、言いましたっけそんな事も。でもあれは……別に、大した事じゃあないですよ。僕が個人的に引っかかっているだけですから」
「それでも良いから、聞かせてくれたまえよ」
「……まあ、そういう事なら」
僕はしばしの間、どこから説明したものか首を捻った後、やっとの思いで開口した。
幸いな事に、どこから説明したものか一瞬迷いこそしたが、言葉はすぐに口を衝いて出た。
「これは仮定の話なんですが……キメラの素材が人間だとしたら、どうでしょう」
「は?」
「人間と人間を掛け合わせたキメラは、元のまま人間なのか。それとも、別の何かに分類されるのではないだろうか──って話です」
「…………」
「もちろん、人間を掛け合わせたキメラの開発例は、過去1度だってありません。倫理的にも、技術的にも難しいそうですから」
「……あまり気分の良い話じゃあない」
「そうですね。でも、もしもこの先の遠くない未来に、そういう生命体が誕生したらどうなるのかな、って」
それまで難しい表情をしていたティールだったが、僕の話を聞くなり頬杖を付くと、納得した様に鼻息を立てた。
「成程。魔物でも同様の事が言えるんじゃあないかという訳か。随分と、面倒くさい考え方だ」
「そうですね。まあ、否定はしませんよ。実際、世間的にはやっぱりキメラは魔物扱いですから。大抵の書物にはそう書かれているし、僕の様な考え方をする人間は珍しいみたいです。この話をすると、こんな小さな村ですら、変人扱いされますから」
「だろうね。よく分かるよ」
「え? それって、どういう──」
冷笑と共に含みある物言いをするティールに、僕が食って掛かろうとした時だった。
突然、ティールは顔を上げると、指を前に伸ばしていた。
「それはさておき、良いのかい? そろそろ刻限のはずだ」
彼女が指したものは、もちろん僕──ではなく、その背後の掛け時計であった。
自己弁護する訳ではないが、時計は丁度彼女から見て僕の背後に位置していたので、一瞬、勘違いしてしまうのも無理はなかったと思う。
「……刻限って、何のですか」
全く身に覚えのないティールの発言に、僕は目を丸くしながら訊ねた。
……その瞬間、彼女の眉根がピクリと持ち上がった様に見えた。
「だからさ、とっくに家を出る時間だろう。ほら、先生の手伝いで」
「え?」
「……ええ?」
妙だな。
会話を重ねる度に、ティールがやや怒気を帯びた目でこちらを睨んでいる様な気がする。
被害妄想だろうか。
確かに彼女の言う通り、今日の僕にはコールタール先生を手伝う予定がある。
この村では、未だに先日ザルバがやらかした一件の後始末に追われているのだ。
その為に、僕の様な者でも駆り出されている訳だが……。
「……ですから、もう授業を終えているんじゃあないですか。そろそろ先生と約束していた時間ですから」
「いやいや、だからその刻限はもうとっくに過ぎてるんだって」
「はい? そんな馬鹿な……」
溜息を吐きつつ、振り返る。
このお転婆娘がまた何か言ってるよ、と内心毒づきながら。
直後、地を這う様なその声が、自身の喉から発されたものである事に、僕は遅ればせながら気付いた。
「──────────────は?」
時計の長針は、とっくに刻限を過ぎていた。
「やべ」
「……聞くまでもないかもしれないけど、今日の授業はもう──」
「え、ええ! 終わり、もう終わりです。解散!!」
言うが早いか、僕は転ぶ様に駆け出していた。
椅子に掛けていた上着を手に取り、卓上のカップを適当に洗い、鞄を手に取り。
慌ただしく出掛ける準備を済ませて玄関の扉を握り、そこでふと思い出した。
「あ、言い忘れてました。ティールさん、言っても無駄だとは思いますが、今日こそ大人しくしていて下さいよ。くれぐれも変な事を考えない様に!」
「え? 大丈夫だよ、リド君は気にしすぎだな。心外な」
ティールはそう言うと、ころころと鈴の音の様な笑い声を上げた。
出会った頃とさほど変わらない、聞いているだけで癒されていたはずの声。
けれど、今はその笑い声を聞いていると、無性に腹が立ってくる。
