Mission Ⅰ
雜藤は、火の上がる屋敷をその細い身体に背負うようにして現れた。
風が吹けば灼熱の柱が勢いよく燃え上がり、煙は茜色の夜空を覆うように立ちのぼる。
パチパチと火の粉が爆ぜると、それはまるで季節外れの蛍のように辺りを漂った。
火の見える窓の向こうに人影のようなものがゆうらりと蠢く。助手席に座って待っていた燐は細く息を吐いた。
心なしか酸素が薄い。
屋敷から車までは十分に距離があるというのに、雜藤が後部座席のドアを開けた時には、熱気が流れ込んでくる気さえした。
「お疲れ様」
燐がミラー越しに労いの言葉をかけると、一瞥した雜藤はこくりと頷き、革のグローブを脱いだ。
今日は今年一番の冷え込みだと言っていた。
ハイネックこそ着ているが身体の線を拾うほど薄いカットソーとボトムは、いくら雜藤といえど師走の夜には身に堪えたようだ。
いつも以上に真っ白になった頬を見た燐は、今日はこれで終わりだからもういいだろう、と、空調を強めた。
「――で、どうだった?」
黙って車を走らせていた瀧島がようやく口を開いたのは、それから二十分ほど経った頃だった。
バックミラー越しにニヤリとその無精髭の生えた口許を歪める。
頬杖をついてぼんやり窓の外の景色を見ていた雜藤は、その真っ黒な瞳を向けると言っている意味がわからないというように眉を顰めた。
「ほら、楽しかったあ、とか。面倒だったあ、とか?なんか感想あるだろ」
(…面倒臭い大人だな)
無駄に芝居がかった喋り方に、隣で聞いていた燐は白い目を向けた。
雜藤に至っては早々に相手にするのを諦めたようで再び窓枠の外に視線を戻している。その隣には手の平ほどの小箱がしっかりと転がっていた。
「やれやれ、気難しいねえ。燐もどうしてこいつが良いんだか」
「…信号、青ですよ」
燐は、瀧島のことが少し苦手だった。
夜だというのに縁の丸い色眼鏡を掛けているところも理解し難かったが、何よりそのレンズ越しに見える目が苦手なのだ。
全てを見透かすような、喉元を掴んで離さないような言い知れない恐ろしさが、視線を合わせることを躊躇わせる。
そして、瀧島もそれをわかっているような笑みをうっすら浮かべると、おっと、と本気かどうかわからない口調で台詞を吐いて、ハンドルを握った。
「お帰りなさい。外、寒かったでしょう」
屋敷に戻った雜藤と燐を迎えたのはメイド服姿のアリサだった。
雜藤は早々に自室に篭ってしまったが、背中を押された燐がダイニングテーブルに腰をおろすと、湯気を立てたハーブティーがたちまち目の前に置かれた。
「お腹も空いているでしょう?今準備するからこれ飲んで少し待ってて」
「ありがとう、嬉しい。けど、アリサちゃんに悪いよ。自分でやるから座って?」
「ううん、良いのよ。やりたくてやってるんだから。それより知ってる?そのお茶マロウブルーっていうの。色が三色になるのよ」
冷めないうちにどうぞ、とアリサは勧めた。
蔦が這った外観は確かに古いが、手入れの行き届いた内装は立派な西洋の屋敷だ。メイド姿の使用人が居てもおかしくはない。
しかし、アリサは給仕や女中とは違う。
彼女の真似事は、腹を空かせた子供達を見かねたのが始まりだった。
平生を顧みれば矛盾も甚だしいのだが、同じ屋根の下で暮らす子供が目の前で衰弱していく様子は見るに耐えなかった。
しかもこの飽食の時代にだ。
無用の長物となっていた立派な家電で数人分だけを作るのは逆に難しく、気が付けば全員分の食事が出来上がっていた。
それからは進んで皆の面倒を見てくれているのだが、釈然としなかった燐は過去に一度だけ無理矢理アリサを椅子に座らせたことがある。
そしてカレーを作ったはずだったのだが、最終的に鍋の中身はどういうわけか黒くおぞましい物体になった。
しかも、においが付くだろうと狼に怒られ、その後ろを雜藤が迷惑そうな顔で出て行ってしまったので、それ以来出来ないことはしないようにしているのだが――。
(あ、本当だ。紫になった)
透き通ったブルーから紫に色が変わり、燐は嬉しくなったが、しばらくして首を傾げた。三色目の変え方がわからないのだ。
