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イネスの憂鬱

「こんにちは、イネスさん。……クリスはまだなのかな?」

「ええ。なんでも先生に呼ばれたとかなんとか。学級委員ですし、何か作業でもあるのでしょうね。――っと、挨拶がまだでしたわね。ごきげんよう、アキラ」


 週が明けて月曜日。放課後の部室には俺とイネスさんの二人きり。クリスは今日みたいに部室に遅れてくることがたまにあるので、二人きりなのも最近は慣れてきた。……でも、今日のイネスさんはいつもとは少し様子が違って見えた。いつもは強気な笑みを浮かべているはずの口元が、今日は不機嫌そうに曲がってる。さっきのやり取りの際の声色も、どこか沈んで聞こえたし、なにかヤなことでもあったのかもしれない。


 まあ、だからってそれを聞き出そうなんて思わないけどね。……イネスさんは歴史ある一家の末裔なのだ。まず間違いなく、彼女の背負うものは俺とは比べ物にならない程大きくて重い筈だ。そこから考えても、彼女の悩みは到底俺に話せるような悩みではないだろうし、仮に話せる内容だとしても、彼女のプライドがそれを許すとは思えない。ならば、何も聞かずにいつも通りの態度で接するのが一番だろう。


「……はぁ。優しいんですね、アキラは」

「……え?」

「さっきからチラチラとこちらの様子を伺っていることに、ワタクシが気づかないとでも思ってたのかしら?」


 ……さすが。お見通しだったらしい。


「えっと、……その。ごめんなさい」

「ふふっ。別に謝ることではありませんけど。不躾になにか質問でもして来ようものなら謝罪の一つも要求しましょうが、あなたは沈黙を選んだのですから。……その優しさ、ワタクシは嬉しく思いますわ」


 いつものあの気の強そうな挑戦的な笑みではなく、優しく、柔らかい笑みを見せてくれたイネスさん。……やっぱり、なにかあったのは間違いないんだろう。心当たりと言えば土曜日のあの去り際の表情。あの後何があったかは知らないけど、それが原因なのかもしれない。まあ、聞いたりはしないけど。


「ねぇ、アキラ。……まだクリスが来るまで時間があるでしょうし、一つワタクシの愚痴でも聞いてもらってもよろしいでしょうか?」


 やっぱり、いつもよりも明確に気弱な声色だ。それに、プライドの高いイネスさんが、俺なんかに愚痴を言いたい、なんて。


「良いですよ。……イネスさんこそ、俺なんかでいいんですか?」

「アナタだから、いいのです。……こんな事、どうあっても家の者たちには話せませんし。それに、クリスだと、その……。あの子、色々暴走しそうではないですか」

「……なるほど」


 それは、よくわかる。昔からクリスは正義感の塊みたいなところがあった。……というか、今もか。じゃないと俺を従者になんてしなかっただろうし。確かに、話す内容によっては暴走した挙句イネスさんの実家にまで喧嘩を売りかねない。それ程までの前のめりな正義感は、クリスの良い所であり、同時に欠点でもある。


「では、その……話します、けど……その、あまり気負わずに聞いてくださいますか。これはあくまでも、ただの愚痴ですから」


 *


「ワタクシは、名誉あるラ・マリニャーヌ家の一員ですわ。そのことにはもちろん誇りを持っていますし、家族のこともまた当然慕っております。……ですが、そういう家に生まれた以上、どうしても避けられない運命というのはあるんですの」

「避けられない?」

「ええ。単刀直入に言ってしまえば、結婚に関することですわ。……ワタクシ、許嫁がいるのです。我が家よりも明らかに格上な、とあるフランスの貴族の家の長男が、お相手ですわ」


 あくまで淡々とイネスさんは語っていた。……俺も、クリスにそんな相手がいるのかもしれない、なんて思ったことはあるけれど、それでもどこか現実味はなかった。でも、実際にそんな相手がいる人を見てしまうと、そんな世界が決して虚構ではないことを思い知らされた気分になってしまう。


