夢想還魂 1
音のない深い闇、静寂の夜。
時間は二十三時。
夜も遅く、光のほとんどない町の夜道を一台の車が走っていた。
遅い帰路。知人が運転する車の後部座席で揺られていた。
その日はかなり疲れていたのもあって車の扉と座席の背もたれの隅に身を預け外の様子を呆っと眺めていると、真っ暗なバス停に座り俯いている一人の男の姿が見えた。
車は常に進んでいて少しの時間で良くは見えなかった。
その男はよれよれのスーツを身に纏っており、その姿からして仕事帰りであるのだと思われるのだが、既にバスの運行時間はとっくに過ぎ終えている。
ならあの人は来るはずのないバス停に何故佇んでいるのだろうか…。
当然それは他人である私の知る由もない。
そう考えながら夜空を眺めていると心地の良い揺れと眠気に襲われて次第に瞼が閉じ行く。
すると微かに横を過ぎ行くバスの走行音と鳥の羽ばたく音が聞えた気がした。
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1996年 春 4月8日
赤上 赤華は目を覚ます。
その部屋にはカーテンとシングルのベット、壁にかけられた時計と薄汚れた水の入ったバケツに床に放置された雑巾と、あまり生活感というものを感じさせない部屋だった。
「…なんでここにいるんだろ」
いつもと違う場所、寝巻きではなくジャージ姿で眠っていた。
寝起きというのもあり、ぼーとしばらく考えていてすぐに思い出す。
ああ、そうだ。昨日大掃除してて終わったあとそのままこの部屋で眠ったんだった。
しまったな…せっかく用意した布団の上で寝てしまうなんて…。まぁ一応余分に用意しているし、後で入れ替えとこう。
時刻を確認しようと壁にかけられた時計を見ると針は丁度早朝の六時を刺しており、窓の方はまだ薄暗い日の明かりが薄いカーテン越しに射し込んで見える。
春の半ばであるにもかかわらずまだそれなりに寒く、温まった布団から出る事に抵抗がありそうなのだが、彼女はすぐに起き上がり体をグ~~~っと伸ばして軽くストレッチを行い、襟元に指をかけて匂う。
「…まぁ、匂わないならいいか」
戸締りを確認して部屋を後にする。
眠気覚ましと冷たい水で顔を洗い、トースターでパンを焼きバターとジャムを塗って食べ、温めたミルクを飲みながら今日の事を考えていた。
壁にかけられたカレンダーには今日が何日か分かりやすいように日の終わりにバツ印が付けられている。
昨日は少し忙しくてバツをつけられなかったから…えっと…
四月八日…そうだ今日は始業式だ。
今日から私は高校二年になる。
午前は在校生達の始業式で、その後新入生の入学式が午後の一時半頃から行われる。となると午後は特にやることも無くて少し暇になりそうだな…。
休み中に家は一通り掃除し終えて家ではあまりやることは無いし…。そういえば休み中は特に何も無くてあの人の場所に行ってないし行こうかな。きっとあの人の事だから掃除なんてしてなくて散らかってるだろうし。
そう一通りの予定を考えて朝食を食べ終える。食器を洗い片付けた後、制服と着替えのジャージを鞄に詰め込み玄関に置いたまま彼女は外に出る。
彼女の出てきた家は二階建てのそこそこ大きく裕福そうな洋館でだった。そのすぐそばに平屋の建物が二つある。一つは一般的な古き民家のようなもので、もう一つは小さな道場である。それら三つの建物は車一台が通れる道を除き森の中なのか木々に囲まれていた。
そんな広い敷地であるのだが、そこに住んでいるのは現在は彼女ただ一人である。
彼女は真っ直ぐ道場の中へ向かい中心に正座をして日課の瞑想を始めた。
周囲が木々の森に囲まれているのもあり、何の音も聞こえない完全な静寂の世界。
一切集中を切らすことの無く時計を見るなど無く、五分ピッタリの瞑想を終えた。
