小さな嵐
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オークリッジ伯爵家の前に一台の立派な馬車が止まると、屋敷の扉から、転がるようにしてオークリッジ伯爵が駆け出して来た。
「エディス、早く来てくれ! ……おや、あなたは……?」
馬車の扉を開けた時、エディスの隣に座っていたライオネルの顔を見て、オークリッジ伯爵は隠し切れない戸惑いをその表情に浮かべた。ライオネルは、落ち着いた様子で、エディスの義父であるオークリッジ伯爵を見つめた。
「……義娘の婚約者の顔が、思い出せませんか?」
「……!! これは失礼いたしました、ライオネル様」
驚きに目を瞠ったオークリッジ伯爵は、慌てて阿るような笑みを浮かべた。
「さ、こちらにお越しください。……エディスは、グランヴェル侯爵家で上手くやれているでしょうか?」
「エディスは、もうグランヴェル侯爵家に欠くことのできない存在ですよ。……僕の身体がこれほど回復したのも、すべてエディスのお蔭です」
ライオネルの言葉に、オークリッジ伯爵はさらに目を丸く見開いた。
「まさか、そんなことが……。いや、そんなはずは……」
オークリッジ伯爵は、口の中でそう独り言のように小さく呟くと、ライオネルとエディスを応接間に案内した。ライオネルは、少しエディスの腕を借りながらではあったけれど、自力で歩けるまでになっていた。彼の信じられないほどの回復に、オークリッジ伯爵は唖然としていた。
応接間のソファーにライオネルとエディスが腰掛けていると、二人を応接間に案内した後、一度部屋を出ていたオークリッジ伯爵が、エディスの義母であるオークリッジ伯爵夫人を連れて部屋に戻って来た。探るような視線でライオネルとエディスを見た彼女は、ちらりと夫を見て、ひそひそと小声で言葉を交わすと、そのまま笑みを貼り付けた顔でライオネルに尋ねた。
「まあ、随分とお身体の具合が良くなられたようで、何よりですわ」
「ええ。これもエディスが僕の側にいてくれるからこそですよ」
オークリッジ伯爵夫妻は、ライオネルの言葉に目を見交わすと、伯爵がライオネルを見つめてゆっくりと口を開いた。
「……本日、ライオネル様もいらしているので、是非ともお願いさせていただきたいのですが。……オークリッジ伯爵家に対する支援を、増額してはいただけませんでしょうか?」
「お義父様!」
堪らず、エディスが義父に向かって口を開いた。
「どういうことなのですか? グランヴェル侯爵家からは、借金を帳消しにしていただいた上に、もう十分過ぎるほどの支援をいただいているはずではないですか。それを、もう支援の増額などと……」
「エディスは黙っていなさい」
義父はエディスを睨み付けると、言葉を続けた。
「それから、お前には、後で頼みたい仕事があるんだ。お前が家を出てから、いくつか問題が生じていてね」
エディスは、やっぱりそうだったのかと思いながら、義父を見て眉を顰めた。
「問題、ですか。……お義父様にお渡しした引き継ぎの書類は、確かに読んでいただけたのでしょうか」
「そ、それはだな……。やっていた本人に直接聞いた方が、いや、本人にやってもらった方が早いだろうと思ってな……」
オークリッジ伯爵は、しどろもどろになって口を噤んだ。エディスの義母が、冷ややかにエディスに告げた。
「エディス。それは、育ててもらったお義父様に向かって言う言葉ですか? 恥を知りなさい。あなたが、仕事に穴を開けるような形で、中途半端に家を出て行ったのが悪いのでしょう」
エディスが義母に向かって口を開きかけた時、応接間の扉が開いて、めかしこんだ様子の義姉のダリアが入って来た。ダリアは、前回会った時とは別人のような回復を遂げたライオネルの美しい姿を見てその瞳を見開いた後、貪欲に輝かせると、にっこりと笑った。
「まあ、ライオネル様。お父様から、ライオネル様もいらしていると聞いて、改めてご挨拶に参りましたの。それに、今さっき部屋の中から漏れてきた声を聞いていたのですが、私によいアイデアがあるのです」
エディスは、ダリアの笑顔に嫌な予感を覚えながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「元々は、ライオネル様と婚約する予定だったのは、この私でしたでしょう? ……ライオネル様はご存知かわかりませんが、エディスは、半分は卑しい平民の血を引いておりますの。グランヴェル侯爵家ほどの家に嫁ぐなら、やはり私の方が相応しいと思いますわ。それに……」
