静かな夜
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「ライオネル様。足元がだんだんしっかりとしていらっしゃいましたね」
別荘にしばらく滞在しながら、毎日のように歩行の練習をしているライオネルに向かって、隣で彼に手を添えていたエディスは頬を染めてにっこりと笑い掛けた。アーチェも、ライオネルが数歩歩く度に、小さな手で一生懸命に拍手をしていた。
「お兄様、その調子! とっても、お上手ですよ」
「ありがとう。エディス、アーチェ」
ライオネルは額の汗を腕で拭うと、二人に向かって明るい笑みを浮かべた。
「未来への希望の道筋が、次第にはっきりと見えて来たような気がするよ。昔のように自由に身体を動かして、元の通りの生活をすることも、夢ではないような気がしてきたんだ」
エディスとアーチェは目を見交わすと、二人ともライオネルの言葉ににっこりと笑った。
「これほど、ライオネル様は努力していらっしゃるのですもの。絶対に、元のお元気な身体を取り戻されると思いますわ」
「頑張り屋さんのお兄様なら、大丈夫です!」
陽が傾き、辺り一面が赤く染まるまで歩行の練習を続けていたライオネルの背中を、エディスは労わるように撫でてから口を開いた。
「ライオネル様、今日もたくさん歩く練習をしてお疲れでしょう。日も暮れてまいりましたし、そろそろ、別荘に戻りましょうか?」
「そうだね、エディス。今日も、練習に付き合ってくれてありがとう。アーチェも、一緒に戻ろうね」
エディスが近付けた車椅子に腰掛けながら、ライオネルはアーチェの小さな手を握った。
「はい、お兄様!」
大きく頷いたアーチェは、エディスを振り向いてにこっと微笑むと、ぎゅっと兄の手を握り返した。
「……お兄様の手だって、前よりもずっとふっくらして、力強くなりましたもの。前は、強く握ったら壊れてしまいそうで、そうっと触れていましたけれど、もう大丈夫ですね」
あどけないアーチェの笑顔を見て、ライオネルははっとしたように少し口を噤んでから、掌の中にある小さく柔らかい彼女の手に、再度大切そうに力を込めた。
「ああ、もう平気だよ。……アーチェにも、心配をかけたね」
エディスも、二人のやり取りに心が温まるのを感じながら、アーチェの歩みに合わせて、ゆっくりと別荘に向かって車椅子を押して行った。
***
「……アーチェ様、すぐにぐっすりと寝落ちてしまいましたね」
小さなベッドに眠る安らかなアーチェの寝顔を見ながら、今しがたまで彼女に絵本を読み聞かせていたエディスは、読み掛けの絵本のページを膝の上に広げたままで、隣にいる車椅子のライオネルに微笑み掛けた。
「ああ。今日もたくさん走り回っていたから、疲れたのだろうね。
……君も疲れているだろうに、アーチェが君に絵本をせがんでしまって、すまなかったね」
エディスは、にこにことしながら首を横に振った。
「いえ。私は一人っ子で、妹や弟に憧れていたので、むしろ嬉しいくらいです。アーチェ様、とっても可愛らしいですし」
「アーチェも、すっかり君に懐いたようだね。君の温かな人柄がよくわかったみたいだ。……幼いうちに母を亡くして、さらに僕の病気もあったから、きっと甘えたい気持ちも胸の奥にしまって、今まで我慢してきたのだろうね。君を見るアーチェの目は、すっかり家族の一員を見る目になっているよ」
「ふふ、そうでしょうか。私も、アーチェ様とも毎日一緒に過ごせて、とても楽しいです」
エディスに向かって感謝を込めた笑みを浮かべてから、ライオネルは、すぐ側にある大きな窓から、頭上に広がる美しい星空を見上げた。
「今日は新月だからかな、いつも以上に星がよく見えるね」
「ええ。まるで今にも星が零れ落ちて来そうな、綺麗な星空ですね。……あっ、流れ星だわ」
夜空をきらりと走る光の筋を見付けたエディスが、小さく声を上げた。
「今、見えましたか? ライオネル様」
「ああ。君のお蔭で気付いたよ」
エディスとライオネルは、顔を見合わせて微笑んだ。ライオネルは、再度星空を見上げると、遠い過去を思い起こすように目を細めた。
「……この別荘に毎年のように来ていた頃の、身体を壊す前の僕は、流れ星に願いを込めることなんて考えたこともなかった。これは、昔話になるのだが……」
ライオネルは、星空に視線を向けたままで続けた。
「病を患うまでの僕は、特に苦労をしたことがなかったんだ。侯爵家という恵まれた立場に生まれて、自分で言うのも何だが、何をしても人に劣ることはなかった。勉強にしても運動にしても、たいした努力もせずに人よりも勝るということが当たり前で、そこに疑問を持ったことはなかったんだ。母を亡くした時に初めて、世の中には思い通りにならないことがあると知ったが、そのくらいだった」
