月夜の思い出①
あれは、小学4年生の秋の頃だった。
「ねぇ、あっくん。……私、引っ越すことになったの」
そうクリスに告げられたのは、引っ越しの予定日の僅か二週間前のことだった。後でじいちゃんに聞いた話だけど、クリス自身は引っ越すことももっと早くから知っていたらしい。……でも、言えなかった。言った後、俺がどんな反応をするのかが怖かったから。そして何より、口に出してしまうことで、別れをどうしようもなく実感してしまうから。……そして、クリスが恐れていた反応そのものを、あの頃の子供だった俺は無意識に実行してしまっていたんだ。
――クリスがいなくなってしまう。
あの頃の俺には、その事実はとても耐えられるものではなかった。お互い物心つく前からずっとそばにいた、幼馴染以上の関係だったクリス。そんな、近くにいるのが当たり前で、クリスのいない世界を知らない俺に、“クリスがいなくなってしまう”という事実はあまりに重すぎたんだ。だから――
「……あっくん?」
「あ、ごめん。……ちょっと用事あるから、先に帰ってて」
「……うん」
秋の長雨が校舎の窓を容赦なく叩いていたあの頃、俺はクリスを遠ざけてしまった。なんでそんなことをしたのか、今になっても確固たる理由は思い浮かばない。強いて言えば、そう……怖くなってしまったんだろう。近いうちに会えなくなってしまうクリスに、声を掛けるのに臆病になってしまったんだ。――だから、すれ違ってしまった。
――そして、そんな不毛な日々は、クリスが引っ越す前日まで続いてしまった。
*
「……ただいま、じいちゃん」
やはりこの日も、クリスとは帰らず一人で下校した。……本当は、クリスと話をしたかった。でも、何を言えばいいのかも分からないし、なによりクリスにはもう嫌われたと思っていたから、会いに行こうとはしなかった。
重い足取りで自分の部屋に戻り、手につかない宿題とにらめっこしながら、どうしようもなく答えのでない問いを延々と頭の中で繰り返す。
“本当に、これでいいのか?”
明日の朝には、クリスはこの町から引っ越して行ってしまう。多分、ほとんど話す暇もないだろう。だからきっと、話をするなら今日がラストチャンスだ。それは、あの頃の子供だった俺でも理解していた。……それでも、クリスに会いに行こう、と決意することはできなかった。どうしようもなく子供で、どうしようもなく臆病だったあの頃の俺には、それで後で後悔することが分かっていながらも、なにもせずに時間が過ぎるのを待つことしか出来なかったんだ。
「……はぁ」
ため息を吐きながら、窓の外の景色を虚ろな目で眺める。珍しく快晴だった今日の空は、その鮮やかすぎる茜色から、刻一刻と夜の闇へと移り変わろうとしていた。
*
それは、空の色がほとんど夜へと変わってしまった頃のことだった。
部屋のドアが、音を立てて開けられた。開けたのはもちろんクリス……ではなく、この家の主である俺のじいちゃんだった。普段はどんな時でものんびりとした姿勢を崩さず、穏やかな笑みを常に浮かべているはずのじいちゃんが、焦ったような表情を浮かべていた。俺の記憶の中でも、あんな表情をしたじいちゃんを見たのはこの一回きりだ。
「晃、クリスちゃんがどこにおるか知らないかい?」
「……知らないよ、そんなの」
俺の返答を聞いて、じいちゃんの表情はより一層焦りを増した。
「じいちゃん。……クリス、なにかあったの?」
そんなじいちゃんの表情を見て、流石の俺でもクリスになにかあったことくらいは分かった。
「あぁ……そうだねぇ……うーむ……」
じいちゃんは、俺に内容を教えるか迷っている様子だった。……まあ、無理もない。あの頃の俺はまだ小学生で、時間だってもう遅い。とてもじゃないが、事情を話せる状況じゃなかったはずだ。
「……まあ、いいか。その、な……、クリスちゃんが、どこかにいなくなってしまったんだよ」
それでも、じいちゃんは教えてくれた。……きっと、俺の気持ちを汲んでくれたんだろう。
「え……。クリスが?」
「ああ。……今さっきクリスちゃんのお母さんから聞いたんだよ。もしかしたら晃なら知ってるかもしれんと思ったんだが……。なにか、心当たりは――」
そんなじいちゃんの質問に答えもせずに、俺は部屋を飛び出した。乱暴にスニーカーを履いて、夜の帳が落ちる寸前の町へと駆け出した。……完全に、無意識の内の行動だった。気づいたら飛び出していて、気づいたら駆け出していた。どこにいるかなんて全然分からないのに、あてなんてどこにもないのに、それでも思いつくかぎり、体力の続く限り町中を走り回った。
「クリス! クリスッ! ……あーもうっ、どこにいるんだよっ!!」
小学校にも、商店街にも、公園にも、もちろんクリスの家にも、どこにも姿はなかった。とっくの昔に空は夜の闇に覆われ、やたらに大きい満月が俺を見下ろしている。
「……あ」
その満月を見上げた時、ふとある記憶が頭によぎった。それは、数か月前の夏の記憶。
「ねえあっくん、お月様がおっきくて綺麗だよ!」
夏祭りの後、二人での帰り道でのそんな一言。……手がかりとはとても言えない。根拠なんてどこにもない。でも、なんとなくそこに居る気がしたのだ。
「……よし」
行こう。きっと、そこにクリスはいるから。




