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Mission Ⅲ

りん…!」


 燐が屋敷に帰ると、待ってましたというように壬冬みふゆが飛び付いてきた。驚いた燐は踏鞴たたらを踏む。


 スリッパのまま三和土たたきに降りることも気にせず、両腕を燐の腰に巻き付ける壬冬は随分と燐に懐いているようだ。


 きっと今夜もすぐそこの階段に腰を掛けて、今か今かと燐の帰りを待ち侘びていたに違いない。


 二人は、任務の都合でここ一週間ほど顔を合わせていなかった。


 その寂しさを埋めるようにグイグイと身体を押し付けてくる壬冬の頭を撫でてやると、手の体温を貪るように額を擦り付けた少年は、嬉しそうに両目を細めた。


「お帰りなさい、燐」


 壬冬が甘えたようにふふっ、と笑う。


 ニットの上に羽織ったパーカーはやけにだぶつき、本来愛くるしいはずの大きな瞳はどろりとしていて今にも溶け落ちそうになっている。


 濃いクマを拵えたその目元を覆うほど伸びた前髪が鬱陶しいのか、玩具のピンが紅茶にミルクを混ぜたような柔らかい色の髪に留められているのを見て、今日は任務がなかったのだと燐は知った。


(じゃあどうして…)


「あれ、まだこんな所にいたの?」


 玄関を開けて入ってきたながれが「おっと」と眉を上げて立ち止まった。


 燐の影から壬冬を見つけると、成る程ねという表情をする。


「壬冬、邪魔邪魔。後にしなって。燐もそんな寒そうな格好してないで、はやく風呂入っちゃいな」

「わー、ちょっと!旒さん、やめて。引っ張らないで!燐、一緒にお風呂入ろう」

「黙れ、くそガキ。――燐は俺と入るんだよ」


 壬冬の首根っこを掴む旒が、妖艶さを孕んだ目で燐を流し見る。


 それを無視した燐がようやく屋敷に上がると、ダイニングからひょっこり顔を出したアリサが「お帰りなさい」と微笑んだ。



 湯船に浸かりながら浴槽の縁に凭れた燐は、ゆっくり目を閉じた。


 身体の中に溜まった空気をふうっと吐き出す。


 思い出されるのは、得体の知れない二人組。


 あの場に偶然居合わせたわけではないであろう奴等は一体何者なのだろうか。なぜあのタイミングで燐を狙ったのだろうか。


 敵を打ちつけた拳の余韻が、手首の辺りを重くしている。


――任務中に何かあった場合、必ず瀧島に報告を入れることになっている。この件も例に漏れず報告が必要であろう。あろうことか血塗れの状態で、一般人に見つかってしまったこともまた然りだ。


(嫌だなぁ)


 丸い色眼鏡が脳裏を過った瞬間、鳩尾あたりがモヤモヤした燐は、バシャンと波を荒立ててお湯に潜った。



 *


 

 湯気を立てながらお風呂から上がった燐は、ダイニングを素通りして二階へと向かった。


 今日は何だか食欲がない。


 もともと燐は食が細い方だが、今日はいつにも増して倦怠感が上回っていて、すぐにでもベッドに横になりたかった。


 だから、階段を上り終えた先にその姿が見えた時は心底舌打ちをしたくなったし、素知らぬ顔で通り過ぎようとした。


 それなのに、ガンッと音を立てて反対側の壁に足を突き立てられては、止まらざるを得ない。


 嫌味なくらい長いその脚を無言で見下ろしていた燐は、やがてゆっくりとその持ち主に視線を向けた。


「お前、あの後何してた?」


 腕を組んで壁に背中を預けたろうは、首を傾げた。


 すでに夜も深まった時分だというのに、シルバーアッシュの髪も宝石のような翠眼にも、まるで隙がない。


 その粗のない造りから視線を逸らすと「聞いてんのかよ?」と、狼が声を低くした。


「眠いの、明日にしてくれる?」

「あ?」

「だから、眠いんだってば。退いて、邪魔」


 狼の脚を押して無理やり通ろうとすると、影が燐を覆うように一気に動く。

 

