第9話 毒か宴か
夕刻、香ばしい匂いで目を覚ました。
――鼻腔をくすぐるのは、焼き立てのパンの香り。
その悪魔的な誘惑に、僕の身体は逆らえない。瞼がこれ以上ない速度で開いていた。
重力に従い、頬を伝うヨダレを袖で拭いとり、身体を起こす。
「…………はら、へった」
回っていない頭で、ざっと部屋を見渡す。
壁という壁を埋め尽くす、埃一つ被っていないお気に入りの本棚。
足が腐りかけている古い作業机の上には、放り投げられた鉛筆と、数枚の古紙が散乱している。
そして、陽光の差し込む大窓。
それがこの部屋の全て。他には何もない。
つまるところ、匂いの元はこの部屋では無いのだ。
僕は手早く着替えを済ませ、部屋を出た。
本能に従い1階に降りると、其処には美味しそうな料理の品々と、その奥の方にエプロン姿のティールがいた。
詰まらなそうに頬杖を突いて、ゆらゆらと揺れている。
うつらうつらと舟を漕いでいる様にも見えるが、どうにも眠っている訳ではないらしい。ボーっと虚空を見つめて、口笛を吹いていた。
「~~♪」
儚げで、どこか品のある佇まいだった。
窓から差し込む光の加減も相まって、かなり様になっていた。
黙っていると、まるで深窓の令嬢の様だ。普段の破天荒な性格を知らなければ、思わず見とれてしまっていたかもしれない。
……ただ、唯一文句のつけようがあるとすれば、それは彼女の口笛が──
「おはようございます。いい天気ですねぇ……そう思いませんか、ティールさん!?」
「──んお? …………おおぉ!?」
僕の存在に気が付き、ティールの顔が喜色満面にあふれる。
そして、したり顔で言った。
「よお、やっと起きたな、少年!! お~? もう夕方だというのに、まだぐっすりの寝坊助はどこじゃあ~~?」
彼女は大手を広げて、僕を出迎えた。
大口開けて笑い声を上げて。
ご丁寧にエプロンと三角巾まで装備して。
……不意に、嫌な予感がした。
やや過剰気味にも思える程に有頂天を極めた彼女に、僕は半眼で訊ねる。
「……なーんか怪しいなあ」
「へ?」
手を広げて、間抜けな表情を浮かべるティール。
僕は手前の椅子に座り、先程の彼女と同様に頬杖を突く。
「この間も、そういえばこんな感じでしたね」
「え、何の話?」
「猪を捕まえる前日の話です。当日の仕事について、僕が洗いざらい喋っちゃった日の事ですよ。あの時もティールさん、食事当番だったよなと思って」
「そうだっけ…………気のせいじゃあないかなぁ」
そういうティールさんの顔には、大粒の汗が浮かんでいた。
僕は頭を振って答える。
「いいや、気のせいのはずがない。あの日はやけに眠かったけれど、それなら辻褄が合う。それにあなた、僕が下戸だって知ってるじゃあないですか。僕に酒を盛る手段も、動機もあった。違いますか?」
「…………かもね」
彼女の顔色は悪かった。
良くも悪くも、素直な人だ。思い込んだら真っ直ぐだし、欲望に忠実。
嘘がつけない性格なのだろう。
自分でもあの時はやり過ぎたと感じているのか、申し訳なさそうに肩をすぼめている。
自分からまいた種だが、何と言うか──こういった雰囲気は苦手だ。
「まぁ、別にいいんですけどね。何を盛られようと──明日は休日ですので」
「まさか」
「いえ、嘘なんてついてませんよ。明日一日は、てこでも働きませんから」
「…………」
「…………」
努めて明るく振る舞ってみせたが、あまり意味は無かったらしい。
むしろ、気を遣われている事を察したのか、より一層身を縮こめてしまった。
……やはり、慣れないことはするもんじゃあない。
「あぁ、別に、酒入りの料理を下げろ、なんて言いたい訳じゃあないんです。ありがたく頂戴しますとも。ただ、先日のように記憶を失うまで食べなければいいだけの話ですから。タネさえ分かれば、どうってことはありません……そんなことより、一ついいですか」
「……?」
ティールがきょとんと首を傾げる。
僕は言った──目の前のパンを鷲掴みにしながら。
「こういうことは、今日限りですからね。約束ですよ」
「へっ?」
大口開けて、パンに噛り付いた。
もしゃもしゃと豪快に咀嚼し、飲み込む。
「めちゃくちゃ美味しいです、これ」
「は……なん、どうして」
ティールの目は驚愕に見開かれていた。
よもや、僕が本当に食べるとは思ってなかったって顔だ。
全く心外だ。僕が目の前に差し出された料理を残すはずないじゃないか。
※※※
「……や、休みってことは、どこかに遊びに行くのかい?」
僕の言葉に被せる形で、ティールが言った。
普段通りに振る舞おうとしているんだろうが、まだどこかぎこちない。
まぁ、いつまでもしょぼくれてるよりはマシか。
話題転換としては下手なものだが──ひとまずここは乗っかっておこう。
「遊びに行くというか……強いて言えば買い物ですかね。見てるだけでも楽しいんですけど、やっぱりそういう訳にもいきませんで」
「買い物? 何を買いに行くんだ?」
「何を、って本ですけど」
「……ほん?」
僕の返事が意外だったのか、彼女は目を丸くして驚いている。
……今日は驚きっぱなしだな、この人。
「小説とか図鑑とか、伝記とかですかね」
「本の種類に興味は無いよ……なぁ、それ本当に明日じゃあないとダメなのか? いつでもよくない?」
「ダメですねぇ。明日一日しか、行商人さんは村へ立ち寄らないのです。この機を逃せば、次はいつになるか分かりません」
「仕事は入ってないの?」
「自由に休みを取れるのは、自営業の数少ない強みの一つですね」
ティールは「なるほど、つまりはサボリか」などと納得したように、首を縦に振る。
失礼な。普段やる事やってるんだから、1日くらい好きに過ごしたっていいでしょうが。
僕が不平不満を訴えようとした直前だった。
片手を揚げて、彼女が言った。
「一つだけ、質問してもいいか?」
「……内容によります」
ティールはきょろきょろとその碧眼を動かすと、次いで「これとかあれとかそれとか……」なんて言いながら、四方八方を指で示し始めた。
これ、とは僕が座っている、足が一本外れたボロ椅子。
あれ、とは1日に何回直してもすぐに1時間程度遅れる古時計。
それ、とはひび割れたすりガラス。
どれも、この古家を象徴する重要な要素だ。
「そんな金あるなら、いっそ修理しようとは考えないのか?」
「考えませんねぇ、面倒くさいですし」
心なしかティールの目に、哀れみの色が映る。
「ものぐさだなー。家計簿とかつけてる? なんだったら、私がつけてあげようか? 貯金しよう?」
「ほっとけ」
僕は彼女の作ったスープを一杯飲み干し、おかわりを注いだ。
その後、僕らは彼女の料理を一緒に食べた。
案の定、僕の記憶は途中で途切れたが、1つだけ確かなことがある。
悔しいことに、ティールの作る料理はどれも絶品で、僕が箸を止める隙がなかったという点だ。
意識が途切れる直前、僕が見たのは、料理を平らげられて満足そうに笑うティールの姿だった。




