第1話 起き抜け自殺
其処は何も無い白い部屋だった。
部屋の中央に腰を据えて、僕は紙とペンを握っていた。
ボロボロに擦りきれて、辞書くらいの厚みがある紙束に、夢中で字を書き込んでいる。
夢の中で、僕は執筆をしていた。
これが夢だと分かるのは、あまりにも下らない理由によるものだった。
ひとえに、筆が進みすぎていたからだ。
1頁がほんの十数秒で。
5頁がたった数十秒で。
100頁を書ききるのに、三十分とかからない速さであった。
白磁色だった頁は刹那、黒に塗りつぶされる。僕は、雨のように書き込まれた手帳の一頁を指先で摘まむと、一思いにそれを引きちぎった。
破り捨てられた紙片が、くるくると宙を舞う。
僕はちらりと見て、すぐにそれを視界の外に追いやった。
それが地面に触れるより先に、夢の中の僕は次の頁を仕上げてしまうのだろう。
頁に書き殴られていた文字は、いずれも僕の知らぬ言語ばかりであった。
文字通り、文章を紙片に書き殴っていた僕は、さながら聖書に登場する悪魔のようであった。
何かに取り憑かれたとしか思えない程の狂気が、その全身から滲み出ていたためだ。
声にもならぬ雄叫びを喚き散らしながら、僕は目にも止まらぬ早業をもって、その文書を書き記していた。
書き始めてから、どれくらいの時間が経った頃だったか。
自然と、ため息が漏れた。
其れが実際に在ったものなのか、夢の中のものだったのか、ついぞ僕には分からなかった。
知るすべも無かった。
夢は其処で終わった。
※※※
朝。
カーテンからの日差しが、僕の鼻先を照らしている。光は宙に舞う塵芥を巻き込み、真っ直ぐに伸びている。
ふわふわと宙を舞い踊る大量の埃を、僕は寝起き特有の半眼でぼんやりと眺めていた。
何の気なしに、僕はベッドに視線を移す。
……念の為に言っておくと、この家のベッドは一つしかない。当然だ。僕は一人で暮らしている上に、ここは宿屋でもないのだから。
だからそのベッドは、ごく当たり前に設えられた一人用のものだった。僕の身長で使うには少し小さく、足を折り曲げねばならないのが玉に瑕だが、それでも愛着のある一品だった。
寝心地を改善するべく、一面に干し草を敷き詰められている。簡素な造りだが、何処でも眠れる僕にとって、そのベッドの上は極上のオアシスにも等しいものだ。
そして、僕は現在──その寝具を傍から見上げていた。
より具体的に述べると、木製の床上に寝そべる格好で一、二メートル先にあるベッドそのものを見ていた。
僕は床に直接横たわっていた。
シーツを一枚敷いてはいるが、寝返りを打つと身体の節々が少し痛んだ。
肩肘を付いて、窓の下にある寝具を見るでもなく見ていた。そのまま数秒間、何もしなかった。ただ二、三度瞬きして、深く深呼吸した。
それだけだ。
「うわあああああ!!」
僕は慌てて床から飛び起きた。足がもつれて、尻を打った。
尻とは別に、全身が打ち捨てられた小石のように痛かった。木製の床に身体を横たえていたのが原因だが、そんなことはどうでも良かった。
僕は再びベッドの上に視線を戻した。
――見間違いでは無い。
本来なら在るべきものが、其処には無かった。
……というより、何も無かった。
ベッドはもぬけの殻だった。
しわの一つもなく折り畳まれたシーツが、ひっそりと端のほうに寄せられているだけだ。
額から一筋の汗が流れ落ちる。
頭はとっくに冴えていた。
もし、この場に他の誰かがいたなら、そいつはきっとこう言ったことだろう。
──何を困っているのか分からない、と。
そうだろう、ああ、そうだったろう。
僕も同じ立場だったら、一言一句同じ台詞を並べて、首を傾げてみせたはずだ。
残念ながら、そうはならなかった訳だが。
「まさか──ッ」
僕が弾かれたように振り向くのと、背後の握り玉に手をかけたのは、ほぼ同時だった。
使い古された木製扉が、ぎいと悲鳴を上げる。
乱雑に扱った扉が軋むのを無視して、僕は部屋の外の廊下へと駆け出していた。