 正面から首を腕で押さえられた次の瞬間には、燐の背中は壁に縫い付けられていた。


「くだらねえことぬかしてねえで、言え。あの後何してた?」


 狼の長い脚が燐の膝を割り、前髪が触れ合うほど近くに互いの顔がある。


 今日二度目の距離に眉を顰めると、狼はすっと、双眸を細めた。


「身体に訊くか?」

「拷問でもする気?」

「……来いよ」


 言うが早いか、燐の膝の裏に腕を差し込んで横抱きした狼はすぐ近くの部屋の扉を押し開けた。


 真っ暗な部屋の中にぽつりと設られたベッドに放り投げられた燐の身体がマットに沈むと、その上から狼が覆い被さる。


 そして、燐の服の裾に手を掛けると一気に脱がせた。


「ちょっと…!」


 殴られると思っていた燐は気付けば下着姿になっていた。


 慌てて身体を起こそうとしたが、剥ぎ取られた服に伸ばそうとした手は呆気なくシーツに縫い付けられてしまう。


 視線が絡むと、その怒気を帯びた顔つきに燐は息を飲んだ。


 月の光が絡まり、煌めく銀色の髪が狼の美しさに拍車を掛け、崖に立つ孤高の獣のような猟奇的な瞳には今にも喉笛を掻き切ってしまい勢いがある。


 耐え難い苦痛を強いられているというのに、まるで本物の狼を見ているかのような気高さと美しさに燐は目を奪われた。


「暴れんな」

「っ、最低」


 ハッとして吐き捨てた燐は狼の眼から逃れるように横を向いたが、どういう訳か狼の視線がゆっくりと肌をなぞる気配を身体が敏感に感じ取る。


 布越しの胸、腹、腰の辺りと目線が下がる度に視姦されているような気持ちになった。


「ほっせえ身体」

「いいから早くして」


 擦り合わせていた膝が割り開かれた時は精一杯去勢を張ったつもりだったが、やがて顎に掛けられた指によって正面を向かされると、完全に動揺し切った自分の顔が翠眼に映った。