それはまるで機械のようだが、それは彼女がこれまで続けてきた日課だから体か意識が慣れて時間を知らせているのだろう。
瞑想を終えた彼女は雑巾で床ふきを一通りして道場をでて母屋に戻り、時計を見ると7時少しを過ぎていた。仏壇の前に座り手を合わせる。
「お母さん…お父さん…行ってきます」
そう挨拶をして彼女は鞄を背負い家を出る。
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黒のレパードが人目につかない空き地に止まった。
運転手であろうモーニングコートを身に纏う男が出てくる。その男は白髪で少々年をとっているもの、その姿にあまり老いは感じられない着こなしと立ち姿である。
その男はトランクを開き、後部座席のその扉を開く。
そこには学生服を身に纏う一人の少女が眠っているのか窓に肘を乗せ頬を支え佇んでいた。
「おはようございます。お嬢様」
その声に少女はゆっくりと目を覚ます。
「…ええ、おはよう。着いたの?」
「はい」
「そう」
その返事に男は膝に掛けられていたブランケットを手馴れた動作で畳み片付け、少女はシートベルトを外し車の外へ出る。
少女は腕を上へ体を伸ばし、軽いストレッチを行っている間に男はコンビニで買ったのか水の入ったペットボトルを開け真新しいハンカチの様なタオルにかけそれを差し出す。
「こんなもので申し訳ございません」
「大丈夫よ。ありがとうね」
それを受け取り顔を軽く拭う。
「ごめんね。私のわがままに付き合ってもらって…。昨日の夜からしんどかったでしょ」
「いえいえ、仕事ですから問題ありません。それに私めは運転が好きなので」
「そう」
男の素直なその返事に少女はフッと微笑みそのタオルを返すと差し出されたその鞄を受け取る。
「では、お嬢様。お気をつけて」
「ええ」
軽く頭を下げるその男に返事を返し、少女は目的地へ向かって歩み進む。
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駅の前にはバス乗り場がありいくつものバスと車人が行き交っていた。
その場所に深夜バスが到着し何人もの私服姿の人が降りる中、学生服を身に纏う二人が降りてきた。
「やっと着いたなぁ」
凝り訛ったその体を伸ばす。
「け、結構長かったね」
「それにしてもこっちもぎょうさん人おんなぁ」
二人の周囲にはぞろぞろとバスなどから学生やスーツを私服姿と沢山の人がバスを待ってたり降りてきたりとしていた。
「ま、まぁ出勤や登校時間だからね」
「せやなぁ。そんでワイらの行く学校ってのはどっちなんや?」
「え、えっとね」
ポケットから地図を取り出して何度か二三度ひっくり返しながら確認をする。
「あ、あっちだね。あ、あの交差点を左に曲がって、す、すぐだよ」
「ほうか。ならさっさと行こか」
「う、うん」
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赤華の通う、六情高校までの通学距離は10キロ強とかなり遠く、普通であれば自転車やバスといったもので通学するのかと思われるが、彼女は鞄を背負い走って登校する。
そう聞くと、毎日が憂鬱に苦に感じられるものなのだが、小学生の時から約4キロの距離を走り歩きと登校していた彼女にとって長距離登校は慣れたものなのだ。
彼女には走っての登校に拘る理由が幾つかある。
一つ目は朝の空気が気持ちいいというものだ。
あまりに変哲もない理由なのだが、早朝の山の空気はとても心地よいものだ。
二つ、街並みの変化を見ることが出来るというもの。
それはバスや自転車に乗っても見るには見えるのだが、バスであれば途中で止まってもらう訳にも行かないし、自転車であれば、よそ見運転など危険である為にもってのほかだ。