何故なら、彼女は記憶を取り戻してからと言うものの──ある一点において、別人の様になってしまったからだ。
そして、彼女は──。
「言っておきますけどね! もしも次に『あんな事』をしたら──」
「ほ、ほらっ! 今日は急いでるんだろ? 私の事など放っておいて、さっさと行きたまえよ!!」
──僕がその一点について言及する事を、露骨に避ける。
実際、今も説教中であるにも関わらず、ティールはぐいぐいと僕の背中を玄関口に押し込んでいた。
部屋の隅に追いやられる塵ゴミよろしく、僕は追い出されつつある間も、彼女に訴え続けていた。
「兎に角、アレは我慢して下さいよ。もう3日連続ですからね!?」
「分かってる。何にも心配要らないってばさあ」
「その気の抜けた返事が、尚更信用できないって言ってんですよ!! ああもう、行ってきます!!!」
「ああ、行ってらっさい~~」
ひらひらと手を振りながら、間延びした声を上げる少女に見送られつつ、僕は家を出た。
手伝いには、当然遅刻した。
※※※
「はあ……疲れた。それに、遅刻するなんて」
夕方、自宅への帰路を辿る最中、僕はこの日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
手伝いに遅れた結果として、コールタール先生からは特段誹りは受けなかった。
ただ、舌打ちを1つや2つ頂戴した程度である。
……大した事ではない。
肩を落とし、数秒ごとに溜息を吐きながら帰路を辿っていると、いつの間にか自宅前まで辿り着いていた。
一日中、先生の手伝いを熟した事による疲れからか、それとも別の理由なのか、僕は魂の抜けた様な声を出した。
「ただいま帰りましたーー……って、あれ」
玄関を開き、覗いた居間には、ティールの姿は無かった。
瞬間、以前の様に床上に倒れている彼女の姿を想起するが、そういう訳ではなかった。どこにも姿が無いのだ。
「あの人、また……! ……いいや、決めつけるにはまだ早いけど」
一瞬嫌な考えが頭を過ぎるのを、僕は頭を振って制止する。
まだ彼女がやらかしたと決まった訳ではない。
出掛けている可能性だってあるじゃないか。
そうだ、そうに違いない。
「ティールさん、居ないんですか」
動揺する自分自身を強引に納得させようと、家中へと声を張り上げた時だった。
二、三回、椅子が倒れる様な音が聞こえた。
音の方向は、2階からだった。
その音は、この家に僕以外の人間が存在する事の証明の様なもので、ここ数日で聞き慣れた音だった。
音の発生源たる少女曰く、「私ってどうにも色々な物に身体をぶつけやすいみたいでさ」との事である。
僕は安堵と同時に大きな落胆を覚えつつ、すぐさま2階へと繋がる階段を駆け上がった。
音が鳴った部屋の前まで辿り着き、扉を開ける。そして、室内を覗き込むまでもなく、そこで起こっている事を僕は既に知っていた。
玄関の鈴の音が来客を告げる合図であるのと同じくらい、明確な事だった。
「……まあ、こんな事だと思った」
げんなりとした僕の視界に映るものは、この家の居候本人と、その私物であった。
有体に言えば、僕はティールの自室の前に突っ立っていた。
扉は開いていた。
私物と言っても、寝具と椅子が部屋の隅に追いやられてるだけの、さもしいものだった。
性格の割に几帳面なのか、潔癖なのか、あるいは物欲が薄いのか。……衣服や日用品をどこに収納しているのか、まるで見当が付かない。
いつ見ても殺風景な部屋だな、と僕は思う。
物が少ない為に、少女は部屋の中心部で胡坐をかいていた。
その姿を一見した後、僕は眉をしかめて言った。
「いつになったら、『それ』を止めてくれるんですかねえ…………」
「リド君おかえり~~、『それ』って何の事だい? ちょっと良く分からないなあ」
「この──!」
ティールは明後日の方角を向いて、下手な口笛を吹いていた。
尚の事、彼女に対する怒りがふつふつと湧いてくる。
飄々とした態度の彼女に、思わず僕は額に青筋を立てていた。
無意識に震える拳を懸命に抑え込みつつ、彼女に怒声を浴びせかける。
「『自殺ごっこ』の事ですよ! ……まったく、今回は何やったんですか。僕にも分かる様に説明して下さい」