息も絶え絶えに階段を下る。腐り掛けの床板が僅かに沈んだ。
一階に辿り着くと、右手側に扉が見えた。僕はそれを開いた。
其処はこの家のリビングにあたる一室だった。
部屋の中央のテーブルを、二脚の椅子が取り囲んでいた。
卓上には二人分の朝食が用意されていた。
薄くスライスされたバンにちぎったレタス。昨日の作り置きのスープ。
そして、湯気の立ち上るコーヒー。
質素なものだが、僕にとって理想の朝食が其処にあった。
まさに、一日の始まりを告げるに相応しい光景だった――。
──そのどれもが、僕の興味を引かない点を除けば。
僕の視線はある一点へと釘付けになっていた。
食事の並べられた卓子より窓際。
それは、洗濯物のように天井へと吊るされ、太陽光を全身で浴びていた。そこから、僕は目を離せずにいた。
それの足は、宙に浮いていた。上肢も一緒にだらりと垂れ下がっていた。長い金髪が仮面のように顔を覆い隠していて、首から上が見えなかった。
それはヒトというよりも、モノと形容すべき代物だった。
ある意味で最もヒトに近く、またある意味では限りなくヒトから遠い――。
──要するに、死体であった。
天井から伸びた縄が、ヒトだった物の首に巻き付いていた。
宙を彷徨い、行き場を失った足の下には、高さ数十センチ程度の踏み台が転がっていた。
それは首を吊って死んでいた。
呼吸を確認するでもなく、脈を図るまでもなく、いっそ笑いがこみ上げてくるほどに、それの死は明白だった。
その上、十中八九自殺だ。
僕は額に手をやって嘆息した。
それは――否、彼女は、今しがたまで僕が探していた女性だった。
恐らくは僕が起床するより早くに目覚め、卓上の朝食を用意した後、絶命したのだ。
であるならば、彼女は確実に死んでいる。
この国のどんな名医にも救うことはできないだろう。
なぜなら彼女は――自殺未遂の常連なのだから。
※※※
不意に、深い息が漏れた。
それが如何なる心情から出たものなのか、僕には分からなかった。
喜怒哀楽のどれにあたるのか、将又それ以外の何だったのか、僕自身にも不明だった。
ただ、眼前の光景から目を離そうとは思えなかった。
「……………………」
黙ったまま、一歩前に出た。
もう一歩、もう一歩と。
気づけば、僕の鼻先に彼女の顔があった。
一見したところ、ただ眠っているだけにしか見えないが、彼女は呼吸をしていない。吐息の一つも無い。
死んでいるのだから当然だが。
突拍子もなく、僕は彼女の手を握った。脱力した掌は雪解け水よりも冷たかった。
しばらくの間、僕は俯いて動かなかった。
ほんの数分、あるいは数刻を黙って過ごしていた時だった。
どこからともなく、蛙の鳴き声のような低音が聞こえた。その正体はすぐ判明した。なんてことはない。僕の腹が鳴っていただけだった。
僕は彼女から手を離した。
朝食がまだだったと、遅ればせながら思い出したからだ。
「………………よし」
ポンと手を叩き、卓子の方へと居直った。
席に着こうと、肩を竦めながら歩を進めた。
――その肩を掴まれた。
僕は肩越しに振り向いた。
そこにいたのは、件の女性だった。先般と同じように首に縄を巻き付けられて、宙吊りになっている女性。
彼女の右手が僕の左肩を掴んでいた。
その細腕に掴まれた僕の半身は、ピクリとも動かせなかった。偏に重すぎたためだった。大人一人分にも匹敵するような重さが、僕の肩に乗っているように感じられた。
肩の骨が軋んでいるような気さえした。
僕は痛みに顔を顰めながら、できるだけ冷たい声で言い放った。
「いつから起きてたんですか?」
突き放すような、それでいて咎めるような僕の訴えを、彼女はけろりとした表情でやり過ごした。
春の微風を味わう詩人さながらに、穏やかな表情をしていた。
じきに彼女は笑って答えた。
「無論、最初からだとも」
僕は彼女の頭を引っ叩いた。
本当に少し、ほんの少しだけ顔が熱かった。
そんな僕を眺めながら、彼女──ティール・フォン・バンディットはいつまでも薄い笑みを浮かべていた。