だから、走りが、自分の脚で進むのが一番いいのだ。
そして三つ、それはただの体力作りと言ったところだろうか。
体が怠けないようにする為、衰えさせない為、あと健康的だろうし。とまぁ、単純な理由だ。
恐らく、走るのが好きでなかったり、何かしらの理由が無ければこんなの続けられないだろう。特に雨の日なんて大変だろう。
山を下り、田舎町を抜けて街へと入る。
街と言っても都会と比べると大したものでは無いと皆はいうのだが。それでも自分が住んでいるところに比べれば十分に街と呼べる所だと私は思う。
国道沿いを走り、もうそろそろ学校のすぐ近くにある屋外時計を見るともうすぐ8時になろうとしていた。
ちょうど良いペースだ。
「今日はこっちから行こうかな」
いつもは横に曲がれば真っ直ぐに学校が見える所を通っていたのだが、少し入り組んだ小路へと入って行く。
小路は狭くも出勤中の車や、同じ学校や他校の自転車登校の子達が通るだろうから、歩いていこうと安全確認をしながら歩いていくと小路を抜け市道を挟み校門が見えてくるのだが、校門前に何やら人集りが出来ていて少し騒がしい。
こんな朝に何かあったのだろうか…。
そう、様子を伺いながら横断歩道を渡り人集りへと寄っていくと
「しつこいわね。貴方のその耳は飾りなのかしら」「なんだ!その口の利き方は」と怒声が聞こえてきた。
こんな朝からわざわざ校門前で喧嘩!?
一体誰がそんなことしているのだろうと背伸びなどして人だかりの隙間から覗き見ると人だかりに囲まれた中心に二人の人物が仁王立ちして向き合っていた。
一人は制服を見るにこの学校の生徒なのだが、全く見覚えが無い。
というのも高校の在校生は300人強いる訳だから、覚えてない人も当然いるにはいる。まあ、ほとんどわからないが。だが、彼女のその容姿を見れば見覚えが無い事はないと思える。
とても綺麗に手入れのされたオレンジベージュの長い髪が緩やかな風になびいている。
中学生くらいかと思うほどに結構小柄なのだが、その立ち姿から何処かのお嬢様の様に堂々としており、性格が真っ直ぐとその容姿に出ているようで、とても強気なつり目ながらも、優しくも暖かいようなお日向のような瞳をしている。
それに対して立つもう一人の人物も見覚えが無い。
身長は私よりも高く185~90位はあり、スポーツで言えばレスリングや柔道をしていそうなその大柄で屈強なガタイをしており少々強面な男性だった。服装も無地の白いTシャツにスポーツ用品店に並んでそうなジャージを腕まくりして身にまとっている。
体格差からして熊と犬が睨み合っているようにも見え、その体格差で物怖じしないの彼女はすごいと思える。
そういえば新任の先生と転校生が来ると言うのを聞いていたな…。という事はその二人が言い合っているのか。
それにしてもこんな朝から一体何を揉めているのだろうか。
「ふざけるな、始業式早々にそんな髪に染めやがって。舐めているのか」
「だから何度も言ってるでしょ。これは地毛です!校長先生に許可を貰ったって。ほら、生徒証にもちゃんとここに頭髪許可の印があるでしょ」
「そんな訳あるか、どうせその印も悪知恵を働かせて得たものだろう。それにその髪が地毛な訳あるか」
「地毛よ!もうあんたじゃらちが明かないからさっさと校長先生なり他の先生を呼びなさいよ」
「わざわざこんな事で校長先生にも他の先生の手を煩わせるわけには行かないだろ!もういい、生徒指導室でその髪を刈り上げてやる。こい!」
「な!?」
突然のその先生の横暴な言動と共にその少女に向かってその剛腕を伸ばす。当然少女も強引に事をなそうとは思っていたわけなく、先程までの言動からそれが本気であると分かり、逃げようとするのだが振り向き際にバランスを崩し倒れそうになる。