──自殺ごっこ。
僕の告げたその言葉に、少女はびくりと肩を跳ねさせる。
「せせせ説明も何も、今日は何もしてないよ? 私は大人しく読書を……」言い訳がましく、この部屋にはないはずの本を探し始めた少女に、僕はたまらず言い放った。
「臭うんですよ、ティールさん」
「…………え?」
瞬間、少女の表情が凍り付いた。
一拍置いて、少女は自身の体臭を気にする様に、すんすんと鼻をすすり出した。
信じ難いことだが、どうやら僕に指摘されるまで、かけらも自覚していなかったとみえる。
「嘘、だよね……?」
そう言う少女の顔は、先程よりも幾ばくか青ざめている様に見えた。
けれども、まさか彼女に限って、本当に気に病んでいるとは思えないが……。
兎も角、僕は目の前の光景をあるがままに伝えた。
「残念ながら本当です。かなり焦げ臭いし、毛髪も先端部が僅かにチリチリしてます。足裏は微妙に再生が間に合っていないみたいで、肉が露出していますし…………もう一度言いましょうか? かなり臭いです。換気した方が良いですよ? さっきから、人肉を焼いた様な香ばしい匂いが部屋中を漂って──」
「ああ、ストップストップ! 私が悪かったから、その辺にしてくれよお!!」
ティールは赤面し、未だ座したままの床をバンバンと叩いた。もっと、床は大事に扱って欲しい。
相変わらず、顔色がコロコロ変わる人だ。とてもじゃあないが、僕には到底真似できない芸当である。
「……何でもかんでも、偉そうに講釈垂れれば良いって訳でもないだろうに──」
「あの、話を戻してもよろしいでしょうか?」
「えっ、あっ、はい!」
ぶつくさと吐き出されるティールの愚痴を聞かなかった事にして、僕は訊ねた。
そのおかげで、珍しく畏まったティールの返事を聞けたので、得をしたとでも思っておこう。
しかし、それはそれ、これはこれである。
一応、立場的にも言っておく必要のある事柄は、まだあるのだ。
「ティールさん、今日は──焼身自殺ですか。部屋が綺麗なところを見るに、実行に移した場所は、この家の中ではないっぽいですが」
「…………まあ、そうだね」
ティールは、比較的素直に犯行を認めた。
漸く観念したか。
「僕、自殺未遂はこれっきりにしろって言いましたよね? やっぱり人の話を聞けないんですか、ティールさんは」
「いや、まあ、そういうのじゃあないんだけどね……?」
何が悪いのか、いまいちピンと来ていない顔を、少女は僕に向けていた。
そのままに、言った。
「悪い事なんだろうな、ってのは承知しているつもりさ──理屈の上ではね」
※※※
記憶を失うより以前、その少女──ティール・フォン・ヴァンディットは自殺未遂の常習犯だった。
首吊り、飛び込み、入水に餓死、ついでに薬……その他諸々。
果ては、実母の眼前における飛び降り自殺。いや、未遂だったか。
誰に頼まれた訳でもなく、思春期の健康的な少女がそんな真似をする理由は、おおよそ単純なものだったと言う。
好奇心、そんな可愛らしい動機であったと。
詰まる所、再び記憶を取り戻した少女が同じ事を仕出かさない理由など、この世の何処にも有りはしなかった。
記憶が戻ってからと言うもの、少女は連日、自殺未遂を試みた。
僕はそれを知って尚、何も声を掛けられなかった。
掛ける言葉を持たなかった。
いや、制止の声を上げるぐらいはした。
しかし、それだけだ。
僕には、それ以上踏み込む事が出来なかった。
何故か。
答えは1桁の演算をするよりも簡単だった。
怖かったのだ。
師匠と弟子という関係にも関わらず、僕は他者の、ティールの抱える問題に首を突っ込む勇気が無かったのだ。
とんだ笑い種である。
後から振り返ってみれば、僕にはいくらでも機会があった。
ティールが最初に自殺を試みた理由──彼女が僕に伝える事を『意図的』に避けた、その情報を得る機会が。
その千載一遇の機会を、僕は逃した。
一人の少女の不器用な生き方を、「自殺ごっこ」とも茶化した。
そんな、どうしようもない奴だったから、かもしれない。
結果として──それから遠くないうちに、彼女は僕の前から姿を消した。