ダリアは、見下すようにエディスを見つめた。
「こんなに地味で、しかも、貴族としてのマナーも教養すらも身に付けていない義妹が、将来、夫人としてライオネル様の隣に立つことがあれば、ライオネル様も恥ずかしく思われることでしょう。私がライオネル様と改めて婚約して、エディスには、この家に戻って元の通り仕事を続けてもらうのが最善じゃありませんか? 今後は、ライオネル様のことは私がお支えしますから」
「……!」
ダリアの言葉に固まっていたエディスの隣で、拳をぎゅっと握り締めていたライオネルが、ゆっくりと口を開いた。
「黙って聞いていれば、勝手な言い分を次々と……」
エディスが隣を見ると、今まで見たこともないほどの怒りを滾らせたライオネルが、凍り付くような視線をダリアとエディスの義父母に向けていた。
「僕は、エディス以外の女性を妻にするつもりはありません。……それから、オークリッジ伯爵家の薬事業に関する仕事の話については、エディスがこの家を出る際、彼女の仕事は誰だってできると仰っていたのは、オークリッジ伯爵夫人、あなたでしたよね?」
「そ、そんなことを申し上げたでしょうか……」
次いで、動揺した夫人の横にいる伯爵に、ライオネルは視線を移した。
「エディスは、自分がこのオークリッジ伯爵家でどのように過ごして来たかについて、一度も僕に弱音を吐いたことはありませんでした。しかし、僕の見る限り、エディスはこの伯爵家で、不当な扱いを受けて来たようにしか思えないのです。……違うかい、エディス?」
口を噤んだまま、エディスが戸惑ったようにライオネルを見つめると、彼は優しくエディスの髪を撫でてから口を開いた。
「君は、人が好すぎるからね。……君がグランヴェル侯爵家に持って来たあまりに小さな荷物や、質素な服、それに、思い起こせば、初めて会った時に身体に合わないドレスを着ていたことなどを考え合わせて、僕は、この家で君がどんな生活をしていたのかを、密かに最近調べさせたんだ」
「……! ライオネル様、いつの間に……」
自らの身体の回復で精一杯だったはずのライオネルを、エディスは驚いて見つめた。ライオネルは、穏やかに彼女に微笑んだ。
「君のお蔭で、僕にも、自分以外のことを考える余裕が次第にできてきていたんだよ。……報告によると、エディスは、祖父である前オークリッジ伯爵の意向により、貴伯爵家に養子縁組をして迎え入れられたにもかかわらず、前伯爵の死後は、離れにある小さな部屋に閉じ込められるようにして、使用人同様の食事や衣服を与えられ、とても伯爵家の令嬢に相応しい生活をしているとは言えなかったとか。特に、義理の家族であるあなたたちのエディスに対する態度は、酷く冷たいものだったそうですね」
憤りを言葉に滲ませたライオネルに冷ややかな視線を向けられて、オークリッジ伯爵夫妻とダリアは、青ざめて黙りこくっていた。
「しかも、オークリッジ伯爵家の家業のためにこれほど尽くしていたエディスの貢献にも気付かずにいたなんて。あなたたちがエディスをどれだけ蔑ろにしていたのかが、よくわかります。……それに、そちらのご令嬢とは比べ物にならないほど、全ての面においてエディスは魅力的ですよ」
「……っ!」
ダリアは悔しげに顔を歪めて唇を噛んだ。ライオネルは、淡々と言葉を続けた。
「……ただ、僕は一つだけあなた方に感謝していることがあります。それは、僕がこのオークリッジ伯爵家を訪れた時、エディスを僕の婚約者に推してくれたことです。……その点に鑑みて、最後に一度だけ、貴伯爵家への支援を父に打診しておきます。その代わり、今後は決して、エディスを貴伯爵家の揉め事に巻き込んで、彼女を困らせることのないようにしてください。よろしいですね?」
オークリッジ伯爵は、慌てたようにエディスを見つめた。
「なあ、エディス。お前は、この家の義娘だろう? ……平民の血を引いているにもかかわらず、この家に迎え入れてやったのに、こんな形で家を出て、私たちと縁を切るようなことになっても本当にいいのか?」
(……私をこの家から追い出そうとしたのは、元々、お義父様やお義母様、それにお義姉様だったのに)