エディスは、ユージェニーが、ライオネルは文武両道で完璧だったと言っていたことを思い出しながら、彼の言葉に頷いた。
「……思い返せば、あの頃の僕はどこか傲っていたのだろうね。流れ星に向かってささやかな祈りを託すことなんて、馬鹿げたことだと思っていたんだ。口には出さなかったが、祈るくらいなら努力すればよいのに、ってね。僕にとっては、僕の前に用意された侯爵家嫡男としての道を順調に歩んでいくことが当然で、そこに何の疑問も抱いてはいなかったし、僕の周囲の人たちの気持ちにも疎い部分があったように思う。そんな僕の見ていた世界が、病を患ってからひっくり返って、がらりと真逆になったんだ」
ライオネルは、ふっと小さく息を吐いた。
「僕を見る時、昔は大抵の人が好意的な眼差しを向けてくれたものだが、身体の具合が悪くなり、みるみるうちに痩せ細ってからは、青ざめて眉を顰める顔か同情の浮かぶ顔しか、ほとんど見ることはできなくなった。どんなに努力をしても、身体が次第に思うように動かなくなり、人が当たり前のようにできていることすらもできなくなって、もどかしかったし、苦しかったよ。侯爵家を継ぐことも絶望的になった。身体を襲う痛みに悶えながら、どうして僕だけがこんな思いをするのだろうと、何か縋れるものがあるなら、何にだって縋りたいような切実な思いだった。それこそ、流れ星にも心からの祈りを託してしまうほどに」
辛く寂しかったであろうライオネルの胸中を思い浮かべて、エディスはそっとライオネルの手に自分の手を重ねた。ライオネルは、じっとエディスの顔を見つめた。
「だが、病を患って初めて気付いたこともあったんだ。周囲の人たち……特に家族が、僕のことをどれほど思ってくれていたか。その温かな気持ちのありがたさに、ようやく気付いたんだ。それに、ふとした瞬間に、人から自分に向けられる親切や優しさが、それこそ、染みるようにありがたくてね。弱い立場を経験することがなかったなら、一生気付くことはなかったのかもしれない。……少しは、僕も人間らしくなれたのかもしれないよ」
「私は、昔から、ライオネル様はきっとお優しい方だったのだとは思いますが。それでも、病を通して色々な気付きがあったのですね」
ライオネルの優しさや心の強さは、彼が幼い頃から育んできたもので、一朝一夕で身に着くようなものではないとエディスは感じていた。けれど、彼の思いも、エディスの胸にすうっと染み込んできた。
エディスの言葉に、ライオネルは、温かなエディスの手を自らの両手で挟み込むようにして微笑んだ。
「……そして、君に出会えた。僕が君に出会って、君の温かさや優しさに、そして君の笑顔にどれだけ救われたか、とても言葉に言い表すことはできないよ。医師ですら匙を投げた僕のことを、君はずっと根気よく支え続けてくれている。君がいなかったら、今の僕はいなかったし、君は天から遣わされた天使か女神なのではないだろうかと、僕は今でもそう思っているよ」
「いえ、ライオネル様。私はそんな……」
首を横に振ってふわりと頬に血を上らせたエディスを、ライオネルは優しく抱き寄せた。
「いつもありがとう、エディス。君は本当に、僕にとって何にも代え難い、大切な存在だよ」
ライオネルは、少し言葉を切ると、エディスを抱き寄せた腕を緩めて、恥ずかしそうに頬を染めている彼女を見つめた。
「……オークリッジ伯爵家の君の義父上から、一度君に家に戻って来て欲しいと、そう書かれた手紙を預かっているんだ。何か、思い当たる節はあるかな?」
「お義父様が……?」
義父の名前を聞いて、エディスには嫌な予感しかしなかった。エディスが表情を曇らせたことに目ざとく気付いたライオネルは、彼女の髪を柔らかく撫でた。
「僕も、君と一緒にオークリッジ伯爵家に行くよ。僕には、正直なところ、君があの家で真っ当な扱いを受けていたようには思えないんだ」
「……」
意表を突く鋭いライオネルの言葉にどきりとしたエディスだったけれど、ライオネルは、エディスを励ますように明るく笑った。
「もし、エディスに何か僕ができることがあるなら、僕を頼って欲しいんだ。少しでも、君の力になりたいと思っている」
「……ありがとうございます、ライオネル様」
ライオネルの言葉を心強く思いながらも、義父からの手紙はどのような目的で送られてきたものなのだろうと、エディスは胸の中に不安が広がるのを感じながら、心の中で小さく溜息を吐いていた。
皆様からの温かなお言葉に元気をいただきながら書いています。優しさが染みます…!今回のライオネルの言葉に感謝の気持ちを重ねながら書かせていただきました。いつもありがとうございますm(_ _)m
暑い日が続きますが、どうぞ皆様もお身体ご自愛くださいませ。




