第一話「復讐するは我にあり」
赦せない。
何があろうと、決して赦せない!
わたしは総身の血が燃え立ち、髪が逆立つほど強く、強く怒っていた。
このダンデライオン公爵家に生まれてから十三年、短いようでいて長い月日だったけれど、これほど激しい怒りに震えたことはなかった。
おそらく、これからもないかもしれない。それくらい、わたしの怒りは激しかった。
わたしは何より理性と気品とを尊ぶ大貴族の家系に生まれ落ち、いまのいままでモノにあたる真似をしたことはなかったが、今回ばかりは柱や寝台を思い切り蹴ったり殴ったりして、少しでもくやしさを晴らそうとしてみた。
まあ、それでも、へやのモノを壊しはしなかったのは、少しは育ちの良さが影響しているのかもしれない。
ともかく、わたしは怒って、怒って、怒っていたのだった。
八歳のとき、ある新人のメイドが、もっと幼い頃からずっといっしょに時を過ごして来たお気に入りのぬいぐるみを、古くて汚いからという理由で捨ててしまったときの憤激ですらも、今回の怒りに比べればそよ風と嵐ほどの差があった。
くやしいという気持ち、赦せないという思いの重さが初めてわかった気がする。
このように述べると、多くの人はきっと、いったい何をそこまで激怒しているのかと思うことだろう。
実はそれは、いまや世間で〈悪役令嬢〉などという不埒なあだ名で呼ばれはじめている姉モニカの婚約破棄のことなのだ。
いまから時をさかのぼること七日、わたし、ベネット・ダンデライオンの最愛の姉である公爵家の長女モニカ・ダンデライオンは、公爵領が属するクリムゾンローズ王国の王太子アンソニーから、一方的に婚約を破棄されたのだった。
そのこと自体は良い。いや、まったく良くはないが、それだけならまだ我慢できる。
そもそもわたしはアンソニー王子という人物が好きではなかった。
たしかに容色だけは美しく整っていることは認めざるを得ないものの、およそ長所といえばそのひとつくらい。
優しい性格の好人物といえば聞こえはいいが、その実、軽薄で、愚昧、おまけに女を見下していることがありありとわかるという、どうしようもない男だった。
モニカお姉さまにふさわしくないこと、夜空の秀麗な月と台所の穴だらけの鍋を、同じく円いという理由で結びつけようとするようなものだ。
だから、婚約が破談になったことそのものは、必ずしも悪いことではない。むしろ慶賀するべきこととすら云えたかもしれない。
問題なのは、その婚約破棄のとき、アンソニー王太子が姉を公衆の面前で「悪意の令嬢モニカ」と呼び、散々にののしったことだ。
あのぼんくら王子ごときが、わたしの美しく賢く完璧なお姉さまを罵倒した? それも、たくさんの王侯貴族たちが一堂に会した、その場で?
何という不快な傲慢! 何という狂った増長! ありえない、あってはならないことだ。赦せない。絶対に赦せない!
そういうわけで、わたしはかれこれ数日間も怒りつづけているのであった。
「ベネットお嬢さま、もうそろそろ、そのお怒りを鎮められたらいかがですか。可愛いお顔が歪み切って、台なしにも程がありますよ」
あまりのことに王都の公爵邸に用意された自分のへやに閉じこもって、何日も続けて怒り狂うわたしを見て、そう口を挟んで来たのは、モノトーンの可憐なメイド服に身を包んだエイプリルという名のそばかす顔の娘だ。
わたしよりちょうど十歳年上で、五年ほど前からわたしの身のまわりのことを世話してくれている、なかば家族のような存在である。
ただ、貴族の家に仕えるメイドであるにもかかわらず、おっちょこちょいを絵にかいて乱暴に色を塗りたくったような性格で、何を隠そう、わたしが八歳のときにお気に入りのぬいぐるみを捨ててしまったのは彼女なのだ。
そのときは子供ながらによほど血も凍るような拷問にかけてやろうと思ったものだが、優しいお姉さまに説得されてやめた。
つまり、いま、エイプリルの命があるのはひとえにモニカお姉さまのおかげということになる。もっと感謝したらどうなの? あなたもいっしょに怒りなさい!
「それは、わたしだって腹が立ちますけれどね」
エイプリルは、メイドの身の上でありながらあたりまえのように、まさにわたしが怒りをぶつけているその最中の寝台に座り込んだ。
「でも、何といってもモニカお嬢さまご本人が納得していらっしゃるのだからしかたないじゃないですか。モニカさまご自身が怒ってもいないものを、妹のベネットさまが激怒されるのはおかしなことだと思いますよ。少なくとも、そこまで怒ることはないでしょう」
「お姉さまは、天使なのよ!」
エイプリルが首を傾げる。
「は? 何ですって?」
「だから、お姉さまはまるで天使のようにお優しい方なのよ! わたしはお姉さまが本気で怒ったところを一度も見たことがないわ。どんなひどい扱いを受けても、ぐっとこらえて受け流してしまう、そういう清らかなご性格なの。でも、そうはいってもくやしくないはずがないわ。だから、まわりの人間、特に家族が代わりに怒ってあげるべきなのよ。そう、たとえばこのわたしが!」
「天使ねえ」
エイプリルはぽりぽりとそばかすのある頬をかきながら、何やらげんなりした顔つきで呟いた。
「たしかにモニカさまはできたお方ですけれど、ただの人間には違いないと思いますよ。まあ、ただの人間なのに負の感情を表に見せないあたりがお偉いのでしょうけれど」
「エイプリル、あなたはお姉さまの素晴らしさをわかっていないわ。ただの人間ですって? お姉さまはそれはたしかに人間には違いなくても、まさにその最上位に位置する、淑女のなかの淑女なのよ。その清らかなお姉さまが人前で面罵されたのに、どうして怒らずにいられるの? いいえ、いられるはずがないわ」
「……シスコン」
「いま、何か云った?」
「いや、何でもありません」
エイプリルは寝台に座り込んだまま、大きなため息のかたまりを吐きだした。
「でもね、お嬢さま。あなたさまにはまだわからないかもしれませんけれど、そういうふうにまるで聖人のように完璧だと崇拝されるのも、それはそれで辛いことだと思いますよ。あなたさまのお怒りは、本当にモニカさまのためになっているんですかね? もう一度、そこを良く考えてみられたらいかがですか」
「――何よ、エイプリルのくせに、わかったようなことを云って」
わたしは、ふと、気勢を削がれて、ふんと鼻を鳴らした。
エイプリルは何もわかっていない。凡人ならたしかに期待や崇拝が負担になるかもしれないが、お姉さまはあのお姉さまなのだ。そんなことはないに決まっている。
「でも、たしかにあなたの云うことも一理あるわ。怒ってばかりいるだけじゃ意味がない。感情にまかせて駄々をこねるのは子供のやることよ。大人の淑女は、もっと理性的に行動しなければ」
「お嬢さま、わかってくださいましたか」
「もちろん、わたしをだれだと思っているの。古の偉大な王朝の血を継ぐダンデライオン公爵家の次女なのよ」
「凄い」
エイプリルは喜んだ。
「いよっ、偉い! さすが! それで、お嬢さまはただやみくもにお怒りになることをやめて、どう理性的に行動なさるんですか?」
「もちろん、そんなこと決まっているわ」
わたしは、机のところまで歩いて行って、すべての計画を詳細に書き込むために、一冊の帳面を取り出し、物わかりの悪いメイドに突きつけた。
「復讐よ!」
エイプリルが、呆れたようにふたたびため息を吐きだした。