父が生まれ、そして自分を引き取った祖父のいたオークリッジ伯爵家を、家を出るまでは必死に支えて来たエディスだったけれど、彼女の心はもう決まっていた。エディスは、義父に向かって静かに口を開いた。
「はい。私がいたいと思う場所は、ライオネル様のお側以外にありませんから。……元々、お祖父様のご意向による養子縁組でしたし、もう私との養子縁組は解消してくださって構いません。今まで、お世話になりました」
丁寧に頭を下げたエディスは、再度顔を上げると、義父の瞳を見つめた。
「このオークリッジ伯爵家を立て直すために必要なことは、まず、収入の範囲で生活するという当たり前のことを習慣にすることだと思います。それから、薬事業のことに関しては、どうか、私が残した引き継ぎ用の書類に目を通してくださいませ。大切なことは、一通りそこに記載してありますから。……そして、できれば使用人も家族のように大切になさってください。そうすれば、皆、オークリッジ伯爵家の力になってくれると思います」
「ま、待て。エディス……!」
ライオネルは、エディスをオークリッジ伯爵から庇うように、伯爵とエディスとの間に身体を滑らせながら、エディスの手を借りてソファーから立ち上がった。
「僕たちからの話は以上です。これで失礼します」
オークリッジ伯爵家の玄関に向かいながら、エディスは、もうこの家に足を踏み入れることはないかもしれないと、ローラの姿を探してきょろきょろと辺りを見回していた。その時、ぱたぱたと軽い足音がエディスの耳に聞こえてきた。
「エディス様!」
急ぎ足で駆けて来たローラに、エディスは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ローラ、よかった! ちょうど、あなたに会えたらと思って、あなたを探していたところだったの」
「私も、エディス様がいらしていると聞いて、急いで飛んで参りました。お元気そうで何よりです」
ローラは、エディスの隣に立つ、健康を取り戻しつつあるライオネルの姿を見て、ぱっと顔を輝かせると、彼に向かって深く頭を下げた。
「ライオネル様、エディス様のこと、どうぞよろしくお願いいたします。お嬢様は思いやり深く、本当に素晴らしい方ですから」
ライオネルは、ローラの言葉に温かな笑みを浮かべた。
「ああ、よく知っているよ。僕がこんなに回復したのも、エディスが側にいてくれたからこそだからね」
「まあ、やはりそうでしたか。……エディス様は、私の祖母を助けてくださった恩人でもあるのです。エディス様ならきっと、奇跡を起こせると信じておりましたが……よかった……」
瞳を潤ませたローラに、エディスは尋ねた。
「ローラ、あなたも元気にしていたかしら?」
「はい。……エディス様がグランヴェル侯爵家にいらしてから、このオークリッジ伯爵家の中は、家業のことで大きく混乱していましたし、私も、エディス様がいらっしゃらなくなってから寂しく思ってはおりましたが、どうにか元気にやっております。……実は私、従兄との結婚が決まりまして、もうじき実家に帰る予定なのです」
「まあ! それはおめでとう、ローラ」
エディスは、顔中に明るい笑みを浮かべた。恥ずかしげに頬を紅潮させたローラは、エディスを見つめた。
「この家の仕事を辞す前に、最後に直接エディス様にお会いできたらと思っておりましたので、今日は久し振りにお目にかかれて嬉しく思いました」
「私もよ、ローラ。どうぞ、末永くお幸せにね」
「ありがとうございます。私も、エディス様とライオネル様の幸せをお祈りしておりますね」
心が温まるのを感じながら、エディスはローラに手を振って別れた。オークリッジ伯爵家からの去り際に、玄関を潜ったエディスは屋敷を見上げながら思っていた。
(……もう、この家に思い残すことはないわ)
「さあ、行こうか。エディス」
「はい、ライオネル様。先程は、私を庇い、守ってくださってありがとうございました」
「お安い御用さ、エディス。君が僕にしてくれていることに比べたら、たいしたことではないよ」
ライオネルとエディスは、待っていたグランヴェル侯爵家の馬車に乗り込むと、オークリッジ伯爵家を後にした。
皆様の温かいお言葉、いつも励みにしております。どうもありがとうございます。