「あまり、驚かないのですね」

「……これでも結構驚いてはいますよ。でも、そういうことが普通にある世界ってことも、分かってましたから」

「そう、ですか。……先日の土曜日に途中でお暇したのも、彼に会うためですの。偶然、仕事の都合で日本に来ているので是非会いたい、と言われまして。ワタクシはあくまでも彼に嫁ぐ身ですから、断るわけにはいかないのです」

「そうだったんですね……あの時も、なにかあったのかな、とは思ってましたけど……」


 やっぱり、土曜日に感じた違和感は間違いじゃなかったみたいだ。クリスはきっと知っていたんだろうけど、俺にはなにも教えてくれなかった。まあこんな内容、他人の口から言えるもんじゃないか。


「あの、これは勘違いなさらないで欲しいのですが。ワタクシ、別に彼と会いたくないとか、嫌いだとか思ってるわけではないのです。むしろ、その……お、お慕いして、いますわ」


 真っ赤な顔で、ガッチガチに緊張しながらそう言い放ったイネスさん。人の色恋話なんて、ほとんど初めて聞いたけど。聞くだけでこんなに恥ずかしいとは思わなかった。俺は当事者でもなんでもないのに。……でも、そうなると、イマイチ腑に落ちない。


「じゃあ、なんで……?」

「まあ、そう思われるのも無理はないでしょう。ですが考えてみなさいな。ワタクシは所詮、大した影響力もとっくに失くしてしまった小さな一家の、しかも末っ子。対する彼は家自体の格は言わずもがな、しかも将来その一家の長となるお方なのですよ。……本当なら、もっとふさわしい方と婚姻を結んで然るべきお方ですわ」


 そっか。その許嫁の彼のことが本当に好きだからこそ、結婚はしたくないんだ。自分じゃ、ふさわしくないと、彼にはもっとふさわしい女性がいると、少なくともイネスさんはそう思っているから。……その気持ちは、痛い程よくわかる。ことの規模も、問題の本質も全然違うけれど、俺もクリスに対して同じようなことを想っているし。


「まあ、これ以上許嫁の事を話すと色々問題があるので、言う訳にはいかないのですが。……でも、アナタなら、分かってくださると思うのです。ワタクシの、この行き場のない感情を」

「それって、ひょっとして……」

「あら? もしや、気づいていないとでも思っていたんですの? ふふっ、あんなに分かりやすいのに、気づかない人がいるものですか。……いえ、クリスは気づいていないみたいですが」


 ……これは、バレてる。俺がクリスを好きだってこと、完全にバレてる。……そっか、だから俺にこんな話をしたのか。きっとイネスさんは、理解者が欲しかったんだ。“叶えたくない恋心”という、普通はありえない気持ちの理解者が。


「まあ、その……その通りです。確かに、俺はクリスの事が好きですよ。でも、この気持ちは叶っちゃいけない物ですから。これからはもっと気を付けて隠さないといけないですね」

「別に、無理に隠さずとも大丈夫だと思いますけど。……ふぅ、少しすっきりいたしましたわ。何も解決はしていませんが、それでも誰かに感情を打ち明けるというのは良いですわね」

「なら、良かったです。大したことはできませんでしたけど」

「それで良いのです。こればっかりは、ワタクシにすらどうしようもありませんから。アナタがワタクシの気持ちのほんの一端でも理解してくれたのなら、それで充分です。これからも弱音を吐いてしまうかもしれませんが、どうか笑って聞き流してくださいな。……お返しと言っては何ですが、ワタクシもあなたの愚痴を聞いて差し上げますから」


 イネスさんはそう言いながら優しく微笑んだ。……改めて、イネスさんの事がまた一つ分かったかもしれない。ホントは、彼女も年相応の弱さを持ってるんだ。立場とか、プライドとかのせいで、普段は見せないけど。でも彼女はその普段は見せない、たとえ親友であるクリスであっても見せないような一面を、俺に見せてくれた。そう思うと、なんだか嬉しくなってきた。どうやら、俺は自分で思っていた以上に、イネスさんからの信頼を勝ち得ていたらしい。


 ――なら、その信頼を裏切らないようにしないとな。


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