自然豊かな別荘で
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「ライオネル様、ここはとても美しい場所ですね。広々としていて、緑豊かで、静かで……」
眩しい陽射しの差す、青々とした草木が鮮やかな別荘の広大な庭を見渡しながら、エディスはほうっと感嘆の息を吐いていた。ライオネルは、そんなエディスの姿に目を細めた。
「君が気に入ってくれたなら嬉しいよ、エディス。都会の喧騒を離れてゆっくり過ごすには、ここはうってつけの場所なんだ」
どこまでも続く緑に囲まれた別荘の広大な庭で、エディスはライオネルの車椅子を押していた。木々の奥に覗く青い湖が、きらきらと陽射しを弾いて輝いている。エディスは、頬を撫でていく涼しい風を心地良く感じながら、車椅子を押す手に確かな手応えを感じることを嬉しく思っていた。出会った頃には骨と皮ばかりだったライオネルは、未だに細身ではありつつも、青年らしいしなやかな体躯を取り戻しつつあった。
夢中で蝶を追いかけて庭を駆け回るアーチェの姿を、ライオネルは口元を綻ばせながら見つめていた。あっという間に小さくなっていくアーチェの後ろ姿に向かって、ライオネルは声を掛けた。
「アーチェ、転ばないように気を付けるんだよ」
「はーい、お兄様!」
にっこりと笑ったアーチェの声が、風に乗って二人の耳に届いた。ライオネルとエディスは、顔を見合わせて微笑んだ。
「最近は、アーチェがよく笑うようになってきたんだ。一時期は、アーチェの暗い表情を見るばかりで、ほとんど笑顔も見られなかったから、心配していたのだがね」
「それは、ライオネル様が順調にお元気になられてきたことも大きいのでしょうね。アーチェ様、ライオネル様のことが大好きですもの」
ライオネルのところに可愛らしいアーチェが笑顔で駆け寄ってくる姿を見る度に、エディスもついつい頬を緩めてしまう。何気ない兄妹の微笑ましいやり取りを見ていると、エディスは、ライオネルの身体が快方に向かっていることを実感し、喜びがじわりと胸に湧き上がるのを感じるのだった。
「……これもすべて、エディスのお蔭だよ。君が僕の側で支えてくれるようになってから、僕の身体には毎日のように奇跡が起こっているようだ」
日を追うごとに体調が回復し、薄皮を剥がすように、元の身体を少しずつ、しかし確実に取り戻しつつあるライオネルの言葉に、エディスは嬉しそうに微笑んだ。
「それは、ライオネル様のお蔭でもありますわ。私を側に置いてくださっているだけでなく、私が勧めた薬は、どれも嫌がらずに飲んでくださっていますし、休んでいただくようお伝えすれば、無理せず休息を取ってくださいますし。……そのような日々の積み重ねが、きっと順調な回復に繋がっているのでしょう」
エディスの言葉に頷いたライオネルは、もう背中が見えなくなったアーチェが駆けて行った方向を見つめながら、どこか羨ましそうに呟いた。
「……昔は、僕もここであんな風に走り回っていたんだ。僕も、いつの日か、また自分の足で立ち、歩いたり、走ったりすることができるのだろうか」
自らの腿を見下ろしたライオネルに、エディスが尋ねた。
「そろそろ、立つ練習も始めてみましょうか? 私が横で手をお貸ししますので」
「いいのかい、エディス? 僕の身体もだんだん体重が増えてきたし、君の負担にならないだろうか」
「ふふ、私は大丈夫ですから。さあ、お気持ちの準備ができたら、私につかまってください。……久し振りのことですから、足は思うように動かなくても当然です。あまりご無理はなさいませんように」
「ああ。ありがとう、エディス」
ライオネルは、エディスの差し出した腕を借りると、ゆっくりと車椅子から腰を浮かせた。慎重に身体のバランスを取りながら両脚に力を入れたライオネルを、エディスは横から支えていた。時間をかけながらも、真っ直ぐに背筋を伸ばして立ち上がったライオネルに向かって、エディスは感激の声を上げた。
「……すごいわ、ライオネル様! しっかりと、今、ご自分の両足で立っていらっしゃいますよ」
「僕自身も、信じられないよ。長い間、足はふらつくばかりで、全く力が入らなかったんだ。……こうしてまた、自らの足で立つことができるようになる日がくるなんて……」
ライオネルは少し瞳を潤ませてから、エディスに笑い掛けた。
「少し、欲が出てきたみたいだ。……今度は、少し歩いてみてもいいだろうか?」
「ええ、もちろん。ライオネル様のペースで、少しずつ足を前に出してみてくださいね」
ライオネルは、エディスの腕を借りたまま、そっと右足を一歩踏み出した。続けて、ゆっくりと左足に力を入れ、さらにもう一度右足に体重を移した。隣で腕を貸すエディスが、ライオネルの様子をじっと見守っていた。
「……素晴らしいです! ライオネル様、ご自分の足で歩くことができましたね」
覚束ない足取りで、ほんの小さな数歩ではあったけれど、確かに歩くことができたライオネルのことを、エディスは賞賛を込めた眼差しで見つめて微笑んだ。
ライオネルも、どこか手応えを掴んだ様子で、夢中で自らの両足を必死に動かしていた。