 身体を丸めることすら許されず、窓から差し込む月光に照らされる燐の雪のような白肌。


 狼は眩しそうにその目を細めた。


「何で言わねえ?」


 狼の人差し指がクン、と燐の顎を持ち上げる。その仕草は粗暴さこそあったが、さっきまでの怒気はすっかり鳴りを潜めている。


「…狼なんて嫌い。大っ嫌い」


 燐は譫言のように呟くと、目に温かいものを滲ませた。


 するり、と頬を撫でた雫が顔の脇に向かって流れ落ちた。


 それを狼の親指が拭い去る。


「意味分かんない」

「あ?」

「さっきまで怒ってたくせに」

「てめえがさっさと吐かねえからだろうが」

「…拷問って言ったのに」

「はあ?」

「言わなかったら拷問って」

「俺は身体に訊くかっつっただけだ。んなこと言ってねえ」

「じゃあ――」


 狼は燐の服を拾い上げると燐の顔を目掛けて放り投げた。


「狼!」


 いよいよ頭に来た燐が服を剥ぎ取り、勢いよく身体を起こすと、狼は部屋を出ていくところだった。


「もういい、訊かねえ。それでいいんだろうが」

「ちょっと!」


 燐は声を張り上げたが、狼は取り合う事なく出て行ってしまった。


 閉まり切った扉に向かって苛立ちをぶつけるように枕を投げる。


 居なくなった狼が、燐の身体に怪我がない事を確認した瞬間どれほど胸を撫で下ろしたかなど、この時の燐は知る由もなかった。


 *


「アリサちゃん、このプリン美味しいですぅ」


 次の日、ダイニングテーブルの向かい側で悶絶する彌渫やちるを見ながら、燐は紅茶を啜っていた。


 さすが、アリサちゃんです!と、甘味を頬張る姿は幼さを感じさせるが、スプーンを握るその小さな手が首の爆弾を作ったと思えば末恐ろしい子どもである。


 腰まで伸びた猫っ毛のサイドをリボンで括り、ピンクが愛らしい着物に身を包む彌渫は、やがてくりくりっとした目で首を傾げた。


「燐ちゃん、どうかしましたか?」

「ううん、久しぶりだなって思って。最近忙しかった?」


 この屋敷の女性陣は仲が良い。


 時間さえ合えばこうしてお茶の時間を共にしていたのだが、最近はめっきり減っていた。


 手を止めた彌渫は「そうですねぇ」としばらく視線を彷徨わせた後「野暮用です」と言った。


 横に座っていたアリサが顔を引き攣らせている。誰だ、そんな言葉を覚えさせたのは。そう思っているに違いない。


 暗黙の了解で互いの任務には不干渉がルールなので、燐は追求せず「そうなんだ」とだけ相槌を打った。


「あとは、作り置きを少々」

「ああ、それでかしら。瀧島さんから預かり物があるの」


 そう言ったアリサはカウンターの影から持って来た紙袋を彌渫に手渡し、その隣に腰掛けた。


「それから言付けも預かっているわ。程々にしなさいって。どういうことか聞いてもいいかしら?」


 瀧島がわざわざアリサを通じて言ったのは他でもない。話を聞けという意味だ。


 それを理解した燐が離席しようとすると、彌渫は慌てて居住まいを正した。


「あの、燐ちゃん。折り入ってお願いがあるのですが」

「何?急に改まって…」

「燐ちゃんから壬冬君に言ってもらえませんか?無理はしないで欲しいって」


 話が見えない燐は首を傾げ、彌渫は薬の原料が入っているであろう紙袋を握る小さな手に力を込めた。


「丸薬の減りが最近早いんです。三ヶ月分渡したはずが、一ヶ月半で瓶が空になっていて…」


 燐とアリサはギョッとした。


 彌渫の話が本当ならば、壬冬は用量の二倍を飲んでいることになる。


 壬冬はまだ丸薬なしでは正気を保って任務を遂行できない。


 とはいえ、言われるがまま薬を渡せば壬冬はやがて過量摂取オーバードーズを起こして廃になるし、渡さなければこの世界では生きられない。


 使い物にならなくなったとわかれば瀧島はいずれ壬冬を始末するだろう。


「やっぱりこの薬を作ったのが間違いだったんでしょうか」


 彌渫が涙を溜めると、そんな事ないというようにアリサが頭を撫でた。


 燐もそれには同感だった。


 日に日に弱っていく壬冬を瀧島やmaster達は冷たい目で見るようになり、チョーカーを起爆されるのは時間の問題だった。


 それを三日三晩、部屋に篭りっぱなしだった彌渫が、扉を開け放つと同時に待ったを掛けたお陰で事なきを得たのだ。


「ねえ、その薬って飲んだらどうなるの?」

「一種の酩酊状態に陥ります。上手く言えませんがキマっている時は夢を見ているような状態でしょうか」

「夢?」

「はい、人間は記憶を整理するために必ず夢を見ます。そして、夢と現実とを区別するため私たちは無意識のうちに夢を忘れようとします。その忘却を誘導する役割を担う神経を活性化させる薬がこの丸薬です。ただ最近はそれが上手く作用していないんだと思います」

「身体が薬に慣れてきたってこと?」

「壬冬君は任務の度に飲んでいるのでそれは仕方のないことです。正常な脳は深い眠りと浅い眠りを交互に繰り返すことで夢を忘れようとしますが、均衡が崩れ、浅い眠りが優勢になるとその機能が上手く働かなくなってしまいます。おそらく壬冬君は今その状態。そして、もうひとつ」


 彌渫は言い淀むと、その年齢にしては随分と難しそうな表情をした。


「壬冬君自身が忘れようとしていない、または何かが原因で忘れられないのだと思います」

「どういう事かしら?」

「悪い夢を見て飛び起きた場合、その夢はなかなか忘れられないですよね?」

「つまり、夢を見ている間に強制的に覚醒させられている?」


 頷いた彌渫は押し黙り、アリサは顎に指を掛け物思いに耽っている。


 立派なホールクロックが時を刻む音を聴きながら、口を開いたのは燐だった。


「それって、悪いのは狼でしょう?」


 彌渫は弾かれたように燐を見たが否定をすることはなかった。


 狼と壬冬が組むと必ずと言っていいほど壬冬が薬を切らして帰ってくることは事実だからである。


「壬冬君自身が忘れようとしていない、というのは?」

「起きたばかりの時は朧げに覚えていたはずなのに気付いた時には思い出せなくなっていたことってありますよね。その朧げな記憶を何度も頭の中で反芻することで意図的に記憶の定着を図ることが出来ます」

「けど、そうまでして覚えていなければならない理由がわからないわね」


 彌渫はこくりと頷く。


 あくまで考え得る可能性のひとつとして挙げただけだったようだ。


「もともと悪い夢は、起きている時の嫌な記憶同様、脳裏に強く焼き付くものです。任務は明らかに壬冬君にとって悪い夢であり嫌な記憶ですので自然と言えば自然なのかもしれません。だから狼君の所為と決まったわけではないのですが」