そう痛みに備えようとしたその瞬間、体を優しく支えられて転げることは無かった。
振り向き支えてくれているその主の方を見る。
「ギリギリ間に合った」
真っ赤なカーテンの様な髪が目の前をなびいていた。
目は凛として真剣な眼差しで男を見ていた。その少女は二人の間に入っており片腕で少女を支え、もう片方の手で掴みかかろうとしていたその男の手首を強く握りしめ制止させている。
「まぁまぁ、先生落ち着きましょうよ」
「何だお前は。お前も俺に文句があるのか!って、お前!その髪ふざけているのか!」
「いえいえ、ふざけてませんよ。それに大人なんですからしっかりと話を聞きましょうよ。確かにこの学校では頭髪に関してそれなりに厳しくされていますが、地毛である場合に限り許可がもらえます。それで彼女が出した生徒証明書にある印は本物ですよ」
「だから何だ。どうせ貴様ら二人が口裏合わせているだけだろう」
頑なに話を聞く気がないな…。何をそこまでこだわっているのだろうか。早くほかの先生来てくれないかなぁ…。
「いやいや、そんな訳…」
取り敢えず刺激しないように話をしようとすると、男は掴まれているその手を振り払い。
「うるさい貴様も一緒に指導だ!」
そう言って男は大きな体を使い上から覆い被るように襲い掛かろうとする。
その瞬間、右足に強烈な痛みが走り男の視界が大きく揺れ傾く。
気が付いた時には体は横を向いており左足と左肘を除いて体が浮いている。右腕を赤華が掴み引っ張ることでその絶妙な体制を維持できているのだ。
ゆっくりと地面に下すように腕を伸ばし、手が地面に付いたのを確認して掴むその手を放し男を解放する。男はまだ何が起こったのか理解できないと呆然としていた。
「不当に先に手を出そうとしたのは先生ですから許してくださいね。正当防衛なんで」
その言葉に男は我に返り「お前」と懲りずに何かを言おうとしたのだが、
「お〜い、お前らこんな朝っぱらから何を集まってるんだ。さっさと教室に荷物置いて騒ぐなら集会の時間まで教室でべちゃくちゃ喋ってろ」
とこちらへ向かって出席簿を肩にトントンと弾ませて気だるげに言いながら女性教師が歩いてくる。
それに続くようにほかの教師達が来て生徒達に教室へ行くように誘導していく。
その様子を見て、ホッとしていると気だるげにしていた女性教師がすぐ側まで来る。
「真堂先生。新任初日に張り切るのは良いですが、横暴になるような事は辞めてくださいね。彼女らの頭髪に関してはしっかりと許可が出ていますし、貴方も事前に説明は受けていた筈ですけど?」
と、先輩である教師にはあまり反論できないようで少し大人しくも不服そうに「はぁ、すみません」と返事をする。
その態度に彼女も面倒くさそうに軽くため息を吐く。
「今回の件で校長が呼んでいるので貴方はそちらへ向かって」
それを聞いて男は「分かりました」と返事をして歩いていくのだが、振り向きざまにこちらをしっかりと睨んでいた。
何だか面倒くさそうな先生が来たなぁ。
「はぁ…赤上悪かったな。昨日は忙しかっただろうにこんな朝っぱらから」
すると名前を聞いてか少女が反応し小さく「赤上…」と呟いてこちらを見ていた。どうしたのかは分からないが、特に何も言う様子は無い。
「いえ、大丈夫ですよ普樂先生。昨日も暇だったので」
「それは良かったが…。はぁ…あの先生には後で言っとくから綾嶄寺もいいか?」
「はい、大丈夫です」
綾嶄寺…どこかで聞いた事あるような…どこで聞いたんだっけ…。
「それじゃあ赤上は集会の時間まで教室にいてくれ。それといつもの頼む」
「はい」
「綾嶄寺はこっちだ」
と少女を案内するように歩いて行った。
綾嶄寺は律儀にこちらを向いてお辞儀をして、それについて行った。
それにしてもあれが新しい先生か…しばらくの間は少し荒れそうだなぁ。
そう不安を思いながら教室へ向かった。