「僕はまた、車椅子なしで歩けるようになれるのかな。……おっと、」
「あっ、ライオネル様……!」
上手く足に体重を乗せられず、よろめいたライオネルの身体を咄嗟にエディスが支えたけれど、ライオネルを抱き締める格好になったエディスは、彼を支えきることができずに、そのまま二人で草原の上に転がった。柔らかな絨毯のように生え揃った芝生の上で、エディスに覆いかぶさる形になったライオネルは、慌てて身体を捩るようにして、エディスの隣まで身体を転がした。
「……すまない、エディス」
「いえ、こちらこそ、ライオネル様のお身体を支えきれず、すみませんでした……」
ライオネルの身体から温かな体温をすぐ服越しに感じて、エディスの頬は隠し切れずに染まっていた。
二人並んで、青空を見上げて芝生に寝転ぶ形になったライオネルとエディスは、どちらからともなく、くすくすと笑い出した。
「はは、エディス。君は、いつも僕に希望をくれる。自分の足で歩くことなんて、僕はとっくの昔に諦めていたはずだったのに。……君と出会えて、僕は何て幸運だったのだろう」
ライオネルは、顔を横に向けて、隣に寝転んでいるエディスを眩しそうに見つめた。輝くばかりのライオネルの笑顔の美しさに、エディスは息を飲んでいた。
(……! これほどお綺麗な方になんて、今までほかにお会いしたことはないもの。こんなに近くで彼のお美しい顔を見るなんて、私の心臓が持たないわ……)
高鳴る胸を抱えて、さらに顔を火照らせたエディスを見て、ライオネルはふっと愛しげな笑みをこぼすと、片手をゆっくりとエディスに向かって伸ばした。
「……エディス」
「は、はい。ライオネル様」
ライオネルは柔らかな手付きでエディスの髪の毛を撫でると、そのままエディスの後頭部に掌を滑らせ、エディスを軽く抱き寄せた。
「僕は幸せだよ、エディス。君がいつも側にいてくれて。……病がきっかけで君に出会えた今となっては、病に冒されたことすら幸運だったのかもしれないと、そう思えるほどにね」
ライオネルのタンザナイトのように澄んだ輝きを放つ青紫色の瞳が、エディスの顔に間近に近付いたかと思うと、彼女の額に、ライオネルの柔らかな唇がそっと触れた。
「……!」
ライオネルに口付けられて、驚きに目を見開き、さらに顔中を真っ赤に染めたエディスの耳元で、ライオネルが囁くように尋ねた。
「……嫌、だったかな?」
「嫌だなんて、そんなこと、あるはずがありません……!」
思わずそう答えてしまってから、あまりの恥ずかしさに目を伏せたエディスを見て、ライオネルは楽しげに笑うと、彼女を抱き寄せる手に少し力を込めた。
「エディス。君は、本当に可愛いね」
ライオネルの腕の中で、エディスは、抑え切れず胸が跳ね、心の奥からじわりと喜びが湧き上がってくるのを感じていた。
(ど、どうしよう。私、やっぱり、ライオネル様のことが心底好きになってしまっているわ……)
誰よりも誠実で優しく、前向きで努力家なライオネルのことを一番側で見ていて、彼に惹かれない方が難しいとエディスは思っていた。美しいユージェニーにさえ靡かなかった彼が回復したのなら、平凡な自分などは重荷にしかならないのではと不安に思いつつも、エディスの気持ちは、いつも自然とライオネルに向いてしまうのだった。
しばらくエディスがライオネルの腕の中で抱き締められていると、遠くから高く明るい声が響いてきた。
「お兄様ー! 綺麗な蝶々を捕まえました」
「……!」
近付いて来る小さな足音に、慌ててぱっと身体を離したライオネルとエディスは、恥ずかしそうに視線を交わした。ライオネルのすぐ側まで駆け寄って来たアーチェは、不思議そうに首を傾げると、並んで芝生の上に寝転がっている二人を見つめた。
「……二人で日向ぼっこをしているの?」
「まあ、そんなところかな」
「ふうん? 仲良しね。……ねえ、お兄様。見てください」
アーチェは、羽根を捕まえた蝶をライオネルの目の前に右手で翳した。大きな羽根を持つ、鮮やかな色をした揚羽蝶だった。
「美しい蝶だね、アーチェ。よく捕まえたね」
「ええ。とっても綺麗だったから、お兄様に飛んでいるところを近くで見せてあげたかったの。……ほら」
アーチェが手を離すと、蝶はひらひらと羽根を羽ばたいて、ライオネルとエディスの顔の上を舞いながら飛び去って行った。
ライオネルは、手を伸ばしてアーチェの頭を撫でた。
「優しいね、アーチェは。綺麗に羽ばたく姿が見れたよ、ありがとう」
「よかった! 私も、少しでも、お兄様が元気になるようなことをしてあげたかったの。……エディスお義姉様みたいに」
エディスははっとしてアーチェを見つめると、上半身を起こした。まだライオネルとは婚約中の身であるエディスだったけれど、アーチェがエディスをお義姉様と呼んでくれたのは初めてだった。
ふっと恥ずかしげな笑みを浮かべてエディスの腕の中に飛び込んで来たアーチェの小さな身体を、彼女に受け入れられて心が温まるのを感じながら、エディスもぎゅっと抱き締め返した。そんな二人の姿を、ライオネルは隣で嬉しそうに目を細めながら見つめていた。
皆様の温かなお言葉に、本当に励まされています。どうもありがとうございます。