時間が経てば変わると思っていたが、冷え切った身体に熱い飲み物は有り難く、思った以上に進みが速かった。もう少しで飲み干してしまう。
アリサは夕食の準備に行ってしまったのでいない。
白を基調とした優美な柄のカップのなかでくるくるとお茶を回していた燐は、仕方ない、と残りを飲み干そうとした。
「檸檬を搾るんだ」
急に掛けられた声に驚いて振り向くと、今までどこにいたのか知れない瀧島が寒そうに首を竦めながら隣に腰掛けるところだった。
(帰ったんじゃなかったのか…)
たしかに、スライスした檸檬が添えられているが、苦手な男が隣に座って居心地の悪さを感じた燐は、ちらっと横に目をやった。
瀧島は知ってか知らずか、ティーポットの中を覗き込んでいる。
どうやら自分も飲みたかったようだが、お湯が入っていなかったようでがっくりと肩を落とした。
それを横目に檸檬を搾る。たちまちお茶はピンクに変わり、燐は思わず目を見張った。
「…綺麗」
「燐も女の子だねえ」
「うざい」
「やれやれ、口が悪いなあ」
苦笑した瀧島は、女の子ならこういうのも興味あるだろ?と言って徐にジュエリーボックスを取り出した。
大きな石のついた楕円型のそれは、燃え盛る屋敷から雜藤が取って来た物だ。
手袋を嵌めた瀧島がボックスを開けると、緑がかったブルーの大きな石がついた指輪がキラキラと煌めいた。
シャンデリアの明かりに翳した瀧島が、満足そうに頷く。
すると、トレイいっぱいに皿を乗せたアリサが戻ってきた。
「それが今日の獲物ですか?」
「そう、パライバ・トルマリン。これだけデカくて発色が良ければ億は下らない。いや、もっとか?」
価値をはかるように目を眇めた瀧島に、燐は気のない返事をした。
「君ねえ、苦労して盗って来たんだからもう少し関心持ったら?」
「アリサちゃん、このスープ美味しい」
「本当?初めて作ったのだけど気に入って貰えてよかった。たくさんあるからよければおかわりどう?」
こっくりと頷いた燐に瀧島は苦笑した。
「花より団子だもんなあ」
この屋敷の住人は、人里離れた山の中で所謂「何でも屋」を生業とするエージェントの集まりである。
自称、情報屋の瀧島が裏の顔で受けた依頼を実行するのがその役目で、物心ついた時には既に世間の爪弾きにあっていた彼らにとって元来タブーなんてものはない。
宝石を盗って来いと言われればその通りにするし、人を殺せと言われれば国の重鎮の首さえ持ち帰る。旧友を拷問することさえ朝飯前だ。――友人と呼べる相手がいれば、の話だが。
仕事の時、彼らは通常二人一組で動いており、それは主導権を握る「master」とそれに従属する「servant」から成る。
一見、masterのサポートがservantの役割のように思える。
だからこそ「足手纏いは御免だ」とせせら笑うmasterも居るが、servantの存在意義はもっと別の場所――その首元に着けられた小型爆弾内蔵のチョーカーにある。
殺傷能力こそ低いが頭ひとつ吹っ飛ばすには十分なそれは、servantが自爆するか、遠隔操作で起爆する。
その起爆暗号キーを持つのがmaster、瀧島のほかもう一人であるため、masterは有事にすべてをservantに着せて消滅させることができるのだ。
つまり、masterにとって servantは使うだけ使って最後は糸に鋏を入れるだけの都合のいい傀儡である。
そうでなくても優れたservantと組めば任務を遂行しやすくなるので、masterから主従関係に対して不満が出る事はほとんどなかった。
問題はservantの方だ。
常時、喉元に鋭利な刃物を突き付けられているのだ。その冷たさは肝をも冷やす。
なかには、いずれ死ぬ命、と捨て鉢になっている者もいるが、いつ切られるかわからない蜥蜴の尻尾に恐怖し寝ることすらままならない者だっている。
たとえ、masterへの不満があったとしても、くだらない仲違いで起爆されては困るので不満を口にすることすら不自由だ。するとさらに鬱憤が溜まる。
燐は、servantのなかでも取り分け生に執着がない方だった。
