惘然の眼(フェリア・オプス) その2
エルピスは完全に油断しきっていた。
マイペースで全てが緩徐的なエク。戦闘行動に移るのはそれほど早くなく、動作も遅いと愚かな先入観を抱いてしまっていたのだ。
いま一度エクをよく観察し、次の攻撃に反応できるように姿勢を低める。
体感時間を極限まで伸ばしたため、世界の全てがスローモーションに見える。だが、それでも敵の動きは速い。
道草から滴り落ちた朝露が地面に触れるまでの一秒もないあいだに、エクは振り下ろしていたマサカリを再び振り上げ、三歩でこちらとの距離を詰める。
間髪入れずにもう一撃。
頭上から襲いくる凶器を、エルピスは自慢の脚力で回避。そのままエクの背後に回ろうと彼女の周囲を回るように駆ける。
だが、回り込もうとしても、それと同じ速度でエクの向きが、角度が、ぬるりとリアルタイムで変化する。
彼女の赤い双眸がブレることなく不気味なほどにエルピスを常に捉え続けているのだ。
「無駄……自動追尾」
マサカリで地面をえぐりながら今度は下から上に斬りつけてくる。
咄嗟に煙玉を足元に投げつけ、煙幕を張って逃げようとするエルピスだったが……
「しまった……!」
いま見えている光景は全てスローモーションだ。そんなことすら忘れるほどに切羽詰まっていた。
結果、煙幕が張られるよりも先にエクのマサカリがエルピスを引き裂く。
再び部品が飛び散り、ついに下半身の可動にも明らかな不具合が生じるように。
(左足が動かない……)
躓いてバランスを崩し、そのまま尻もちをつく。
するとどういうわけかエクも驚いた顔で、宙に舞っていた。本来なら転んだ相手を前に追撃しない手はないが、予想していない事態に戸惑っているようだった。
それを見たエルピスは閃く。
エクが宙を舞っているのはエルピスが転んだことで顔が空中に向けられたからだ。彼女は常にエルピスと顔を合わせるように物理法則を無視した移動をする。
試しに顔を真上に向けると、やはりエクはエルピスの頭上にスライドするように移動した。すぐに平静を取り戻し、能力を解除したのか地面への降下を始めたものの、これはチャンスだった。
落下速度は流石に重力加速度に従わざるを得ない。どんな機敏に動く化け物だろうと、地上生物である限り空中では自由に動けないのだ。
さっきまで厄介な速度で攻撃してきたエクが、ただスローモーションで頭上から降りてくる。マサカリを構えてはいるが、不格好な構え。
エルピスは左拳を握りしめ、降下するエクにぶちかますべく構える。
そして、タイミングを図り、拳を突き出す。
だが。
エクは拳と同じ速度で不自然に空中で位置がズレる。拳が突き出た距離と同じ距離、エクの体がエルピスの拳から逃げたのだ。
自分の拳と敵の座標が同期している。そう確信したエルピスは……。
拳を射出した。
ロケットパンチのように手首から先を天高く飛ばし、それに伴ってエクも天へ打ち上がっていく。
空高く飛ばされる前に途中で能力を解除したようだが、それはつまりエルピスの拳を受けることを意味する。
エクの能力は移動速度を他の物体に合わせるものではなく、相対座標を変化させないものであるため、ほぼ静止状態の腹に高速で撃ち出された金属の拳が決まった。
数十メートルの上空から落下したエクは地面の土に頭から突き刺さったが……
「不覚……相手、機械」
地面から頭を引き抜き、エルピスを目で追おうとするが、視界は煙幕に遮られていた。ケホッケホッと何度か咽び、煙の中から脱出するも、既にエルピスの姿はどこにもなかった。