「でも、狼が壬冬君に良い影響を与えているとは思えない」


 燐がきっぱり言うとアリサは「そうね」と頷いた。


 原因が狼にあるとすれば、たとえ燐が壬冬に諭したところで何の解決にもならない。


 何故なら壬冬はservantであり、狼はその命運を握ることを許されたmasterであるからだ。


「壬冬君、ちょっと話があるの」


 その日の夜、雜藤とともに帰って来た壬冬を捕まえた燐は、少年を自分の部屋に招いた。


 燐の部屋は誰かを入れる事を前提としていないため、必要以上の家具がない。


 仕方なくベッドに座らせると、壬冬は挑発的な目でクッと喉を鳴らした。


「何?俺に何か用?」


 荒々しい口調で不適な笑みを浮かべるその髪は墨を垂らしたように黒く、長い前髪の間から覗く瞳は胸の内を隠すようにピンクサファイアのコンタクトが嵌められている。


 心を塗りつぶすように真っ黒く染められた指の爪、耳に突き刺さる無数のピアス。


 チョーカーの上から重ねているのは、紫の石が光るクロスのネックレス。これが薬がキマり、ハイになっている時の壬冬である。


 この姿を初めて見た時彌渫さえも驚いていたが、やがて「夢を見ている時の自分を本当の自分からほど遠い場所に位置付けることで心の秩序を保っているのではないか」と言っていた。


 壬冬のアイデンティティとして受け入れている燐は、静かに息を吸い込んだ。


「狼のサーヴァントを自分から志願していると言うのは本当?」


 彌渫の話を聞いた晩、燐は瀧島に電話を掛けると自分を優先的に狼とペアにして欲しいと直談判した。


 瀧島は電話越しにもわかるほど驚いていたが、やがて「残念だけど先約がある」と言い断ったのだ。


 その先約が、この壬冬である。


「本当。でも、それが何?」


 組んだ足をゆらゆらと遊ばせていた壬冬が、スッと視線を持ち上げる。


 その豪胆さからはとてもランドセルを背負っている様子など想像出来ず、燐はいよいよ壬冬の年齢が分からなくなった。


「狼とはずっと組まなかったじゃない」

「組まなかったんじゃない、組めなかったんだ。瀧島のオッサンがいつも俺を外すから」


 燐は閉口せざるを得なかった。壬冬の言う通りだったからだ。


 狼と壬冬が組まなかったのは壬冬が音を上げたからではない。周りが見て居られず二人を遠ざけたのだ。


「燐は狼と組みたくないんだろ?だったら、好都合じゃない。俺としてもライバルが減って何よりだよ」


 このままでは分が悪い。


 一瞬、瞑目した燐は質問を変えることにした。


「狼と一緒の時一体何をしてるの?毎回薬切らせて帰ってくるけど、あれは何?」

「さあ?彌渫の薬の効き目が悪いんじゃないの?」

「雜藤とペアの時は切れた事がないのに?」


 次に黙るのは壬冬の番だった。

 

 宝石のような華美な目で燐を睨むように見据えると、やがて不貞腐れるように外方そっぽを向いた。


「知らないよ」

「なら狼とはペアになれないわね」

「はあ?何でそんな事燐が決めるのさ」

「だって、足手纏いじゃない。毎回任務の度に取り乱されてたら迷惑。私がマスターだったら早々に見切りを付ける。まして狼なら尚更――」

「それはない!」


 燐の挑発を遮った壬冬は、言った後に「あっ」という表情をした。


 次いで、苦虫を噛み潰したような表情をする。


 やがて、しらを切り通すのは不可能だと悟った壬冬は、平常心を取り戻すように息を吐いた。


「だって、それが約束だから」

「約束?」

「俺が彌渫の薬を飲まない代わりに狼は俺を任務に連れて行ってくれる。それが狼と俺の約束」

「飲んでない…?」

「そう、狼と仕事する時は彌渫の薬を飲んでない。飲んだふりをしてるだけ」

「…それで平気なの?」

「平気じゃないさ。彌渫の薬がなきゃ毎回胃の中が空っぽになるまで吐くのに、それでもまだ吐き足りないくらい。だけど、狼の拷問ほど惨いものはない。ただそれだけ」


 言っている意味がわからなくて眉を顰めると、壬冬は切なく笑った。


「俺にはたとえ自分を犠牲にしてでも守りたいものがある。ただそれだけの話だよ」

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