だから、起爆暗号キーをmasterが持つことに異論はなかったが、それが誰かということは気になった。――日頃折り合いの悪い狼が持つ日は、なんだか落ち着かなかった。
「ところで、壬冬君と彌渫ちゃんは?」
「彌渫は旒と朝から入った」
「旒さん、お忙しそうですね」
「どこが。彼奴が一番手ェ抜いてるよ」
頬に手を当てたアリサが心配そうに溜息を吐くと、ピクルスをつまみ食いした瀧島が鼻で嗤った。
燐は内心、確かにと思ったが、瀧島に同調するのは癪だったので黙々とスプーンを口に運んでいる。
すると、顎を摘んだ瀧島が不意に視線を上げた。
「そういえば、壬冬達遅いなあ」
「マスターは……、嗚呼、狼ですか。また随分と珍しい組み合わせですね」
「余りもの組み合わせたらこうなった」
言って、瀧島は燐を見た。
言わんとしていることを理解した燐が素知らぬ顔で空になったスープ皿を手に立ち上がると、あからさまな舌打ちが聞こえた。
キッチンに向かって鍋の蓋を開ける。
透き通った黄金色を匙で掬ったところで、燐の上から影が掛かった。
「燐さぁ、最近我儘が過ぎない?」
瀧島が、燐の体を囲うように手を着いている。咄嗟に身を捩って抜け出そうとしたが、びくともしない。
悔しさから唇を噛もうとすると、それすら分かっているかのように「やめな」と嗜められた。
「何でそんなに雜藤にこだわるの」
masterとservantの組み合わせは依頼の内容に合わせて瀧島が都度決めている。
そんななか狼と壬冬の相性が悪いのは周知の事実なので、アリサが言うように珍しい組み合わせになったのには理由がある。
当初瀧島から指示されたペアは狼と燐だったのだが、燐が突っぱねたのだ。
結果、壬冬が組む事になるとは思わなかったので、ばつの悪い燐はこうして逃げて来たのだが、どうやら逃げ切れなかったようだ。
かと言って、燐にとっても狼は一番組みたくない相手だった。
気を持て余すようにスリッパのつま先でトントンと床を弾く。
「じゃあ旒さん」
「つまり、雜藤が良いんじゃなくて狼が駄目ってこと?壬冬も駄目、燐も駄目。なら彼奴は誰と組みゃあ良いのよ」
瀧島がクツクツと喉を鳴らして笑う。
その度に燐の頬を吐息が掠めて、燐は居心地の悪さに顔を顰めた。
「彌渫ちゃんか、ア――」
「アリサは駄目ね、俺の『スペシャルお気に』だから」
(何言ってんだ、このオッサン)
「あ?お前、今オッサンっつったか?」
「言ってな…」
「目が物を言ってんだよ」
燐が肩越しに白けた目を向けると、瀧島が燐の頬をつねった。
戯言を言っているようだが、アリサはservantでありながら依頼内容次第では唯一単独行動を許されている。
彼女を抜いても雜藤、狼、旒のmaster三人に対し、壬冬、彌渫、燐とservantの数も足りているので無理に頭数に入れたくはないのであろう。
「アリサちゃんもマスターになってくれたら良いのに」
「無理だな。彼奴にお前は殺せない」
瀧島が嗤った。
それから、燐の体をくるりと反転させて自分と向き合うようにした。
しまった。燐はそう思った。
「何でそんなに嫌なのよ」
レンズ越しに瀧島の目と視線がかち合った。
途端に身体がぶるりと震える。喉の奥が張り付いて言葉が出ない。気を抜けば狼ではなく、瀧島が嫌な理由を答えてしまいそうだ。
逃がそうとしない目に、もう駄目だと思って口を開きかけた時、不意に蛇口から水が流れる音が聞こえてきた。
「あれ?戻ってたんだ、お帰り」
言って、瀧島は水を流した本人――狼の方を見た。
対して、今帰って来たばかりらしい狼は、濯いだグラスを水切り籠に置くと、こちらには見向きもせずに出て行ってしまった。
ハッとした燐は、さながら猫のように瀧島の腕をすり抜ける。
「という訳で、次の依頼、狼と燐だから」
「ちょっ!」
「――燐。數馬さんのお気に入りとはいえ、我儘も程々にね」
キッチンに腰を預けて腕を組む瀧島は、有無を言わせない笑みを浮かべている。
今日はもう勝ち目がないと感じた燐は、スープ皿を手に渋々アリサの元へと向かった。
残された瀧島はシンクの方を見ると、クツクツと喉を鳴らして笑った。
「グラスなんて使わねえくせに」